君じゃなきゃだめ、なんてことはない
隣のクラスの宇佐川由妃という女子は、うちの学校じゃちょっとした有名人だった。あまりよくない意味で。
彼女はとにもかくにも惚れっぽいのだ。
誰かに告白してフラれた翌日には、また誰かに告白している。特定の男子と付き合っているときには誰にも告白しないが、別れた翌日には以下略。
「好きです!!」
――そんな彼女に、俺は告白をされている。現在進行形で。
「ひ、人がフラれたところ見たら、普通は面白がったり同情したりとかするのに、塩村くんは完全に興味ない感じで、それがかっこいいなぁって思って……」
もじもじと指をもてあそびながら、宇佐川は頬を染めて俺のことを見つめてくる。
彼女の言うように、俺は昨日、彼女がフラれる現場に出会した。今と同じ、体育館裏で。
本当に一切興味がなかったからスルーしたのだが、それがどういうわけか、この惚れっぽい女の琴線にふれてしまったらしい。
「まだあたし、塩村くんのこと全然知らないけど……! それでも好きなの!」
輝く瞳は、長いまつ毛に縁取られている。
真面目な奴が多いうちの学校じゃ珍しく、宇佐川はほどほどに化粧していた。緩くパーマのかかった茶髪と相まって、派手に見える外見だ。ずっともじもじしている指先も、淡いピンクのマニキュアに彩られている。
たぶん、可愛いほうなんだろうな。宇佐川の惚れっぽさを知ってる奴の中でも、こいつから告られたら嬉しく思う奴はいるんだろう。
残念ながら、俺はまったく嬉しくないのだが。
「だから……その……! つ、付き合ってください!」
「無理」
即答すると、宇佐川は傷ついたように息を呑んだ。指の動きが止まる。
「……それ、は……あたしが、『惚れっぽい』から?」
うつむいて、震えた声で訊いてくる宇佐川に「そうだな」と肯定を返す。
「どうせすぐ、別の奴好きになるんだろ。俺じゃなくても全然いいんだろうし、付き合うわけねぇじゃん」
言いすぎてるな、と頭では理解していた。フるにしたって、もう少し優しくてまともな言い方があるというものだ。
でも別に、宇佐川と今後関わることもないだろうしいいか、と思ってしまった。来年のクラス替えで同じクラスになったとしても、なんとかなる。
「余計なお世話だろーけど、相手のことよく知る前に告らないほうが絶対いいよ。こうやってひどいこと言われるかもだし。俺に告ったこと、今後悔してるだろ?」
「っ――してない!!」
キッ、と力いっぱい睨みつけられた。予想外の反応に、目を瞬いてしまう。
「言い方冷たいけど、でもそんなふうに忠告してくれるのも優しくて好きだなって思うし……そもそも! 惚れっぽい女って言われてるのも軽い女って言われてるのも知ってるけど、でもあたし、ちゃんと毎回本気で好きだもん!」
「お、おぅ……」
「嫌なところ知ったって、好きになったきっかけがなくなるわけじゃないし! いくらあたしが惚れっぽくていろんな人のこと好きになるからって、みくびらないでよね! 今まで、好きになったこと後悔した人なんて一人もいないんだから!!」
ふんっと鼻を鳴らした宇佐川は、そこで正気に返ったかのように押し黙った。血色のよかった肌が青ざめていく。
「な……生意気なこと言ってごめん、あたしってほんと、すぐカッとなっちゃって、あの、ごめんね」
慌てふためきながら、彼女は数は後ずさった。完全に『逃げ』の体勢である。
今にも走り去ってしまいそうな宇佐川を見て――つい、言葉がこぼれてしまった。
「こっちこそごめん」
「え」
目を丸くした宇佐川に、「あ」と口元を押さえる。
「……あ、って何?」
「いや……ごめん、謝るつもりとか全然なかったんだけど……」
「……それって、謝るようなことやったつもりはあったってこと?」
怪訝そうに俺の顔を見つめてくる宇佐川。
「うん」と小さく肯定しながら、そろりと視線を逸らしてしまった。
「……フラれ慣れてるだろうし、どうせそんな本気じゃないんだろうし。宇佐川なら、こんくらい言っても大丈夫だろって思って、あえてひどいこと言って八つ当たりした」
あ~……くそ、八つ当たりしたとか自分で言うのマジでない、だっせぇ……。
謝るつもりなんて本当になかったのだ。八つ当たりしたうえで謝りもしない、最低な人間になりたい気分だったから。
「……でも、宇佐川は本気で俺のこと好きになってくれたみたいだし。傷つけっぱなしにすんのはひどすぎると思ったらつい謝ってて、いや、許してもらうつもりもねぇんだけど、なんか、ほんとに……つい……」
もごもご、声が小さくなっていく。
宇佐川はどこかぽかんとした顔で、黙って話を聞いてくれた。もしかしたら、呆れて声も出せないのかもしれない。
「そもそも本気じゃなかったとしても、告白してくれてる相手に八つ当たりとか人として終わってんだけど、人として終わりたい気分だったっつーか。それならそれで初志貫徹しろよって話なんだけど」
結局こんなに言い訳がましく、だらだらと謝ってしまうくらいなら、最初から「ありがとう、でもごめん」だけで済ませておくべきだった。
……惚れっぽい人間が、嫌いだった。
恋とか愛とかって、もっと大事にされるべきもんじゃねぇの?
