化想操術師の日常33
「請求書です」
家に帰り、黒兎がレシートの束を志乃歩に渡すと、それを受け取った志乃歩は思い切り顔を顰めた。
「そうなるだろうと思って、黒兎に迎えに行って貰ったのに」
そうあからさまに嫌な顔をしたが、黒兎の後ろで申し訳なさそうにしているたま子を見て、志乃歩はそっと頬を緩めた。
「ま、必要経費かな」
「すみません、あの、私働いて返しますから…!」
「いいよいいよ、プレゼントさせて。たまちゃんはこの家の一員だし。記憶が戻ったら自由だけどさ、それまで僕は妹だと思ってるから、お兄さんに甘えなさい」
頭をぽんと撫でられ、たま子はきょとんとした。そこへ姫子がやって来て、たま子を目にすると、手にしていた雑巾とバケツを黒兎に押し付けた。「ちょっと!何ですかこれ!」と、憤慨する黒兎をよそに、姫子はたま子に駆け寄って行く。
「わ!可愛いじゃん!メイド服も絶対似合うと思うけど!」
「あなたとたま子さんの感性では合いませんよ、いい加減気づきなさい、メイド服は万人向けではないと」
「はぁ!?」
「こらこら、僕の出番を取るんじゃないよ君達。僕がお兄さんぶりを発揮してるって時に」
そうして、やいのやいの言い合いを始める面々を、たま子はぽかんとして見ていた。
一見バラバラなのに、纏まっている。丸く、絆が見える。賑やかな家族の姿に、たま子はおかしくなって笑ってしまった。
きっと、何か勘づいている筈なのに、それでも当たり前のように受け入れてくれるのだと、まるで帰る場所のような温かさに、心がそっとほぐれていくのを感じて、また少しだけ泣きたくなった。
夕飯とお風呂を済ませると、たま子は自室に戻った。
たま子はこの身一つでやって来たので、所持品はない。そもそも長居するつもりはなかった。なので、今日、梓が買ってくれるまでは、替えの服は野雪のお下がりだったし、下着は姫子が用意してくれた。自分のセンスを発揮出来ないので、姫子が酷く不満そうだったのを覚えている。
皆はせっかくならと新しい物を与えようとしていたが、たま子は野雪のお下がりだろうが何だろうが気にならないので、その好意を必死に断った。家に置いてくれるだけで十分なのに、記憶が無いとはいえ、何者かも分からない自分に、食事や寝る場所の他、こんなにも良くしてもらっている。
私が何の目的で来たのかも知らないで。
たま子は、そう心の中で言葉にしてみたが、彼らをそんな風に嘲る事なんて出来なかった。
初めて触れる他人の優しさにただ戸惑い、胸が苦しかった。
「……」
殺風景だった部屋の壁には、メイド服の隣に、今日買って貰ったワンピースが掛けてある。
小花柄の生地をそっと撫でる。たま子には記憶がある。ずっと嘘をついている。だけど、この気持ちは良く分からない。
これは、好きの感情だろうか。そう思えば心が騒ついて、落ち着かなくなる。視線を彷徨わせた先で目に止まるのは、デスクに置かれたあの小瓶だ。まるで責めるように見つめるそれに、たま子は逃げるように部屋の窓を開け、バルコニーに飛び出した。
手摺に手を掛けると夜風が頬に触れ、柔らかな風がたま子の熱を優しく奪い、幾分気分が楽になった気がした。
「…あ、」
ふと顔を上げると、中庭に野雪を見つけた。野雪は一人で空を見上げ佇んでいたが、やがてシロが現れると、横たわるシロの体に寄りかかった。シロは大きな尻尾で野雪の体を包む、いつもの光景だ。それを見て、たま子は引き寄せられるように野雪の元に向かった。
「野雪さん、中に入らないんですか?風邪引きますよ」
躊躇いがちに声をかけると、野雪は少しだけ振り返り、再び空を見上げた。
「シロはあったかい。今日は星が綺麗だ」
抑揚のない言葉も、もう無感情とは思わない。野雪は何も言わないし態度にも出さないが、たま子を拒絶しない、ただ黙って受け入れてくれる、そんな気がして、いつも少し安心してしまう。
野雪の言葉につられるように、たま子は空を見上げる。東京の空は重く暗いが、山の上ならビル群に空が遮られる事はない。僅かばかりの星も、この日は見える方だった。
「本当だ」
頬を緩めたたま子を見上げ、「星、好き?」と野雪が尋ねる。淡々とした無感情の声に、たま子は悩みつつ首を傾げた。
「…好きなものは、ない」
分からないではなく、ない。その答えに、野雪は特に反応する事もなく、口を開いた。
「俺もなかった、何もなかった。好きとか嫌いとか、思う事も許されないと思ってた」
「…今は?」
「志乃歩が教えてくれたから、好きになって良いって」
「…ドーナツも?」
「うん、初めて食べて感動した。でも、それを忘れようとしたら、志乃歩が好きって言って良いって。好きって凄い、楽しくなる。だからたま子も作って良い、ここでは自由なんだから」
淡々と、感情など読み取れないような言葉だったが、それでも、野雪が感じた楽しさや感動は不思議と伝わってくる。
何故許されたのか、聞こうとして口を噤み、たま子は微笑んで頷いた。
その理由は、もう知っている。
「…あのワンピースも、好きで良いのかな」
「うん、その気持ちはたま子の物だ、たま子が決めて良いんだ」
「…うん、私も星が好き」
「うん、俺も好きだ」
二人はそれから、暫く空を見上げていた。こんなに空を見上げたのはいつぶりだろう、夜には空に星が出るのだと、当たり前の事を今まで忘れていたような気がする。
星なんて何度も見てるのに。でも、そんな気分だった。
こんな、当たり前の事まで遠ざけていた。顔を上げれば、望んではいけないものが溢れそうで、俯く事が癖になっていた。
ずっと、心の底に押し込めて、見ないようにしてきた思いが沢山ある。
あの人が怖かった、傷つく皆の姿を見るのが怖かった。だから、心を手放した。自分で選ぶ事、好きなものを作る事を放棄した。自分を守る為だった、そうでなきゃ誰も守ってなんかくれないし、誰かを守る事も出来なかった。




