クゥレス、救済
見上げるほどの高さの木々に、暗色の葉が生い茂る。魔窟の森に、夜が近づいていた。
仄暗い森の中に、子供の泣き声が響く。十歳にも満たないような少年が一人、目をはらしながら歩いていた。
少年は、友達と森の入り口で遊んでいるうちに森の中に入ってしまったのだ。森の奥に行ってはいけないと大人たちに度々言われていたがために、少年はすぐに森を出ようとした。だが、どこを見ても同じ景色の魔窟の森は、一度迷うと大人でも出るのが難しい。森から抜け出すはずが、少年はより森の奥の進んでしまった。歩き疲れたこともあり、気丈に泣かずにいた少年にも限界が来てしまったのだった。
加えて、森の静けさは獣の気配をより感じさせる。少年は獣の視線を敏感に感じ取っていた。
「おかあさぁん……」
少年が助けを乞うた、その瞬間だった。上空からバサバサ、と音を立て、何かが少年の前に下り立った。少年がひっ、と声を上げる。少年の目の前で、下り立った何かが体を起こし、全貌が露わになった。
それは、巨大な鷲。一軒家ひとつくらいの巨躯である。金色に輝く眼は理知的であり、繕われた茶色の毛並みには気品がある。
鷲が翼を広げた。その大きさと迫力に圧倒され、少年が腰を抜かす。驚きと恐怖で涙も引っ込んだ。少年は眼前の鷲が自分を喰うのかと思ったが、そうではなかった。代わりに、鷲の翼に隠れていた、十七歳くらいの少年が姿を現した。
「やあ。驚かせちゃったかな」
謎の少年が鷲の影から歩み出た。鷲が翼を畳む。彼は鷲の方をちらりと見た後、子供の元へ近づく。
その姿は、どこにでもいる田舎育ちの男。肌は焼け、長袖である以外服装にこだわりはない。茶色の髪はぼさぼさで、手入れされていないのが明らかだ。
しかし、彼が纏う雰囲気はどこか神聖だった。茶髪の間から見える目は柔和で、あらゆるものを包み込んでしまいそうである。腰を抜かしたままの少年から恐怖は除かれ、安心が心を覆った。
「僕はクゥレス。君の名前はなにかな」
鷲と共に現れた男――クゥレスが、子供の前でかがんで、優しく尋ねた。子供が、ゆっくりと答える。
「ぼくは、マモ。おにいちゃんが、森を守ってる人?」
「そうだよ。この森の守り人さ」
そう言ってにっこり笑うと、クゥレスは子供の前に腰を下ろした。
「守り人のことを知っているってことは、この森に入っちゃいけないってことも聞いてるよね」
クゥレスの問いに、マモがうんと頷く。
「森の奥は、こわい動物がいるから行っちゃいけないって」
「そうだね。じゃあマモ君は、これからはこんなところまで来ちゃいけないね」
「うん。ごめんなさい……」
「いいんだよ。これから気を付けてくれたらね。さ、帰ろう。家まで案内するよ」
「ありがとう、おにいちゃん!」
表情が明るくなったマモの手を繋ぎ、クゥレスがおもむろに歩き出した。背後で鷲が音を立てて、どこかへ飛び立つ。クゥレスは鷲の方に目もくれない。
暗くなってきた森の中で平然としているクゥレスを見て、マモが不思議そうに訊いた。
「おにいちゃんは、動物さんのことこわくないの?」
すると、クゥレスは苦笑交じりに優しく答えた。
「怖くないかな。動物たちはみんな、僕の友達なんだ。それにね、この森の動物たちは優しいから、僕たちが攻撃しなければ襲ってくることはないよ」
「そうなの?」
「うん。僕は一度も襲われたことがない」
マモは恐怖心を忘れ、好奇心を取り戻した。話しながら、どれだけ歩いただろうか。マモが森をさまよった時間に対し、二人が森を出るまでにかかった時間は驚くほど短かった。
森の入り口では、大人が何人か不安そうな顔で立っていた。その中に親の顔を見つけて、マモは駆けだした。
「お父さん! お母さん!」
マモの声を聞いて、一組の男女が表情を明るくした。女の方が前に出て、マモを抱きしめる。その様子を見ながら、クゥレスは大人たちの方へ近づいて行った。マモの頭を撫でていた男が、クゥレスの前に立つ。
「ありがとう、クゥレス。本当にありがとう」
感謝の言葉を述べる男に対し、クゥレスは笑顔を向けた。だがその目は冷たい。
「迷い人は助けます。それも僕の役目だ。それに、子供は成長する。森を守る人間になるかもしれない。ですが勘違いしないでください。動物たちに危害を加えるために、森を侵すために来た人間は助けません。いつも言っていることですが」
「ああ、むやみに森に入ったりしないよ。息子にもよく言っておく。本当にありがとう」
「では、また」
それだけ言い残し、クゥレスは踵を返して森の中へ戻ろうとした。その背中に、マモの声がかかる。
「おにいちゃん、ありがとう!!!」
クゥレスが振り返る。表情はとても柔らかかった。マモに向けて小さく手を振った後、クゥレスは今度こそ森の中へと帰っていった。