⑫ サファイア・メルビルⅠ
サファイアの醜い義姉が、南部の醜男に嫁いで十ヶ月経ったある日のお茶会にて。
グレッチェン男爵令嬢が、サファイアに自慢げに見せたのは現在入手困難と言われている化粧水とハンドクリームだった。
かの化粧水とハンドクリームは、美容研究家と言われて王都の女性達に尊敬されているイグノトフスキー夫人が、先日発売された婦人雑誌のコラムにて紹介されたもので、化粧水は肌をもちっと弾力のあるものにし、ハンドクリームは手を白くすると大絶賛された代物。
特に化粧水は、実業家カパルディ夫人により買い占められ、現在王都では手に入れることのできない珍品であった。
そんな商品を手に入れることができるのは、コネクションと金がある者だけ。
つまり、皆に羨ましがられる存在というわけだ。
案の定、グレッチェン男爵令嬢は自慢気に笑っている。そして、そんな彼女を周囲の令嬢達は羨ましがる。
──成金の分際で生意気な。
サファイアは、不機嫌を隠そうともせずにそう思った。
……だけど、本当は羨ましい。欲しくて欲しくて堪らない。そして、自分もあんな風に注目されて、羨ましがられたい。
父にもう一度強請ってみようかと思うのだが、父は何やらいい顔をしない。
それどころか機嫌を悪くしてしまうのだ。
母も、サファイアと一緒にイグノトフスキー夫人のコラムを読んだ時は乗り気だったのに、今この話をしようものならとても嫌そうに鼻の頭に皺を寄せる。
なぜだろう……今まで欲しいものは全てサファイアの手に入れてくれていた両親なのに。
「サファイア嬢、グレッチェンが化粧水をワンプッシュ試させてくださるそうよ?」
ぎちぃ、と持っている扇子が軋んだのは、サファイアが強く握ったせいだ。
成金令嬢の親友のアマンダがサファイアに無邪気に言った言葉に、サファイアのこめかみが僅かに動く。
アマンダの後ろで、口の端を上げるグレッチェンを見て、サファイアは自身の怒りのボルテージが上がるのが分かった。
以前、グレッチェンの意中の相手をからかって遊んだ仕返しだろう。
サファイアは「けっこうよ」と言って、そっぽを向き、「あたくしには必要ないもの」と嗤った。
あたくしは美しいからそういったものは必要ないの、という意味を込めたその顔に、グレッチェンの顔がカッと赤らみ、アマンダが睨んできたおかげで、怒りはすーっと消えていく。
しかし、周囲の令嬢からのサファイアに向けられる目は冷たいものだった。
まただ。
サファイアは、「今日はこのへんで失礼するわ」と言って席を立ち、馬車を目指す道すがら、おどおどする年若いメイドの頬を思い切り引っ叩いた。
イライラしていた、とても。
醜い義姉が嫁いでから、サファイアの苛立ちは日に日に膨れ上がっている。
義妹を虐める義姉の図があってこその、サファイア・メルビルだったのだ。
外に出れば、健気で可憐で、男女問わず守ってあげたいと思われていた。
家に帰れば、八つ当たりのできるドアマットがあり、ストレスはいつも発散できた。
両親もあの生きている価値のないゴミを踏みつける為に、サファイアに過剰なまでの愛を注いだ。
仕事も、宿題の刺繍も詩歌も、全部やらせた。
できるまでは食事を与えなかったし、残飯を床から食べさせた。
できたとしても難癖を付けて、暗くて狭い部屋に閉じ込めた。
……あの頃は楽しかった。
サファイアはすすり泣くメイドの声を聞きながら、馬車の外の移りゆく景色を見て、溜め息を吐く。
だけど、あの哀れで醜い義姉は今頃、南部の醜男とその家の者達に虐げられて暮らしているだろう。
そう思うと、少し胸がすいた。
戦闘狂いの化け物、アラステア・ブランシェットは顔に醜い傷があるという。
しかも大の女嫌いだとか。
結婚の話が来た時は絶望した。
なんで自分がそんな化け物の元へ行かねばならないのかと。
だから、父に頼んで義姉を国境の化け物の元へ送るように言った。
父は、笑顔でサファイアを抱き締めた。
さすがだ、と言って。
『ブランシェット侯爵は、加虐趣味のある変態なんだって。加虐趣味の意味知ってる? 外国から買ってきた特殊な拷問器具で、ゆっくり時間をかけて甚振るのが好きって意味よ。高尚な趣味よねえ? そう思うでしょ? お前にぴったり。しかも、すっごい醜男なんですって。国境の守り人なんて、大層な二つ名があっても、そんな男との結婚なんて、あたくしは絶対に嫌。それに、あたくしはお前と違って美しいから、化け物にはもったいないの。分かるでしょ? だから、釣り合いが取れるお前が嫁ぐの。穀潰しのシェリー、ようやく役に立つ時が来たんだもの、嬉しいでしょう?』
父が義姉に話をした後すぐに、サファイアは義姉を呼びつけて言った。
だけど、予想していた反応と少し違った。
いつもなら昏い色を宿す瞳に、光が見えた気がしたのだ。
「……ううん、そんなわけないわ」
そんなわけない。そんなことは許されない。
──あの女は不幸でなければいけない。
サファイアは、そういう風に育てられたのだから。
「あれは今、どんな絶望を抱いているのかしら……」
ぼそりと呟かれた言葉を聞いたメイドは、ただ声を押し殺し泣いていた。