なんて、初恋も知らない俺に分かることではないが。
惚れっぽい人間……具体的には両親に振り回されることが多く、つい昨日もそれで迷惑を被ってイライラしていたのだ。
宇佐川への態度は、完全なる八つ当たりだった。
無関係な人間に八つ当たりして不快にさせるような人間なら、誰かに迷惑をかけられたって当然だと、無理やり納得できる。
「とにかく、ごめん。好きになってくれたのは嬉しい、ありがとう。それじゃあ」
早口で言い連ねて、くるりと背を向ける。昼休みもあと少しで終わりそうだし、早く教室に戻ろう。
歩き始めたところで、制服のシャツの裾をぐいっと引っ張られた。
「待って!」
顔だけ振り返ると、悲しそうな顔をした宇佐川が目に入った。
「ゆ、許してもらうつもりないって言ってたけど、あたしは許します。気にしてないよ」
ぎゅっと、シャツが強く握り込まれる。
「だから、そんな悲しい気分にならないで」
「……『そんな悲しい気分』?」
「人として終わりたい気分とか! そういうの……悲しいじゃん……。わかったようなこと言えないけどさ、でも塩村くん、やっぱり優しい人みたいだし」
何かを耐えるかのように、宇佐川は唇を強く引き結んだ。それから、小さく開けて息を吐く。
「さっき言われたこと、あたしが気にしてなければ、塩村くんはひどいことしたことにならないよね。なら人として終わってないし! そんな気分さっさと消すために、ええっと……美味しいものとか食べよ! 奢るよ!」
「……絶対気にしてるだろ」
「気にしてないってば! 気にしてるってことにしてもいいけど、それならなおさら何か食べに行こっ! デートしてくれたらなんだって許せるんだから!」
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、とシャツの裾が引っ張られる。
宇佐川の顔は真剣で、本気で言っているのが伝わってきた。うなずかないとずっと放してくれなそうだ。
無理やり振り払うこともできなくはないが、これ以上はさすがに良心がストップをかけてくる。
思わずため息をつくと、了承の気配を察したのか、宇佐川の顔がぱっと明るくなった。
「……どっか行くんだったら俺が奢る。俺が奢られんのはおかしいし」
「えっ、そ、そうかな……? うーん、じゃあ自分の分はお互い自分で!」
「まあ、それはそれでいいよ」
「デートしてくれるのは確定ってことだよね、えへへ。ありがとう、あたしのほうが嬉しくなっちゃうのもおかしいんだけど」
ようやくシャツから手を外した宇佐川が、恥ずかしそうにはにかむ。
あまりにもいい子で、さっきまでの自分の行いを鑑みて死にたくなった。これだから八つ当たりは何もいいことがないんだ。
つーか、惚れっぽいうえにこんないい子ってどうなんだ? 都合よく利用されてポイされる未来しか見えない。
大丈夫か? 今までひどい目に遭ってきてないか?
