クゥレス、狼狽
クゥレスの予想通り、ランジは正午きっかりに森の入り口に到着した。出迎えるため、クゥレスはあらかじめ入り口の木陰で待っていた。森の獣たちの気配に紛れているため、クゥレスの気配を感じ取るのは困難だ。
ランジが脚を止めたのを見て、クゥレスは森から出た。真っ先にクゥレスの目についたのは、ランジの持つ長刀。長身のランジと変わらないくらいの長さがある。ランジの間合いは相当広いはずだ。いくら動物たちがいるとはいえ、一息に斬られてはクゥレスは手も足も出ない。クゥレスは、ランジから十分以上の距離を取って立った。
ランジがクゥレスに気づき、軽く会話がなされた。幸いにも、二人は敵対せずに済んだ。
森に戻り、ランジから離れるクゥレス。思わず、安堵のため息をついた。
「こんなに真剣に死ぬかと思ったの初めてだなあ」
冷静を装っていたクゥレスだがその実、背中は冷や汗でびしょ濡れだった。クゥレスは実戦経験が少ないうえに、実際に戦うのは獣たちが主だ。魔法は使えるし、森育ちということもあって敏捷性には自信があるが、それ以上のとりえはない。一方、ランジは人生をかけて強者と闘い続け、そして勝ってきた男だ。ランジの威圧感は、クゥレスを怖じさせるのに十分だった。
ランジのことは、獣の眼を通して見張っていた。ランジが不審な動きを見せたら、すぐに対応しなければならない。ランジほどの達人ともなれば、ランジが明らかに行動を起こした頃にはクゥレスでは対応できなくなっている可能性がある。それゆえ、クゥレスはランジに、一切脇にそれず歩くことを要求したのだ。クゥレスは、仮にランジが少しでも脇にそれたら、獣たちに攻撃させるつもりでいた。
「これは、気が休まらないな」
森の奥のハンモックまで戻り、身を投げながら、クゥレスはそう呟いた。
幸いにも、ランジは休むことなくまっすぐ森を抜けた。ランジが森を出て、街の中へ駆けて行ったのを確認し、クゥレスはまたしても安堵の息を吐いた。緊張の糸が切れてしまい、クゥレスにしては珍しく昼寝を始めた。
クゥレスが目を覚ましたのは、太陽が傾き始めた頃だった。ルカの唸り声が、クゥレスの意識を現実へと戻してきたのだ。ルカが何かを警戒することなど滅多にない。クゥレスは素早くハンモックから下り、ルカの様子を確認した。
ルカは頭を低く構え、尾を逆立てて一点を見つめていた。ルカの視線の先を見る。そして、クゥレスは腰を抜かしそうになった。
木々の間に、ルカより遥かに大きい真っ黒な狼がいた。巨体から零れるオーラが確かに見える。瞳までも黒に染まり、どこを見ているかが分からない。だが、漆黒の狼の意識がクゥレスに向けられていることは、はっきりと認識していた。
ルカが唸り声を上げている理由も理解した。眼前の狼は確かに大きいが、このくらいの大きさの獣は魔窟にはざらにいる。ルカが怯えることではないのだ。しかし、眼前の狼は明らかに他の獣とは違う存在感を放っている。この世の存在ではないように思えるのだ。狼がその気になれば、一息でルカもクゥレスも殺される。
経験したことのない緊張感に耐えきれなかったのだろう。ルカがとうとう攻撃を仕掛けようとした。ルカの体が青く輝き、パチパチと音を立てて放電を始める。クゥレスは慌ててルカをなだめた。
「落ち着けルカ。敵う相手じゃない」
クゥレスの言葉で冷静さを取り戻したのかどうかは分からないが、ルカは構えを解いた。ルカの代わりに前に出る。得意のポーカーフェイスも、今回ばかりはできている気がしない。
不可能と知りながら、クゥレスは狼にテイムを仕掛けた。集中力を最大限まで高め、伏せろ、と念を送る。だが、普段テイムをする時に感じる獣との繋がりは感じられない。
突如、クゥレスが地面に倒れた。立ち上がろうとしても、指の一本も動かせない。
(テイムされたのか……!!?)
そんな考えがクゥレスの頭をよぎる。しかしすぐに考え直した。テイムは動物との信頼の上に成り立つものだ。だがクゥレスは、頭から押し付けるような強制力で倒れさせられた。抵抗する暇もなかった。テイムではあり得ない。
ちらりと横を見れば、ルカも同じように伏せられていた。クゥレスは、森がやけに静かなことに気づいた。
恐怖で縮み上がるクゥレスの頭に、何者かの野太い声がかかった。
『魔窟の守り人、クゥレス。貴様は此度の異能大戦への参加を認められた。貴様の願いのため、命を賭して戦え』
それは漆黒の狼から発せられた声だと、クゥレスは確信した。
「異能大戦、だと……!!?」
思わず声を漏らす。同時に、クゥレスにかかっていた重圧が消えうせた。素早く立ち上がり周囲を確認するが、漆黒の狼の姿は跡形もなく消えていた。安心から、地面にへたり込む。
「異能大戦、僕の代だったか」
クゥレスが、力なく呟いた。その頬をルカが舐める。後には、いつも通りの森がクゥレスを囲っていた。