化想操術師の日常39
月を隠した黒い化想は、山の木々を奪い尽くし、壁に閉じ込められたこの世界は砂漠に姿を変えた。
砂漠の夜はとても寒いと聞いたが、気温までは再現出来ていない。だが、砂の感触は本物のようだった。野雪は見える世界が変わっても、迷う事なく進む。まるでどこに向かうか分かっているかのように。
遠くの空から機関銃の音が聞こえる、姫子が同じ空の下にいると分かれば安心した。この暗い砂漠の中でも、自分の家族がいる。早く、たま子も助けてあげなくては。野雪はそんな思いだった。
そうして歩いていると、不意に足を何かに掴まれた。驚いて足元を見ると、いつの間にか砂の手に両足を掴まれており、その直後、目の前には大きな砂の手が現れ、野雪の体を呑み込もうとしていた。
「そう何でもかんでも、その手で掴めると思うな。たま子の心は、たま子の物だ、支配なんか出来ないんだ」
野雪は指先を噛みきり、正面から覆い被さる砂の手に、血の滲み出る指で一つ線を引いた。引いた線が光を放てば、巨大な砂の手は花びらへと変化し、野雪の頭の上をハラハラと舞った。野雪が頭を振って、頭に乗った小さな花びらを払い落とすと、足に絡んだ砂の手もいつの間にか花びらとなって、さらさらと流れていく、野雪の足元には、どこからともなく水が流れてきていた。
気づけばそこは、夜の砂漠から一瞬にして湖へと変化していた。これは、野雪の化想だ。
野雪が湖面の上を歩き出せば、水の上に、ぽつりぽつりと白い花が浮かんでいく。大きな砂丘も消え、辺り一面が平らな水辺になれば、遠くに皆の姿が見えた。その中で、巨大な炎を盾にする男の姿も。
「くそ!来るな!」と、その男の声と共に膨れ上がった炎が、彼の近くに居た志乃歩に向かっていく。だが、その炎は踊るように志乃歩の脇を逸れてしまった。それに驚いたのは、その男だけだ。
「これだけ心が揺らいでるんだ、木の葉一枚でだって、簡単に火の軌道を変えられるよ」
ダイスを持つ手には、一枚の木の葉があった。結局化想は心の強さだ、本来は水に弱い火だって、化想なら、火が水を呑み込む事もある。化想は本物であって、本物ではない。火に燃える筈の木の葉でも、その心が強ければ、簡単に火から守る事が出来てしまう。
かろうじて残っていた黒い空が、徐々に薄れ本物の月を映し出していく。消えていく自分の化想に焦り、男は再びこの世界を変えようとするが、野雪がそれをさせなかった。静かな湖面は男の周囲だけが騒ぎ始め、意思を持ったかのように蠢いている。男が化想を出そうとすれば、男の腕に湖の水が降りかかりその場に留まる。まるで腕を掴まれたかのように、男の腕は動かなくなった。
「たま子を解放しろ、話はそれからだ」
野雪が見つめる先に、男がいる。先程の炎の盾が消え、その姿がはっきりと見えた。
四十代くらいの男性で、出で立ちだけで言えば、品行方正といった印象だ。今は劣勢に立たされているので表情を歪めているが、整った容姿をしていた。志乃歩はその姿を見て、僅か目を瞪った。
男は野雪の瞳に一瞬怯んだが、奥歯を噛みしめ、傍らにいたたま子を前に突き出した。たま子の体には、まだ炎が巻かれていた。
「下がれ!このまま、こいつごと本の化想を燃やしてもいいのか!」
必死な声で叫び、たま子の体に巻きつく炎が微かに煙を上げる。ぐ、と唇を噛んで耐えるたま子に、「テメェ、卑怯だぞ!」と、姫子が銃を構えた。その傍らには黒兎もいる。視界が開けたので、二人も皆に合流出来たようだ。だが、その直後、たま子の叫び声が上がり、黒兎が慌てて姫子の銃を下げさせた。
たま子を包む炎は、たま子を浚った巨大な手と違い、化想に意識を通わせていた。火は本物となる。
「たった一週間で、随分気に入られたもんだな」
鼻で笑う男に、野雪は眉を寄せた。途端に地響きが辺りに轟き、足元に打ち寄せる水が煮立つ湯のようにボコボコと泡を放ち始めた。
「な、」
戸惑うのは、男だけではない。志乃歩達の足元もぐらつき始め、揺れ動く波が空高く上った。
「野雪!」
志乃歩が叫びながら、揺れる足場を懸命に進む。地面が次々に割れ、割れた地面は浮き上がり、水が皆に降りかかる。
「なんだよ、これ!」
「お前達、油断するなよ!」
姫子の悲鳴に、志乃歩が一度振り返り、そう叫ぶ。
野雪が怒っている、それは、人を道具のように扱う男に対しての怒りだ。その怒りは、野雪の生み出した化想の世界に直接反映する。地面も湖も怒って暴れている、早く止めなくては、野雪自身も壊れてしまう。
「野雪!」
志乃歩の声は、野雪の化想に遮られる。跳ね返る水が志乃歩に降りかかり、志乃歩は咄嗟に腕でそれを遮った。その狭められた視界から見えたのは、野雪の足元から男までの地面が裂け、その裂けた両側の水が大きな狼となり、大口を開けた二匹の狼が勢い良く男に向かっていく所だった。
男の前に体を横たえていたたま子は、飛びかかってくる狼を見上げ固まっている。その後ろで、男の口元が僅か弧を描いた。
「俺も葬るのか、いつかみたいに」
男が発した小さな呟きに、野雪ははっとした。一瞬の間に、野雪だけが別の世界へと連れ込まれていく。真っ暗闇の中に流れていくのは、幼い自分が、大人達に向かって放つ化想の数々。初めてつけられた手枷を無理に外そうとした事により、傷ついた手首からは血が流れていた。野雪はその血を指先につけ、泣きながら手枷に小さな線を引く。
手枷は壊れ、野雪を抑え込もうと近づく人々に、自由になった手で自分の血をすくい床に線を引いていく。鉄格子や鎖、目につく物の他、獣達を使って襲わせ、空間ごと化想を作り、竜巻の渦に呑み込ませた。大人達は野雪を恐れ、逃げ惑い、それでも野雪の小さな手は、攻撃を止めない。泣きじゃくり、怯えながら。
「…や、やめろ、」
その光景に、野雪の足がすくむ。幼い自分は、自分を守るのに必死だった。でも、成長した野雪からすれば、いくら恐怖からの行動とはいえ、その姿はまるで殺戮者のようだった。怯えきった大人達の顔、途切れそうな悲鳴、その中に、今も眠り続ける人がいるのを野雪は知っている。子供とはいえ過剰な防衛は、大人達にどんなに非があるにせよ、野雪にとって、自分のしでかしてしまった事に変わりない。
「お前は、また、こうやって人を葬るんだ。変わらないな、まるで悪魔だ」
悲鳴の隙間から、声が頭に響いてくる。誰の声か、野雪には分からなかった。ただ、自分を責めているのは分かる、いくら反論しようとも、事実が変わらない事も、野雪はよく分かっている。
「や、やめて、」
怖くて震える手で頭を抱え、野雪は膝をついた。恐怖から息が上がり、その目には怯えた大人達の顔しか見えなくなる。
 