「ね、今日の放課後空いてる?」
俺の内心なんて知りもせず、宇佐川はにこにこで俺の顔を覗きこんでくる。
「……空いてる」
「やった、じゃあ教室まで迎えにいくから、待っててね!」
「わかった。とりあえず、あー……そういうの、やめてくれ」
「……そういうの?」
宇佐川はきょとんとし、それから不安げに眉を下げた。
「も、もしかして、強引に誘われたの嫌だった……?」
「そうじゃなくて……」
すぐに否定をしつつ、口ごもる。
正直に説明するのはハズいが、かといって言わないわけにもいかない。最低な人間を演じるには、少し頭が冷静になりすぎていた。
「『そういうの』っていうのは、こっちの態度に見合わないくらい優しくしてくるとか……。めちゃくちゃいい子じゃんって思わせてくるとか、そういうこと」
「え、いいことじゃん!? だめなの!?」
「だめだろ!」
大声で返してしまった俺を、宇佐川はまじまじと見つめてくる。
今自分がどういう顔をしているのか、なんとなくわかってしまっているだけに、無言で見つめられるのはきつい。
徐々にキラキラとしていく宇佐川の瞳から、目を逸らす。
それが宇佐川にとっては決定的だったのか、彼女は上ずった声で訊いてきた。
「えっ……もしかして脈アリ?」
「知らん脈とか恋とか愛とか。俺はもっと、なんか、こう……仮に恋愛するとしても、唯一無二の恋愛がしたいんだよ」
「い、意外とロマンティスト!? いや塩村くんめっちゃ顔赤いし! 押せばいけるように見えちゃうんだけど……!?」
「押すな絶対押すな。俺じゃなきゃだめってわけじゃないくせに」
これは押せって意味じゃないからな、と念押ししても、宇佐川は「えぇ~?」とにやにやするだけだった。絶対通じてない。
異常な顔の熱さから予想はできていたけど、やっぱ顔赤くなってんのか、とショックを受ける。
恋愛なんて、一生する気がなかった。いや、今宇佐川に惚れたわけじゃないんだけど。
断じて違うんだが、こう……女子に対してちょっといいな、と思う程度のことすら避けてきたというのに、こんな顔を人にさらすことになって、自分自身に失望しているというか。
こんなことでチョロすぎないか? あの両親の血を引いている、と感じてしまうのが嫌だった。
「……まあ確かに、塩村くんじゃなきゃだめ、とかは言えないよ」
にやにやを引っ込めて、宇佐川が俺のさっきの言葉に言及する。遅れて反応するくらいならスルーしてほしかった。
「だって、素敵な人っていっぱいいるでしょ? あたしにとって、そのうちの一人が塩村くんだけど……そのうちの一人、ってだけだし」
惚れっぽい割に、かなり冷めた考え方をするんだな。……むしろ、だからこそ惚れっぽいのかもしれない。
惚れっぽいというのは、悪いだけの性質ではない。そうわかっていても、染みついた思考が『悪いもの』と判断してしまう。
「――でも、」
宇佐川が何か言いかけたところで、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
「あっ、ご、ごめん、長話しすぎちゃったね! それじゃあ、また放課後!」
「……おう」
手を振って走り去っていく宇佐川を見送って、俺も早足で教室に向かう。
予想外の展開になってしまった。
でもまだ大丈夫。俺はあれくらいのやりとりじゃ宇佐川のことを好きになったりしない――いや、人として好ましいとは思うが。
それに宇佐川だって、あれだけこっぴどくフラれたのだから明日にはまた違う奴を好きになっているだろう。
その日の放課後、宇佐川は宣言どおり俺のことを教室まで迎えにきた。
何を食べたいか訊かれて、宇佐川の好きなもので、と答えたら何やら変な反応をした後ケバブの店に連れてこられた。
「クレープと迷ったんだけど……こっちのほうがテンション上がらない!?」
「確かにそう……かもしんないけど、デートっぽさが強いのはクレープじゃね?」
「あっ、ほんとだ……。い、いやでも、塩村くんが元気になるのが一番だからね!」
二人して一つずつ買って、近くのベンチに並んで座る。女子とこういうのをやるのが初めてだからか、なんか無駄に緊張する。
いただきます、と礼儀正しく言ってから、宇佐川はケバブにかじりついた。俺も一口食べてみた。……美味い。
「おいし?」
「うん、美味い」
「よかったぁ。元気出そう?」
「……うん。宇佐川、口の端にソースついてるぞ」
「えっ、やだ、ごめん」
なぜか謝って、宇佐川は慌ててティッシュで口元を拭いた。
「取れた?」
「うん。ケバブって、初めて食べたけど食べにくいな」
「って言う割に塩村くんは綺麗に食べてるんだよね~」
「……まあ」
みっともなく食べる様を見るのが大嫌いな人が、大昔から身近にいたもので。
なんて話は宇佐川にする必要もないので、あいまいにうなずいておく。
街行く人とか、鳩とか、空とか。
そんなものを見ながら、無言で食べ進める。宇佐川は別に気まずそうじゃなかったが、俺のほうが沈黙の時間に耐えられなくなってきた。
