⑦ アラステア・ブランシェットⅠ
士官学校卒業後すぐに父が早世したアラステア・ブランシェットは、十八歳になったばかりの身でブランシェット侯爵を継いだ。
それから怒涛の一年が過ぎた頃、三年間に及ぶ小戦争が勃発した。
そして、ようやく諸々が終わったと思ったら、王の『報奨をくれてやる』発言である。
なんて勝手な。
と、思っていたら今度はメルビル伯爵から、ふざけた手紙が届いた。
アラステアはこの手紙を読んだ時、口から悪態が飛び出した。
次女が病になったから長女を送る、という旨が書かれた遠回しで長ったらしい手紙に、文句の言葉が出ることを誰が責められよう。
しかも、その長女は後妻とその娘を虐めるという底意地の悪い、引きこもりの出不精女だという。
そんな女は報奨とは呼ばない。
隣国の女と番わせない為の無理やりな策に腸が煮えくり返る。
そんなこと、自分は絶対しないのに。
……若いからって舐めやがって。年寄りが一体どれほど偉いというのか。
だから、ブランシェットにやって来る名ばかりの妻のことは『客人』として扱うつもりだった。『招かれざる客』として。
客人だから、嫌がらせをするつもりはない。だが、それまでだ。式だって挙げるつもりはない。
そして、女は己の署名を記した離縁書を置いて自分の足でこの地を去るのだ──アラステアの計画はこうだった。
女は心優しき美しい義妹に嫉妬して虐めるような醜い女なのだから、そのように扱われて当然だ。
なのに、いざ顔を合わせた女からは、底意地の悪い匂いは一切感じられなかった。
いや、そんなまさか、演技に決まっている。
そう思う気持ちと、女の腕の細さから、浮かぶのは『そんなまさか』で。
『まずは謝罪させてください。義妹が病に伏せったとはいえ、わたしのようなものを妻にしなければならなかったこと、大変申し訳ありませんでした』
『では、明日から毎日挨拶をさせていただきますね! あと、できたらお手紙のお返事も欲しいです!』
『旦那様! 訓練お疲れさまです!』
何度断ってもにこにこと笑って『ご挨拶』に来る女に毒気がだんだん抜けていく。
『旦那様、旦那様』
屈託のない笑顔を自分に向ける女に、アラステアはたじろいだ。
そして、自分は何か勘違いしているのではないか、という気持ちに襲われた。
執事のボビーに頼んで調べてみれば、過去にメルビル伯爵家で働いていた何人かから証言が取れた。
調書は彼女がブランシェットにやって来てから三ヶ月も後に読んだのだが、それを読んで、アラステアは彼女に対して感じていた引っかかりや違和感の原因が分かった。
前妻が家を出て、物心がつくころから使用人として……いや、使用人の扱いなんかではない。賃金も休みも貰えず、時には食事を抜かれ、継母と義妹には暴言を吐かれ、父には蛇蝎のごとく嫌われていた。
おそらく、メルビル伯爵はアラステアが彼女を『妻』として扱わないように、あんな失礼な手紙を寄越してきたのだろう。
そして、その策に自分はまんまと嵌ったというわけだ。
『旦那様、お夕食ご一緒してもいいですか?』
『ああ』
『え、本当ですか!? やったー! さあさっ、気が変わらないうちに一緒に食堂に行きましょう!』
アラステアは彼女の誘いに頷いたこの後に、『旦那様、わたし旦那様みたいな可愛い子供が欲しいです』と言われることなど、まるで予想していなかったが、これはまず置いておこう。
彼女は、いつも笑っている──食事を美味そうに食べ、庭では雑草(後のハーブル)を楽しそうに育て、蝶を真剣に追っかけ、付けてやったメイドとは恋愛小説の内容を真剣に感想交換したりと、何をしていても楽しそうだ。
体があまり丈夫ではないのか、熱を出したり、休んでいる姿は気になったが……それを気にする自分が、とても不思議だった。
彼女の誕生日を翌週に迎えたあの日も、彼女は倒れた。
王都で生まれ育った彼女には南部の気候はしんどいだろうと思っていたが、庭で一人静かにぶっ倒れているのに遭遇した時は肝が冷えた。
呼ぶタイミングを見誤り──というより、『呼んでください』と言われて素直にそうするのが恥ずかしく頑なに呼ばなかった彼女の名前を呼ぶほどに動揺していた。
彼女は分からないだろう、目が覚めた彼女を見てアラステアがどれほど安心したかなんて。
知ることはないだろう、アラステアが言わない限り。
そして、言うつもりもない。
◆◆◆
彼女の誕生日は、彼女の希望で街に降りた。
彼女は街へ行く行く馬車の中では息をつく暇もなくぺらぺらと喋っていたのに、街に降りた途端、口を噤んだ。
喋っていれば喧しいのに、喋らなくなると気になるのはどうしてだろう。
武器屋に寄り彼女に渡す短剣を受け取り、パン屋によって二人で公園に行った。
曇り空で、風が気持ち良い天気で、パンを美味そうに食べる彼女を見て、アラステアは落ち着かない気持ちになった。
どうしてだろう。彼女といると、自分の心に不思議なことばかり起こる。
「……誕生日おめでとう、シェリー」
この言葉を言うのに、アラステアは何分もの時間を要した。
彼女は短剣の入った箱とアラステアの顔を交互に三回見て、ようやく「開けても、いいですか?」と聞いてきた。
もどかしいほどに丁寧に丁寧に開けられた箱の中から、短剣を取り出した彼女の、とても嬉しそうに呟いた言葉に安堵と嬉しさが込み上がる。
──その時、薄鼠色の瞳の真ん中の虹彩が煌めいた。
アラステアはそれをとても綺麗だと思った。