クニタケアコツ、参上
灰色の雲が頭上を覆う、不吉な日だった。オルガス帝国兵二万人。ザバン騎士帝国兵一万八千人。計三万八千人の兵が、広大な平原で向かい合っていた。西域の統一を目指すオルガス帝国にとって最後の戦いである。
ザバン騎士帝国は小国であった。だが場所と資源に恵まれた。その上、周辺の大国と渡り合う気概も持ち合わせていた。兵は全員が精鋭。一人が周辺の雑兵五人と同等の戦力になると言われている。加えて十五歳以上の国民は皆、国の兵であった。これが、周辺の大国がオルガス帝国に屈しながらザバンが最後まで戦い続けられた理由だ。兵数ではオルガス帝国が有利。しかし度重なる戦でオルガス兵は疲労が溜まっている。西域外の国家に対する警戒にも兵を割かねばならず、オルガスは二万人しかこの戦いに兵を動員できなかった。オルガスの兵の中にすら、この戦いはオルガス帝国が負けるのではないかと考える者がいた。
「厳しいな……」
オルガス帝国兵の最前列。ザバン兵を見据える女騎士がいた。アルメリア軽騎兵隊長。乗馬術、槍術、指揮のどれもが優れた人物である。先陣を切って敵に突撃するのが彼女の役目であった。
彼女は幾度の戦いに参加し、先頭で戦い、そして生き残ってきた。経験も胆力もある。その彼女が厳しいというのは、これまでなかったことだった。
「アコツ殿。この戦い、どう見る?」
アルメリアが、隣に立つ黒服の男に訊いた。男は、誰もが一目で異様だと感じる風貌をしていた。オルガス兵の先陣に立つのはアルメリアたち軽騎兵隊である。当然、みな馬に乗っていた。だが男は馬に乗らず、ただ前を見据えて立っている。そして、鎧の類を一切身に着けていない。あまりにも戦場に場違い。唯一兵士らしいのは、腰に携えた一振りの長剣。柄も鞘も、人の視線を吸い寄せる深紅である。加えて何より異様なのは、全身が黒の服で包まれていることだ。黒髪であることも併せ、まるで喪に服しているかのように真っ黒であった。
アコツと呼ばれたこの男を見て、大抵の人は戦場をなめていると思う。こんなふざけた格好で生き残れるほど、戦場は甘くないのだ。だが、アコツの目を見て人はハッとする。彼の目は敵を見据えてなお静かである。深い紺色の、風の吹かぬ大海のように静かな目の中には、悲しみとも怒りともつかぬ感情が宿っている。彼に見つめられると、誰も彼が戦場に立つことを咎められなくなる。
アルメリアに問われ、アコツは前を見据えたまま静かに答えた。
「こちらの分が悪い。オルガスの主力は魔導士。だが先の戦いで魔導士隊が集中攻撃を受けたために、魔導士隊は半数にまで減っている。対してザバンは魔導士の育成に力を入れていない。だが、並の兵士の槍や剣の技術はあちらの方が格段に上だ。全てがザバンの有利になっている。この状況を覆す何かがない限り、こちらが勝つことはない」
「ほう。では、私たちが負けると?」
「否。勝つ」
意外な答えに、アルメリアは少し目を見開いた。だが、納得している自分もいた。オルガス帝国には、『この状況を覆す何か』が存在する。アルメリアが、そして恐らくオルガス帝国兵全員がこの『何か』に賭けて、いま戦場に立っていた。
アルメリアが、アコツに勝利の根拠を尋ねた。
「ではアコツ殿。私たちが勝つ根拠を教えてくれ」
「俺がいる。オルガス帝国には、このクニタケアコツがいる」
即答だった。アコツは驕る訳でもなく、ただ事実を事実として淡々と述べた。それがアコツの自信の程を如実に表していた。
クニタケアコツ。オルガス帝国の田舎町の出身である。兵団に入らず、傭兵として戦争に参加し、一振りの剣で帝国兵の誰よりも立派な戦果を挙げる男。報酬を受け取ることはほとんどなく、どこでどのように暮らしているのかも一切不明。アコツは自分の活躍について自ら語ることはなく、そもそも戦場以外で人前に姿を現さない。それが人の想像力を掻き立て、様々な噂を作ることとなり、クニタケアコツは兵の間で伝説的な存在として君臨していた。
「もう一つ、訊いていいか?」
アルメリアがアコツに尋ねる。そこで初めて、アコツは視線を動かしアルメリアを捉えた。
「戦の前に喋りすぎるのは、よいこととは思えないが?」
「そう言うな。開戦まではまだ時間がある。死地に赴く者の頼みと思ってくれ」
アコツは軽いため息とともにまた前を見た。それを了承と捉え、アルメリアは話を続けた。
「アコツ殿はどの戦いでも黒服で臨んでいると聞く。それは誰かの喪に服しているのか? 真夏でも黒だったと聞いたが」
アコツは一切表情を変えなかった。だが、アルメリアの質問が聞かれたくなかったことであるのは、空気で分かった。その場を取り繕おうとアルメリアが口を開いたところで、アコツが静かに答えた。
「戦争ほど愚かなものはない。出身が違うだけで、戦う敵は同じ人間だ。雑兵一人にも生活がある。だが祖国の安寧のためには、戦わざるをえない。殺さざるをえない。この服は、これまで俺が殺した人間たちへの贖罪の象徴だ」
思いがけない告白に、アルメリアは言葉を返せなかった。そんなアルメリアをよそに、アコツは呟いた。
「この戦いに勝てば他国との争いは終わる。この戦いが、俺の最後の戦いだ」
そして、アコツが腰を低くして構えた。視線の先ではザバンの魔導士が火炎弾を空高く打ち上げていた。火炎弾の地面への着弾が、開戦の合図だ。
アコツの口から息が吐きだされる。精神が研ぎ澄まされ、気が体中にみなぎる。
灰色の雲が割れた。光が差し込む。光は一人、アコツだけを照らしている。
「クニタケアコツ、祖国の勝利のため、いざ参る!!!」
火炎弾が地面に着弾し、小さな爆発を起こした。同時に、両軍が突撃を開始する。オルガスの軽騎兵隊が帝国兵を先導する中で、一つの影が突出してザバン陣営へと向かっていった。アコツの足は馬より早い。全速力のまま、矢のように駆ける。
ザバンの魔導士隊が、慌てたようにアコツに向けて火炎弾を放った。だが、そのどれもが当たらない。アコツの動きが速すぎるために、照準が定まらないのだ。
間もなくザバンの兵がアコツの間合いに入った。アコツが鞘から剣を抜く。血の色をした刀身が露わになる。アコツは駆けた勢いのまま跳躍し、ザバンの兵の中へ飛び込んでいった。
アコツが剣を一度振るった。騎兵隊三人の首が飛んだ。アコツが剣を二度振った。数頭の馬の胴が両断され、鎧ごと四人の心臓が貫かれた。アコツが剣を三度振り払った。五人の腕が飛び、六人の腹が裂かれた。アコツが与えた動揺は、たちまちのうちにザバン軍全体に広がっていった。ザバンの有利は、すでに覆されていた。
後にダッバス平野の戦いと言われるこの戦いは、オルガス帝国の勝利で幕を閉じた。オルガス帝国は西域の統一を果たし、以降争いは内乱のみとなった。最も活躍したクニタケアコツは、この戦いで千人を斬り殺したと言われており、千人斬りのアコツの呼び名ができた。しかしこの戦い以降アコツは姿を消した。戦いの中で死んだとも、戦場から身を引いたとも、そもそも存在しない人物だったとも言われている。