「……宇佐川ってほんといろんな奴に告ってるけど、なんでそんなすぐに人のこと好きになれんの? いや、話したくなかったら別の話題でいいんだけど」
「……ううん、大丈夫だよ」
小さく笑って、宇佐川は答えてくれた。
「でも、なんで、ってちゃんと説明するのは難しいなぁ。素敵だなって思うところ見つけたら、すぐ好きになっちゃうから。同時に何人も好きになることはないから、あたしの中で何かちゃんとはっきり決まってるのかもしれないけど……」
「え、あのスパンで告白してんのに、同時に好きになることないんだ」
「……塩村くん、それはひっじょぉに失礼です。あたし、こう見えて一途な女なんだから!」
胸を張られたが、なかなかに信じがたい。
いや、両親と目の前の女の子が別の生き物であること自体は理解しているのだが。
「フラれた時点できっぱり諦めるけどね」
「……俺のことも諦めてくれた?」
「ざ、残酷なこと訊くね!? もちろん諦めました」
「押せばいけそうとか言ってきたのに?」
「それは……そうだけど! でも、しつこくして嫌われたくないから」
確かに、『デート』なんて表現をしながらも、今ここにあるのは友達の空気感だけだ。
よかった。それなら宇佐川との関わりもここまでだろう。……今後無駄に傷つける可能性もなくなった。
「なんかすっごくほっとした顔してない? 気のせい?」
「気のせい。そういえば、昼休み言いかけてたことって何だった?」
「話の逸らし方雑だな~! いいけど、えと、何話してたっけ……ああ」
視線を上にやった宇佐川は、すぐに思い出したように俺の顔を見た。
「素敵な人は世界中にたくさんいるから、この人じゃなきゃだめ、なんてあたしには言えない。でもそれでも、その人のことを好きな間は、隣にいたいな、幸せにしたいなって思うから……その気持ちは、毎回ちゃんと全部本物だから。あたしとしては、それで十分だと思っちゃうんだよね」
塩村くんは違うだろうけど、と宇佐川は最後に添えてくれた。
お互いの恋愛に対する考え方がまるっきり違うことは、今日の短いやりとりだけでも伝わっているんだろう。
俺の考えを話す番だと無言で促されているように感じたので、慎重に口を開く。
「……俺は、この人じゃなきゃだめ、って人に会いたいよ。それくらいじゃなきゃ、相手を幸せにできる自信ねぇし。
その人じゃなくてもいいんなら、その人を幸せにするために必死になれない気がする。だったら、その人と付き合ったり……結婚したりするなんて、やめたほうがいいと思う」
こういう個人の考えを改まって誰かに話す、という経験は初めてだった。心臓が変なふうに、バクバクと音を鳴らしている。
「ま、あくまで俺の考え方だよ。宇佐川なら、好きになった人みんな幸せにできそうなパワーあるし、いいんじゃね? ……いや、いいんじゃね、って俺が言うことでもないんだけど……」
どの立場で物を言っているんだ、俺は。
少し恥ずかしくなって、残りわずかになっていたケバブを一気に口に放り込む。噛んでいる間は、しゃべらなくて済むから楽だ。
宇佐川は黙りこんで何か考えている様子だったが、やがて「……なるほど」と神妙につぶやいた。
「なにがなるほど? なんか納得する要素あったか?」
「いや、納得っていうかね……うぅん……。す、好きだなぁって。思って。考え方がね!」
「あー、まあ全然違う考え方だと新鮮に感じるだろうしな」
「うん……そう、だよね。おかしくないよね。うん、そうだと思う」
奇妙な様子に、首をかしげる。けれど宇佐川は、それ以上説明をする気はないようだった。
宇佐川もケバブを食べ終えたので、店の近くに設置されているゴミ箱にゴミを捨て、駅に向かう。
「それじゃ」
「うん、また明日!」
改札で別れて、それぞれが使うホームへ行く。
俺と宇佐川の関わりはこれで終わり――だと、思っていたのに。翌日から、なぜかよく宇佐川に絡まれるようになった。
* * *
「塩村くーん、数Aの教科書忘れちゃった、貸してくれない?」
「……」
「無言はさみしいよ」
「う、ごめん……どうぞ」
「んふ、……ふふ、ありがとう」
「塩村くん! 今日暑いからポニーテールにしてみたんだけど、どうかな!?」
「え、どう……? に、似合うんじゃね?」
「えへ、ありがと~!」
「なんでわざわざ見せにきたの?」
「可愛いとか似合うとか言ってもらいたくて。塩村くんのことが、す……好きなので?」
「なんでそれまだ続いてるんだよ……」
「さてなんででしょう~」
「塩村くん、この前のケバブのお店ね、期間限定の新しい味やってるの! 行かない?」
「何味?」
「ひみつ!」
「ええ……いいけど……」
「やった、じゃあまた放課後お迎えいくね!」
「いいよ、今度は俺が迎えにいく」
「ほぇ……あ、ありがとう」
なんてことが三か月も続けば、さすがにおかしいなと思う。いや、もっと早くおかしく思えって話かもしれないが、友達として気に入ってくれたうえでからかってるだけなのかな、とか……。
