⑭ サファイア・メルビルⅡ
サファイアが、ブランシェットにやって来たのは衝動的行動の結果だ。
一ヶ月もかけて到着したブランシェット侯爵家は無骨で、飾り気がない岩の塊のような城だった。
おお、嫌だ。野蛮人の館だ。
そう思った同時に、こんな城の地下にはさぞや立派な牢か、拷問部屋があるのだろうという期待で胸が高鳴った。
そこで、義姉は日々を暮らしているに違いないと思うと、口の端が泳いだ。
美しいサファイアが嫁ぐと喜んでいた野蛮な化け物は、醜女のゴミを貰い、さぞやがっかりしたことだろう。
サファイアは、その野蛮人がどのように義姉を甚振っているのか見たくなった。
話題の商品を開発したのが義姉なんて信じられなくて。
あの女の絶望を見たくて。
──なのに、どうして、義姉は笑っているのだろう?
ここでお待ち下さいと言われて三十分も放置され、わざわざこちらから出向いて来た先はブランシェット家の騎士達の訓練場だった。
「シェリーお義姉様ぁ?」
今まで本人に向けて呼んだことのない呼び方に、義姉はゆっくりとこちらを向いた。
サファイアは、目の前の光景が信じられなかった。
「……は?」
一瞬、目の前にいるのは義姉ではない別人かと思った。
くすんで薄汚れた灰色の髪は、輝く銀色に。
淀んだ汚らしい泥色の死んだ魚のような目には、光が宿っている。
青白かった肌は白く透明感がある印象に。
痩けていた頬は、ふっくらと柔らかそうでほんのり朱色染まっている。
猫背で枯れ枝のようだった体は、華奢な肩はそのままにちょうどよく肉がつき、背筋は真っ直ぐ伸びている。
着ているドレスは傍目から見ても良い生地で。
淡い緑色と白を基調とした、ゆったりと締め付けのないもので、なのに野暮ったさは少しも感じられない。
──気に入らない。
「……サファイア?」
かつてサファイアのことを『お嬢様』と呼んでいた義姉をギロリと睨むと、義姉の周りにいた騎士達が義姉を隠すように前に出た。
──なんて、生意気な……!
「二人で、お話しましょう、お義姉様」
苛立ちは上手く隠せなかったが、ここに騎士達がいたおかげで怒鳴らずに済んだ。
だって、彼らはいざとなったら色仕掛けをしなければならない存在だから。
なのに、
「『嫌』──」
義姉の前にいる若い騎士が、大真面目に裏声で言い、「──と、奥様は仰っております」と言ってから、「え? 何すか? ……ありのまま言うなって? でもぉ、言うべきことはビシッと言わないとだめっすよー。あの人、奥様の胎教に悪いっすよー?」と小声で続けた。
「お嬢様、お約束もなしなのは無作法ではありませんか?」
「……何ですって?」
「我がブランシェット家の主は、奥様をとても大事にされております。ですので、奥様が二人きりで話したいと言わない限り、それを許すことはできません。奥様は、お嬢様と二人で話したくないそうです。主も今、城を空けておりますゆえ、おもてなしはいたしません」
「……は? 何?」
「『どうぞ、お引取りを』と、奥様は仰っております。……え? まあまあ。いいからいいから。ここは俺に任せてくださいってー」
──前者はサファイアに、後者は義姉に向けられた言葉だ。
温度差がすごい。声色も向けられる視線も全くの別物だ。
「はあああ!? 何ですって!?」
何が、起こったのだろう。
声を荒らげて足を一歩踏み出すと同時に、両腕をがしっと掴まれて、気付いた時にはブランシェット城の門前だった。
連れてきたメイドはどこに行ったのか、姿がない。訓練場にいた時に、二人付いてきていたはずなのに。
……二ヶ月前より新たにサファイア付きになったメイドの二人が、『どうぞ、お引取りを』とサファイアが言われたのを聞いて、この後一ヶ月かけて帰る馬車の中での苦行に慄き、逃げ出したことをこの時のサファイアはまだ知らない。
「……何なの?」
騎士達に睨まれながら、サファイアが呆然としていると、「そこの」と声をかけられた。
なんという耳が喜ぶ声だろうと、振り向くと絶世の美男子がいた。
顔にうっすらと傷はあるが、それがあっても余りあるほどの美貌に、数拍見惚れてしまう。
──こんな野蛮人の住まう地に、自分の運命の人がいるなんて……。
「主ぃ。それ、奥様のやっべえ義妹っす。さっき、奥様がそれに怯えてぷるぷる震えてたっすよー」
先ほど、義姉の言葉を伝え、サファイアの左腕を持ち上げた失礼な若い騎士の言葉である。
なんて礼儀のない男なのか……いや……待て。
この失礼な騎士は、今、この極上の男を『主』と呼んだだろうか?
サファイアは、ぱああっと表情を明るくして科を作った。
「あなたが……アラステア・ブランシェット侯爵、様ですの? あ、あたくし、サファイア・メルビルと申します。シェリーお義姉様の、義妹です。あなた様と、結婚するはずだったサファイアです。ああ、あたくしが病に倒れなければ、今頃、あたくし達は夫婦でしたのに……神様は本当に意地悪だわ……そう思いませんこと?」
潤んだ瞳で見上げれば、あれ?
予想していた表情ではない。
──どうして……?
「よくもそんなことが言えたものだな。お前のことなどとっくに調べているというのに……ああ、クソ。チャーリー、マック、これの始末を頼めるか?」
「いやぁ、俺は始末したいのは山々っすけど〜。でも、なあマック?」
「何だよ、チャーリー。俺に振るなよ。……主様、だめですよ。奥様が何もしないでと仰っていたではありませんか。始末なんてしたら、また『無視の刑』ですよ。ちょっと前に過保護が過ぎて、奥様に丸一日も口を利いてもらえなかったのを忘れたのですか?」
「ふん、冗談だ。……シェリーの義妹御を馬車に乗せて差し上げろ」
◆◆◆
馬車の中で一人、頭が痺れたような感覚の最中、サファイアは思い出した。
……この後、さきほど突発的に思い付いたシェリーの暗殺を実行してはいけない。
そんなことをしたら、サファイアの破滅は待ったなしだ。
それに、サファイアが手を汚さなくとも、ほうっておいてもシェリーは長く生きられない──……
この二ヶ月で随分とサファイアの評判は落ちた。
今や王都では、シェリーの悪行を信じる者はいないと言っても過言ではない。
もっと早く思い出していたら、と思うが……今からでも十分間に合う。
僥倖だと思おう……。
まずは一ヶ月後、メイベル家に帰ってからシェリーに手紙を書くことから始めよう。
そして、人生をやり直すのだ。