化想操術師の日常19
「おはようございます!」
朝食を終えて少しした頃、九頭見家に元気な少年の声が響いた。
「おはよう、創太。風邪はもう良いのか?」
「うん、治った!」
玄関で出迎えた姫子が少年の頭を撫でると、少年は嬉しそうに胸を張った。
たま子はリビングの戸口に立つ志乃歩に手招きされ、そこから志乃歩と並び立ち、玄関の様子を覗き見ていた。
「彼が、さっき言ったレッスンの子だよ。野雪の生徒なんだ」
「野雪さんがレッスンをするんですか?」
驚いた様子のたま子に、志乃歩は頷きながら、少年の事を教えてくれた。
彼の名前は、神谷創太、十才。野雪に憧れているようで、最近は前髪を伸ばし始め、パーカーのフードを被っているという。半ズボンから出る膝小僧には、どこかで転んだのか絆創膏が貼ってあった。
「おはようございます、よろしくお願いします」
創太の後ろで頭を下げたのは、彼の母親だ。ショートヘアの、まだ年若そうな女性で、動きやすそうなカジュアルな装いだ。話を聞けば、これから仕事に行くのだという。
「おはようございます。お預かりします」と、黒兎が応じれば、母親は腰を屈めて創太の頭を撫でた。
「じゃあ、創太。後で迎えに来るから、頑張ってね!」
「うん!」
彼女は近くのスーパーで、パートで働いているという。
去って行く母親を見送っている創太を見て、たま子は志乃歩を見上げた。
「あの子、化想を出すんですか…?」
たま子は、不思議そうに言う。創太は術師ではない、大晴の思い詰めた様子を見た後だからか、明るい創太の様子からは、思い悩んで化想を出してしまう姿が想像出来なかったからだ。
志乃歩は頷きながら、玄関から中庭に向かう創太と姫子に目を向けた。
「創太は、無意識に化想を出しちゃうんだけど、普通の人とはちょっと違うんだ。
無意識の化想にもパターンがあってね、鳴島君みたいに抑えきれなくて、っていうんじゃなくて、心に何も抱えてなくても、絵を描いていたら、その絵が勝手に化想になっちゃうんだよ。これは天性の才能みたいなものだね。本来、無意識下の化想って、その人が夢遊病のような状態になって起きる事がほとんどだけど、創太の場合はそうじゃない。普通に日常を過ごしている中で起きるから記憶にも残る。ただ、たまちゃんみたく、描いた絵をそのままって訳じゃなく、頭にイメージしたものが現れるんだけどね」
志乃歩はそう言ってから「僕らも行こう」と、たま子を玄関へ促しつつ、話を続けた。
「その無意識の化想を矯正する為の、レッスンなんだ。でもそれって、どこでも出来る訳じゃないでしょ?いつ化想が出るか分からない以上は、広くて人目につかない場所じゃないとね。それに関しては、うちは山の中で中庭は広いし、人目にはまずつかない。病院って案もあったんだけどね、こっちの方が気が楽だろうから」
病院とは、あぎのい病院の事だろうか。たま子は頷きながら、少し躊躇うように尋ねた。
「…あの、学校は?」
「フリースクールに行ってる。化想にも理解ある学校があるんだ。あぎのい病院とも繋がってるから、いざって時はすぐ対応出来るしね。うちには、週一で来てる。最近は熱出して、うちもスクールも休んでたんだけど。あ、うちに来る時は、野雪が勉強も教えてるんだよ」
そこで、たま子は野雪に対しても疑問が浮かんだ。
「…そういえば、野雪さんて学校は?まだ年齢的に高校生ですよね?」
「あいつは大学出てるよ、飛び級して」
「…そうなんですか?」
これには、たま子は目を瞬いた。
「日本に帰って来たのは、一昨年かな。野雪を阿木之亥から引き取った後、トラブルに巻き込まれたくないから、すぐ日本から離れたんだよ」
「トラブル?」
「野雪は生まれながらに化想の才能があったみたいで、創太のように、幼い頃から自然と化想を生み出してた。あの頃から、ただ線を引くだけで、意識を使い分けた化想を出してて…野雪は、親の才能を受け継いだんだろうな」
「ご両親も術師なんですか?」
しかし、その質問には志乃歩は口元に笑みを浮かべるだけだった。
「稀にいるんだ、素質があるというか体質というか。創太の場合はうちの管轄だったから、鳩が感知して化想を止められた。親御さんは化想とは無縁の人だったから、根気よく説明して、化想を理解して貰った。もし、阿木之亥が先に目をつけていたら、野雪のような訓練を受けさせられていたかもしれない」
「訓練?…それって、どんな訓練ですか?」
「感情を失くす訓練。非道だろ?野雪はどんなものでも作れた、街も生き物も大砲でも何でも。一瞬のイメージで、細部まで的確に化想を出しちゃう。そして、化想世界に引き込まれて圧倒されたら、もう野雪の世界からは帰ってこれない。あの頃の野雪はただの製造機で、兵器だ。まだ子供なのにさ。だから、連れ出したんだ」
たま子は、野雪が見せた化想を思い出していた。大きくて人懐こいシロに、可愛いイルカ。野雪が誰かを傷つけるものを生み出していたなんて、たま子には想像がつかなかった。
「野雪は、創太に自分みたくなってほしくないんだ。だから力になりたいって、自分から創太の先生に志願してくれた。今思えば初めてだったかもしれない、自分から何かしたいって言ったのは。十七才にしてさ」
中庭に出ると、野雪はいつもの無表情だったが、創太は野雪に懐いているようで、先生、先生と、楽しそうに野雪にまとわりついている。
「たまちゃんも、せっかくだから化想を操れるように、一緒に練習しよう」