ところがこの三か月間誰にも告白をしていないようなので、もしかしてこれはからかわれているわけじゃないのでは、と思い当たったのである。
「……押すなって言っただろ」
今日の放課後誘われたのはクレープ屋である。
たっぷりのクリームと苺が入ったクレープを食べながら切り出せば、宇佐川は「今!?」と驚愕の声を上げた。
「え!? あたしが押してることに気づいてて許してくれてたんじゃないの……!?」
「……ただからかわれてるんだと思って」
「今までの言動全部からかうためだったら、あたし最低な女じゃん!?」
「そもそも俺のこと諦めたって言ってただろ? なら、その後も好きとか、普通に考えらんないし」
「だ、だって! その後改めて、す……好きになっちゃったんだもん!!!!」
耳がキーンとなりそうなほどにクソデカい声だった。店内の人たちの視線が集まる。
かあっと顔を赤らめた宇佐川は、小声で続けた。
「塩村くんに……『この人じゃなきゃだめ』って思ってもらえる人になりたいって、思っちゃったの」
クレープを握る手が、そわそわと動く。今日の爪には、オレンジ色がグラデーションで塗られている。
「し、塩村くんは、そう思える相手のこと、ほんとに必死で幸せにしようとするんだろうなって思ったから。そんなふうに必死になってもらえたら、すっごく嬉しいなって」
「……買いかぶりすぎ。俺がテキトー言ってるかもしんないだろ」
「あの顔で本気じゃないんなら、あたし人間不信になるよ!!」
睨まれて、たじろぐ。
……あのとき俺は、どんな顔をしていたのか。
「人を好きになるってことを……塩村くんみたいに深刻に考えてる人、会ったことない。会ってるのかもしれないけど、それをあたしに話してくれたのは塩村くんが初めてだった」
「深刻って……別に、普通だろ」
「ううん。人と付き合うとき、相手のこと幸せにできる自信があるかないかなんて気にしない人のほうが多いと思う。……あたしも、自信があって告白したり、付き合ったりしてたわけじゃないもん。幸せにしたいなとは思ってたけど、できるかどうかなんて……考えてなかった」
落ち込むように、宇佐川は目を伏せる。けれどすぐにまた、俺のことをまっすぐに見つめてきた。
「塩村くんのそういうところが、本当に素敵だと思ったの。だからまた、す、好きに、なっちゃった。三か月も、許してくれてるんだと思ってしつこくしちゃってごめんね」
「……謝るようなことじゃ、ないけど」
「じゃあ……付き合って、くれる?」
あの告白のときより、緊張しているのが伝わってくる。あのときよりもずっとずっと真剣だ。もちろん、あのときが真剣でなかったというわけではないのだが。
時間稼ぎのように、ごくりと唾を呑みこむ。
決まり切った答えしか返せないのが、彼女に対してとても不誠実な気がした。口が開けない。
だから答えの代わりに、縋るような問いを投げかけた。
「……それは、俺じゃなきゃだめ、なわけ?」
宇佐川は言葉に詰まって、視線を揺らす。
それだけでわかってしまったけれど、宇佐川の口から聞きたくて、答えを待った。
「あたしは……やっぱり、塩村くんじゃなきゃだめ、とは思えない。塩村くんにもう一回フラれたら、またすぐに別の人を好きになる」
「……うん」
「っでも、今好きなのは塩村くんで! 塩村くんを好きでいるうちは、他の人のことなんて好きにならないし! 隣にいたいのも、幸せにしたいのも、塩村くんだけだよ」
宇佐川の目に涙が溜まっていく。瞬き一つでこぼれ落ちそうで、だけど宇佐川が瞬きをしないからいつまでもこぼれない。
「塩村くんにはあたしじゃなきゃだめって思ってもらいたいのに、あたしはそう思えないなんて、ふざけてるよね。ごめんね。でも、す、好きなの。ほんとに。三か月仲よくしてもらって、まだまだ知らないところがたくさんあるけど、一つ知るたびに一つ好きなところが増えるの」
「……ううん。ふざけてなんかない。ありがとう」
――彼女の真摯な告白を聞いていても、頭の片隅から離れないのは両親のこと。
お互いすぐにいろんな奴と不倫をするくせに、互いへの独占欲は持っていて、喧嘩ばかりで口論や暴力は日常茶飯事。こんな夫婦別れたほうが幸せだろ、と毎日強く思う。
けれどなぜか、別れないのだ。不倫だってし続ける。お互いのことが好きらしいのに、すぐに他の奴のことも好きになるから。
腕をさする。まだじくりと痛む。
重いものも平気で投げつけるし、それが子どもに当たったところで気にもかけない。……いや、あれは気づいてもいない。
刃物を持ち出さないことが奇跡みたいだ。本当にただ怒りをぶつけているだけで、殺意はないんだろう。でも物を投げつけるのだって、当たりどころが悪ければ死ぬのにな。そういうのもわかってないんだろう。
あの親だから、俺だってそういう人間である可能性は高い。
今は違うと自信を持って言えるが、じゃあ、『恋愛』を知ったら? 誰かと付き合ったら? 結婚したら?
