化想操術師の日常7
現実のようであって現実とは違う世界、ここがイメージの世界だと分かっていても混乱する。海の水には流れがあり、それはどこまでも続いていそうで、そう思えばまた体が浮いてしまうし、更には足元が砂なので、足に力を入れて踏みしめようとすれば、砂に足を取られそうになる。
偽物の海の世界に悪戦苦闘するたま子に反し、野雪は相変わらず、地上を歩くようにさくさくと進んで行く。
「あ、あの野雪さん、どうして普通に歩けるんですか?」
「ここがイメージの世界だと理解してるから」
全ては意識の問題だとしても、そう簡単には上手くいかない。たま子だって頭では分かっている、それでも上手く歩けないのは、心や体がこの空間を否定しているからなのかもしれない。
たま子は、少しでもこの世界に対する理解を深めようと、野雪に声を掛けた。
「あの、ここには壁も天井もなくて、私達は、外の人達からはどう見えてるんですか?」
化想は空間も広げるというが、校舎の壁やら天井をこの海は突き破っていた。これだけ派手な事が起きていて、建物への被害や、校舎に残る人々に危険は及ばないのかと心配になる。
「校舎の外からは、何の変哲もない校舎が見えてる、黒兎の目隠しがあるから。目隠しが無いと、俺達が見たままの教室の状況が見える。
壁とか壊れたけど、今回の化想は、実際に壁を破壊してる訳じゃない。化想は空間を広げる、これはあの学生の心の世界だ。でも、あまり深く考えない方が良い。人の化想の世界で目的や自分を見失ったら帰れなくなる」
「え、」
「化想に巻き込まれて、今も眠り続けている人達を何人も見てきた。だから、考えるのは後にした方が良い。迷えばこの世界でずっと彷徨う、心をこの世界に残したまま、体は現実で眠り続ける事になる」
それは先程も痛感したばかりだ。それに加え、たま子は眠る自分を想像して思わずゾッとしたが、それと同時に、野雪の変わらない冷静さは、たま子にはますます理解し難かった。
「…どうしてそんなに冷静でいられるんですか?」
「俺は鍛えられてる。それより、あの学生の欠片を探せ」
突き放すような言い方に、たま子は野雪を怒らせてしまったかと思い、慌てて気を引き締めた。
「は、はい。…あの、それってどんな物なんですか?」
「形は決まってない。心は一つとして同じ物はないから」
世の中に同じ人間は一人としていない、だから、心も同じものはない。なので、心の欠片とやらも見てみないと分からない、という事だろうか。
もしそうなら、どんな物か分からない物を探す事になる。相当難易度が高いのではないか。
「目を凝らして、あの学生を思って探せば見つけられる。特別な意図があれば別だけど、あの学生のように無意識に化想を生み出してしまう人間は、悲しくて、苦しくて、怒ってて、そんな自分を捨てられず、また苦しむ事が多い。きっと助けを待ってる。口や態度でどう繕っても、心のどこかで救いを待ってる」
「……」
たま子は野雪の言葉に目を瞬いた。
たま子が志乃歩の家にやって来てニ週間が経ったが、共に生活していても、たま子は野雪とほとんど会話をする事はなかった。野雪はいつも広い中庭でシロと寛いでばかりいたし、中庭に居ない時は、離れの家にこもっていた。元々口数が多い方ではないようだし、たまに声が聞けても、声や表情からは感情が感じられなかった。
だからたま子は、野雪は人に対して無関心な人間だとばかり思っていた。きっと、化想を心の拠り所にしていて、自分の世界を守っているのだろうと、だから他人には興味がないし、興味がないから感情的にもならないのではと。
でも、今の野雪からは、淡々と抑揚のない口調の中に、人間らしい思いやりや優しさ、それに使命感すら感じる。助けたいと、その瞳が言っている。それを見て、たま子はようやく安心出来た気がした。この世界への戸惑いも、野雪がいるなら大丈夫だと思えたからだ。
冷静になれば、この世界が輪郭を持つようにはっきりと見えてくる。イメージの世界は、心を反映した世界だ。
光の差し込む海は穏やかで、清らかで。泳ぐ魚も生き生きとしている。時折見える廃墟だって、おどろおどろしさよりも神聖さすら感じる。
こんな美しい海を思い描ける人の心に、どんな感情が渦巻いているのか、たま子には想像が出来なかった。
「…綺麗な海ですね。あの人は、本当に悲しんでるんでしょうか」
「悲しいから、逃げたいのかもしれない」
「え?」
「この美しい海の底で、ひっそりと生きられたらって思っているのかもしれない。こんな風に穏やかに」
イルカがやって来て、二人の横を楽しそうに泳いでいく。現実ではこんな風には生きられないと、あの少年は絶望を抱いているのだろうか。
少し歩くと、大きな珊瑚礁を見つけた。赤い珊瑚は、キラキラと輝く宝石のようだ。その珊瑚の影からウツボが顔を出した。ウツボは野雪の顔を見て、何食わぬ顔でまた海底を這うように泳ぎ出したが、次第にそれは姿を変え、背中から大きなヒレをはやし始めた。
「あいつだ、行くぞ」
「え、」
走り出す野雪に、たま子も慌てて後を追いかけようとするが、またもや水やら砂に捕らわれ上手く前に進めない。頭で理解しても、やはりそう簡単には体に理解が伝わらないようだ。ならば開き直って泳いでみようとするが、それもまた上手くいかない。自分がこんなに不器用だとは思わなかった。焦れば焦るだけ、ただその場でジタバタするだけのたま子に、野雪は立ち止まり、ややあって、海底の砂に指で一つ線を引いた。すると、線が光り、本物と見間違うような愛らしいイルカが現れた。
「背びれに掴まって」
「え?」
戸惑うたま子に、野雪がその手を引いてイルカの背びれを掴ませると、イルカがグイと泳ぎ出すので、たま子は驚いてしがみついた。「よし」と頷いて、野雪が隣を歩く。イルカは、野雪のペースに合わせて泳いでいるようだ。
「あ、ありがとうございます」
「この方が早い」
野雪の口調は変わらないが、もう冷たいとは思わなかった。野雪は背びれをはやしたウツボのようなものを追いかけながらも、ゆっくりと歩いている。それは、ウツボもどきに逃げられないようにというより、たま子を気遣っているように思えた。
「…すみません、足を引っ張って」
「初めてなんだ、しょうがない」
野雪は振り返らずに言う。抑揚のない言葉でも、そこには優しさを感じる。たま子は野雪との距離が少し近くなった気がして、少しだけ嬉しい気持ちだった。
「…あのウツボっぽいものを捕まえるんですか?」
「もう少し落ち着いてからだ」
どういう事だろうと頭を捻っていれば、ウツボはどんどん大きくなり、気づけばサメへと変化していた。ひ、とたま子は悲鳴を上げるが、やはり野雪は冷静だ。
「どこへ行くんだろう」
「あれが心の欠片?お、襲ってきませんか?」
「さぁ」
「さぁって…!」
「静かにして」
進んで行くと、足場が坂道のようになっていた。かなりの急斜面で、辺りもどんどん暗くなり、坂の先は目を凝らして見ようとも、真っ暗で底が見えなかった。
「え、深海?」
「イメージの世界だから、そもそもここは海じゃない」
ややこしい、頭がどんどんこんがらがって痛くなりそうだ。暗闇へと進むサメは、いつの間にか骨へと姿を変え、地面に転がっていくのが僅かに見えた。
「え、どういう…」
「行ってみよう。イルカはここまでだ、ありがとう」
野雪がイルカの頭をひと撫ですると、イルカは音もなく消えてしまった。