「え?」
「描いた絵がそのまま具現化されるのは、あまり良い事じゃないよ。まぁ、かといって、意識の乗せっぱなしもよくないし、切り離せている分には安心だけど、自分の意志でコントロール出来るなら、そっちも覚えていた方が良いよ。他の術師に操られない為にもね」
「……」
最後の一言に、たま子が思わずといった様子で顔を上げれば、志乃歩は眉を下げて、それでも優しく微笑んでいた。たま子は、志乃歩の思うところが掴みきれず、困って瞳を揺らせば、志乃歩は、その表情に何を思っただろうか、いつもの見慣れた笑い顔に戻り、「うちにいる間は、化想操術師として手伝ってもらうつもりだからさ」と、軽くたま子の背に触れて促した。
志乃歩に促されるまま、共に中庭に出ると、シロと戯れる創太が志乃歩に気づいて顔を上げた。
「おはよう、志乃歩!」
「おはよ」
「その人は?」
創太がどこか警戒するように尋ねるので、たま子は腰を折って目線を合わせ、創太を怖がらせないように微笑んだ。
「初めまして、たま子っていいます」
「我が家の新メンバーだよ。創太と一緒で、化想に苦労してるんだ」
「へぇ、じゃあここでは俺の後輩だな!」
「う、うん、よろしく」
胸を張る創太に苦笑い、たま子は巻き込まれる形でレッスンが始まった。
化想のレッスンとはどんなものかと思ったが、絵などを描く時は、描く場所に集中するという単純なものだった。頭に思い描いても、感覚で描くのではなく、集中する事で無意識の状態を無くすというのが、今のところ一番簡単な対応策のようだ。
無意識の化想は、心の放出でもある。創太のように何かを背負い込まず、天然でやってしまうのは才能でもあるが、それを制御出来なければ、無意識に化想を出す人達と同じだ。
だが、これもなかなか難しい。絵に集中すれば、たま子がそうだったように、絵そのものが具現化されてしまう事がある。化想を強制的に出さないようにする道具もあるというが、使い続けると体に負担も掛かる為、子供には特に推奨出来ないという。
なので、地道な努力に頼る他ない。意識する事が重要なので、瞑想なんかも取り入れているらしいが、五分もすればただのお昼寝だった。
中庭の草むらに座り込み、野雪とたま子と創太は、スケッチブックを手に何やら絵を描いている。
「わ、駄目だ!」
犬が創太の前に現れた。まだ小さな秋田犬だ。
「タロか」と、呟いた野雪に、たま子は「タロ?」と問いかければ、「創太の犬だ」と、教えてくれた。今、創太の家では、子犬の秋田犬を飼っているという。
「へぇ、でも絵が上手いね、創太君」
「たま子の絵は、ふふ!」
「わ、笑わないでよ」
たま子は顔を赤らめ、化想を隠した。たま子の前には、恐らく猫がいる。よたよたと歩く、線が縦横無尽に描き殴られた謎の生物、見てる方が気の毒になる化想だった。
休憩を挟みつつ化想のレッスンを終えると、リビングでは創太の勉強時間となった。志乃歩は途中で家を出たので、側では仕事をしながら、黒兎や姫子が入れ替わり見守ってくれている。
野雪の特別授業は昼までで、母親が車で迎えに来たら、また来週だ。
化想を生み出す行為は、体への負担が大きい。術師ではない素人なら尚更だ。気づかない内に体力を奪われている可能性もある、無理をしない、させないというのが野雪の方針だという。
たま子は野雪の話に頷きながらも、どこか落ち着かない気持ちで視線を俯けた。
創太達を乗せた車を門前で見送ると、たま子は野雪を見上げた。
「創太君、良い子ですね。お母さんも良い人そうだし」
「最初は苦労したみたいだ。奇っ怪な目で人は見る。人と違ければすぐに噂は広まって、情報は隠しても溢れてしまう」
野雪の表情は変わらないが、その言葉にはやるせなさが滲んでいるように思えて、たま子は、そっと目を伏せた。
「…でも、この場所は守られてるんですね。家族も、心も」
たま子が書庫がある離れに目をやれば、野雪も頷きながら離れに視線を向けた。
「書庫の化想も、傷つけちゃいけない。あれは、誰かの心の一部だったもの。心と切り離しても、本人がその化想に囚われていなくても、どこでそれが繋がるか分からない。それに、誰かの心だったものを壊したくはない」
心に影響が出る出ない関係なく、誰かの思いを勝手に壊したくはない。野雪は、やはり無表情のまま、淡々と話を続けるが、そこには誰かを思う気持ちが感じられ、たま子はその顔を見ていられず視線を俯けた。
「封をして間もないものは特に気を付けなきゃいけない」
続くその言葉に、たま子は顔を上げた。「まだ、不安定な部分があるからですか?」と問えば、野雪はやはり無表情に頷いた。
「もし、無理に封を破ったらどうなるか分からない、化想が再びその場に現れれば、その化想を生み出した人にも影響が出る。だから本当は、血印の方が安心なんだ」
より強固に封が出来るという事なのだろうか。
「でも、血印は術師とより強く繋がるから、術師の体にも影響があるんですよね」
「俺は耐えられる、慣れてるから」
そう言う野雪からは、先程のような気持ちが感じられず、無感情の冷たい言葉に聞こえた。たま子が言葉を失っていれば、「少し寝る」と言い残し、野雪は中庭へ向かった。中庭では、シロがのんびり寛いでいる。残されたたま子は、その場で少し考えを巡らし、自分の指先を見つめた。
「…血」
思いが強ければ、化想が強力になる血印。たま子は指先に爪を立てたが、すぐに思い直し手を下げた。