それが怖いから、せめて――この人じゃなきゃだめだと思える人に出会いたいなんて。
そんな、目の前の宇佐川を見ていない理由、言えるわけがない。
「………………とりあえず宇佐川。アイスとけてる」
「え、あ、わっ、ほんとだ」
瞬き。宇佐川の目からころんと転がり落ちる涙。
それを見ても、申し訳ないな、と罪悪感を抱くだけの俺が、宇佐川を幸せにできるだろうか? ……できないだろう。
「あっ、えっと、な、泣いてな……くはないけど、これは、気にしないでね。塩村くんのせいじゃないんだから。あたしが勝手に、感情昂っちゃって……」
「俺のせいだよ」
「……ありがとう」
どういたしまして、なんて返せるわけがなくて、自分のクレープにかじりつく。甘ったるくて、喉の奥が重くなる。
これを食べきったら、他の人を好きになってくれ、ってはっきり言おう。
急いでアイス部分を食べきった宇佐川は、ほっぺたにクリームがついていた。鼻の頭にまで。
まだつくだろうから、たぶん全部食べ終わってから指摘したほうがいいな、とぼんやりと眺めながら自分のクレープを食べる。
「……あのね。もし付き合えたら、あたし、塩村くんに幸せにしてもらわなくたって勝手に幸せになれるよ」
……失敗した。食べ終える前に話の続きをするのなら、指摘しておいたほうがよかったかもしれない。
後悔しつつ、ほっぺたにも鼻にもクリームをつけた、真剣な顔の宇佐川を見る。
「だって好きな人と付き合えるって、それだけで幸せだし。その相手が塩村くんならなおさらね。勝手に毎日塩村くんの好きなところ増やして、勝手に幸せ感じるから……だから、だからもし、あたしのこと幸せにする自信がないからって理由しか見つけられないなら、まだ振らないで」
懇願するような声音だった。
「塩村くんがあたしのこと振るまで、あたしは塩村くんのことずっと好きだから。それが重くて怖いっていうなら……振っていいけど……あと、あたしのこと友達としてしか見れないなって思ったら、振っていい! 他の理由があれば、いつでも振っていいから。ねえ、だめかな」
――重くて怖い? いや、全然。
――友達としてしか見れない? いや、そもそも宇佐川以外に『ちょっといいな』程度のことすら思ったことがない時点で、そんなことはない。
他の理由。
……他の理由?
人生で一番頭を働かせたところで、びっくりするほど何も思い浮かばなかった。
「………………見つかんねぇ」
「ほんと!? じゃあまだ、す、好きでいていいよね!?」
眩しいくらいに、宇佐川の顔が輝く。
「いや……でも……」
「あたしじゃなきゃだめって思ってもらいたいけど、実際は思ってもらえなくてもいいんだよ! 思ってもらうために好きになったんじゃなくて、思ってもらいたいな、って思える塩村くんの考え方を、す……好きになったんだもん」
「……でも、」
「もうあたしに好きでいてほしくない? 気持ち悪い? しつこい? ……嫌いになった?」
「…………いや、そんなわけは、ないけど」
本当に。そんなわけがないのだ。
肯定できればむしろ楽だった。そしたら宇佐川だって納得してくれただろう。
でも俺は、宇佐川のことが嫌いじゃない。嫌いなところが一つも見つからない。宇佐川のこと、苦手な奴は苦手だろうな、と思うことはあっても、俺は苦手じゃない。
それどころか、むしろ。
視線を落とした俺に、宇佐川は少しの間黙って次の言葉を待っていてくれた。
しかし俺に何も続ける気がないと察したのか、こわごわとした様子で口を開いた。
「……というか、あの、あたしさ……もう気づいてると思うんだけど、結構どもること多いんだよ」
突然変わった話題に目を瞬いてから、そういえば、と思う。特に気にしてはいなかったが、確かにそうだ。
「だけど、今まで好きになった人に、『好き』って言うときだけはどもったことなかったっていうか……絶対どもらないように気をつけてたっていうか……」
宇佐川の手の中のクレープが、ぎゅっとつぶれる。無意識だったのだろう、気づくそぶりも見せずに宇佐川は続ける。
「で、でも、塩村くんに対しては、気をつけてても『好き』って言おうとするとどもっちゃうようになって。最初のとき、本当にまだ全然塩村くんのこと知らないときは、普通に言えたのに……塩村くんと話してから、言えなくなっちゃった。たまにちゃんと言えることもあるけど、勢いがないと全然だめで……ねぇ、これって、」
ためらうように唇を閉じて、そして宇佐川は、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
「――あたしにとって……塩村くんは特別だってことだと思うんだ」
真っ赤な顔。疑うのも馬鹿らしくなるくらい、誠実な表情だ。元から別に、彼女の言葉を疑っていたわけではないけれど。
なんて返せばいいのかわからなくて、息だけが口から漏れる。
さっきよりもよっぽど長い時間黙ってしまっているのに、宇佐川はひたすら、俺の言葉を待ってくれた。
――両親のことが、頭から離れる日はないのだろう。
きっと俺は、これから先もずっと怯え続けることになる。大切な人ほど、好きな人ほど、絶対に傷つけたくないから。
でも、だったら……傷つけたくない、という気持ちが一番強いなら。
「……ほんとに、俺が幸せにできなくても、勝手に幸せになってくれんの」
「っ、うん! なるよ! 絶対!」
「そっか」
そっか、ともう一度、心の中で繰り返す。
「……それならもう、宇佐川の告白断る理由、一個も見つかんねぇ」
こんなに自信満々に言われたら、確定してもいない未来に怯えるなんて馬鹿馬鹿しくなってくる。
降参した俺に、宇佐川はキラキラした顔で立ち上がり、ばっと両手を広げた。もしかしたら抱きついてくる気だったのかもしれないが、クレープの存在に気づいたのか、「ちょ、ちょっと待ってね」とクレープを慌てて食べ始める。
「……食べ終わっても、抱きつくとかはなしだぞ」
「えっ!? だめ!?」
「だめ。人目がありすぎる」
「えと、じゃあ人が少ないところでならいいんだよね、早く食べちゃうね!」
ちまちま、俺からしたら信じられないくらい小さな一口で食べ進める宇佐川。それを見ながら、俺ものんびりと自分のクレープを食べきった。
……のんびりと見えるように、だが。
俺はまだ、宇佐川の告白を断る理由が見つからない、と言っただけだ。もっとはっきり、ちゃんと言わなければならないだろう。
宇佐川のことが好きだ、って。
そうだ。もう認めるしかない。
宇佐川じゃなきゃだめ、とまではいかなくても、俺は宇佐川のことが好きなんだ。
告白なんて、当然だがこれまでの人生一度もしたことがない。だから、どう伝えればいいのか考えるのに忙しくて、のんびりなんてしていられなかった。
食べ終わっても答えは出せず、とりあえずクレープの紙をゴミ箱に捨てた。
宇佐川のクレープもあとほんの数口になったので、リュックからティッシュを取り出しておく。
いい加減、クリームを指摘してあげなければかわいそうだ。
「ご、ごちそうさまでした……!」
「ごちそうさまでした。……宇佐川」
そういえば言い損ねていた、と気づいたので、宇佐川に続くようにごちそうさまを言ってから、ティッシュを差し出す。
きょとんとする宇佐川に、無言で自身の頬を指差してみる。
意図がわかったのだろう、宇佐川は大慌てでポーチから手鏡を出し、覗きこんだ。
「あ……あたし、こんな顔でずっと話してたの……?」
「悪い、指摘するタイミング見失って……」
「う、ううん……ありがとう……でもやだ、はず、恥ずかしすぎる」
俺から受け取ったティッシュで、宇佐川は慎重にクリームをぬぐい取った。
そしてティッシュとクレープの紙をまとめてゴミ箱に捨て、気を取り直したように俺と目を合わせてくる。
「塩村くん、」
「ごめん、遮って悪いんだけど、先に言わせてほしいことがある」
「は、はい!」
宇佐川が姿勢を正す。つられるように、俺も背筋を伸ばした。
「……俺は、宇佐川のことが好きなんだと思う」
「わっ……ご、ごめん、続けて」
歓声のような声をごまかすように、宇佐川は咳払いをする。
……これ以上続けるのは喜びに水を差すようで気が引けるが、こういう考えはちゃんと話しておくべきだろう。
改めて俺のことに視線を向ける宇佐川に、慎重に伝える。
「幸せにできる自信はねぇけど、幸せにする努力はする。もし俺が努力すらしなくなったと思ったら、絶対俺から離れて、別の奴を好きになってほしい」
「……塩村くんがそういう努力やめるのって、たぶんあたしに愛想が尽きたときだけじゃない?」
「宇佐川の好意にあぐらかいて、最低な人間になる可能性もあるだろ」
「そうかなぁ……うーん……でもちゃんと約束したほうが、塩村くんも安心できるよね」
首をひねっていたものの、宇佐川は納得したようにうんうんとうなずく。
「約束する! そしたら、あたしと……つ、付き合ってくれる?」
「……うん」
「ありがとう!!! やったぁ、嬉しい! えへ、えへへ、嬉しいな、どうしよう、今まででいっちばん嬉しい……あたし本当に、塩村くんのこと、だ……だい、すき、みたい」
浮かれきっていた顔が、見る見るうちに赤くなる。
宇佐川は視線を落として、またもじもじと指先を動かして……その指でそうっと俺のシャツの裾を引っ張った。
「ね、行こ」
「……宇佐川ってなんで一人の奴と長く付き合えなかったわけ?」
「今それ訊くの!? えっ、もう愛想尽きそう……? やだやだ、嫌なとこあったらすぐ直すから言って!」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
あまりも可愛くてびっくりしただけだった。これでなんでフラれるんだろう。
宇佐川はむうっと唇をとがらせ、しぶしぶ答えてくれた。
「あたしの惚れっぽさ知ってるから、浮気されそうで嫌なんだって。あとはなんか、仕草があざとくて馬鹿にされてるみたいに感じるとか、どもるのがキモいとか、いろいろ重くて無理とか……」
「…………」
「み、見る目ないって思う……?」
さすがの宇佐川も、ひどいことを言われた自覚はあるのだろう。おそるおそる尋ねてくる。
俺はすぐに首を振った。
「宇佐川のことだから、そいつらにも『素敵なところ』がめちゃくちゃあるんだろ。だったら、俺が外野から何か言えることじゃねぇよ」
「す、……すっっき、大声で叫びたい、ねえ今から時間あったらカラオケとか行かない? 好きって叫ばせて、お願い!」
「う、うーん……時間はあるけど……」
「ね、ね、お願い!」
ここでうなずいたら、カラオケの個室で好きだと叫ばれるのは確定だ。……確定していいっちゃいいんだけど……最初から飛ばしすぎじゃね?
付き合うってこういうことなのかな。なんもわかんねぇな。
「……わかった、行こう」
「きゃ~、ありがとう!!」
踊るような勢いで立ち上がって、宇佐川は俺の手を取る。
「マイクは使わないから安心して! 塩村くん、他の人にそういうの聞かれるの恥ずかしいでしょ?」
「まあ、うん。宇佐川はハズくねぇの?」
「あたしも恥ずかしい! だからマイクはなし」
「へえ……」
「あ、でもでも、歌も歌おうね。苦手だったら歌わなくてもいいけど、塩村くんの歌聞けたら嬉しいなぁ」
「別にカラオケ、苦手じゃないしいいよ」
「やった、じゃあ代わりばんこに歌お! あたしは歌そんな上手くないけど、歌うのは好きなんだ~」
にこにこ、ずっと楽しげな宇佐川が、俺の手を引っ張って歩いていく。
着いたカラオケでは、最初しばらくの間ひたすらに愛を叫ばれた。ハズすぎて止めようかと思ってしまったくらいだ。結局止めずに最後まで聞いたんだけど。
宇佐川の歌は確かに上手くはなかったが、可愛くて耳に心地いい。
俺が歌ったら、「予想外に上手すぎてやっばいんだけど!? す、好きなとこまた増えちゃった……たのしい……」と興奮していたのが面白かった。
――俺は宇佐川といなくても幸せになれるし、宇佐川も、俺といなくたって幸せになれる。お互いじゃなきゃだめなわけじゃない。
だけどまあ、こうやって心底楽しそうにはしゃぐ宇佐川は、今この瞬間、俺にしか見れていないわけだし。
それを見る俺の笑顔だって、宇佐川しか見ていない。
そんな瞬間を、これから何回だって経験できるんだろう。
「……次の歌いったん予約しないでおいて、俺もさけ……ぶのはさすがに無理だけど、ちょっと大きめの声で告ってみてもいい?」
「いっ、いいよ!? どうぞ!?」
「ありがと」
さっきの宇佐川にならって、立ち上がる。
そわそわと俺を見つめてくる宇佐川。可愛い。
好きだって認めると、すぐに可愛いって思えていいな。以前の俺が聞いたらアホか? って言うだろうけど。
内心そんなことを考えながら、深呼吸をする。宇佐川の瞳のきらめきが増した。あー、かわい。
気持ちに押されるままに、俺は口を開いた。
結果は――思った以上にクッソデカい声になったせいで、宇佐川がぽかんとしてから笑い出し、そして。
嬉しそうに抱きついてきた彼女を、慌てて受け止めることになったのだった。