三章 流れる日常、その平和に耽溺す その3
「うううん……」「ふみぃ……」
美紀は目を醒ました。首がわずかに凝っているような妙な感覚がした。頭を回す。輝樹が視界に入った。なぜか、シャツを着替えている。最初着ていたプリントシャツではなく、コンビニで売っているような無地のTシャツだ。そして、美紀の傍らでは、ひろこが額に手をあてていた。
「お、起きたね」輝樹が美紀の顔をのぞきこんだ。
「……なにがあったの?」
「二人とも急に倒れたんだ」
「そうですか。そういえば、頭が少し痛いです」ひろこは額をさすった。「首も痛いです」首もさすった。
「あれ、愛は?」
愛の姿がない。近場にも姿が見えない。美紀は周囲を見回したが、どこにも見当たらない。トイレにしては長い気がする。そして、自分たちがいる場所が公園ではなく駅前の待合室であることにも気付いた。ここまで、運ばれてきたということなのだろう。
「急用ができたそうだよ」
結局、愛はあの後トイレから帰ってこなかったと輝樹は説明した。メールで彼に「用事ができた」とだけ告げたのだという。
「そうなんだ」ちょっと寂しい気分になる。元々今回の外出は愛と二人でクレープを食う予定だったのだから。途中でバックれられたような不愉快さが湧いた。
美紀が気落ちしていると、更に追い討ちがかかった。「そう、俺らもちょっと用事できたんだよ」と輝樹。“ら”と複数形なのがまた、引っ掛かる。
「え?」
「永井先輩と帰ってくれ」
「松本さんは?」
「私は横山輝樹に話すことができた」
松本へ目を注ぐ。彼女のセーラーカラーが乱れているのが目に留まった。まるで、もみ合ったかのような――。なぜ乱ている? それに、二人っきりで話すこととはなんだろう? 激しく気になった。しかし、訊いてはならない気がひしひしとする。「……そう……なんだ」としょぼくれて言うことしかできなかった。
「手塚さん。私もあなたに、少しお聞きしたいことあるんです」
「へ? そうなんですか?」ひろこの提案に美紀は面食った。会って一週間。親密な仲というわけでもなく、そうなると、一体何の話だろうか?
「はい」にっこり笑ってひろこは首を縦に振る。
「じゃあ、決まりだな」ぽんと掌を叩く輝樹。今のひろこの発言で解散が決定的となってしまった。
「……うん」一応頷いたが、全く納得はできなかった。不服だ。この上なく。
輝樹と松本に別れを告げて、ひろこと美紀は駅前ロータリーへと戻った。
輝樹たちは電車で何処かへ行くらしく、改札をくぐっていった。初乗り運賃で切符を買っていたので遠くへ行くわけではないのだろう。松本は定期を駅員に見せていたので、彼女の自宅へ行くのかもしれない。恨みがましい両眼で、美紀は駅のホームへの階段を昇る二人の背を見送った。
バス停に二人以外の待ち人はないかった。十五分ほど待つと、ミルク色のバスがロータリーへ滑り込んできた。乗客は少なく、座席に座ることができそうだ。
さきにひろこがステップを昇った。
「わっ!」ステップをあがるなり、素っ頓狂な声をひろこがあげる。
「どうしたんですか?」背後から彼女に訊ねる。
「人が乗ってます……」失礼にも運転手を指差すひろこ。
「へ? 当たり前じゃないですか? ワンマンバスですよ」
「いえ……運転手なんて……初めて見たもので、うっかり……」
美紀はピンときた。初めて会ったときのことだ。自販機に口座引き落としのカードをかざしていた人物なのだ。永井ひろこという上級生は。
「もしかして、本当に未来人だったりするんですか? 先輩」ストレートに言うのも吝かなので、ジョーダンぽく、茶化すような声音で訊く。しかし、ひろこは美紀の声に気付かなかった。座席に着こうと前へ進んでいった。
「お嬢さん。お金、お金」運転手が困った声で言う。
「へ?」
どうやらひろこは料金を払わずに奥へ進もうとしたらしい。運転手の声も聞こえていないらしく、ひろこは止まらない。しょうがないので、美紀は彼女の分も立て替えた。立て替えて、小走りに彼女に追いつく。肩越しに言う。「先輩。ちゃんと払ってくださいよ」
「カード……あ……。……座りましょう」
またしてもタスポっぽいカードで支払う気だったのだろう。手には例のカードが握られていた。美紀の指摘に使えない事実を思い出して、ひろこは苦笑した。
美紀たちは座席に掛けることにした。
車内が空いているとくれば、あえて最後尾の座席に座るのがオツだ。美紀とひろこはそこに腰を据えた。乗客が少ないので、鞄類で無駄に座席を占有する。こうすることで、何となくリッチな気分になるものだ。最後尾の座席はバス車内の全貌も見渡せてお得な気分にもなれる。一石二鳥である。
「結局、解散になってしましたね」残念そうにひろこは言った。
「ですね。折角だったのに」
美紀はアヒル口になってぶうたれた。愛が急用で帰ったのはいいにしても、松本と輝樹が連れ立って何処かへ行ったのが激しく気になるのだ。一体、自分が気を失っている間に何があったのか? そう何時間も気絶しているはずもない。数分の出来事だったはずだ。そのように考えると、ドツボにはまりそうだったので美紀はひろこと話すことにした。彼女も美紀同様、気を失っていたらしいので何があったのか訊ねることはできないが。
女同士なのもあって、会話はそれなりに弾んだ。取り留めのない話題でも結構間が持つものである。そうこうしている間に、バスは道程の半分ほどを走り終えていた。コールされる停車場の駅名が自宅へ近づいている。
話に一区切りついた頃、改まった顔をしてひろこは美紀と相対した。両手を膝の上に置いて、神妙な声色で訊く。「ところで、手塚さん。その……今は西暦何年ですか?」
何をいきなり? と思いつつ美紀は答えた。「二〇二四年です」
「二四年ですか……はい、解りました」下唇を噛んで考えるような顔をする。「ときに、日常の中に、ふとデジャヴを感じませんか?」
「デジャヴ……? いいえ」首をひねる。的を得ない質問だ。要領を得ない。一体、何を訊きたいのだろうか?
「そうですか……。後の時代のこと、なんとなく解りませんか? これから進む道先が見えているような……」
ひろこは手で円を描くジェスチャーをしながら、訊ねた。何を表している挙動なのかは解らない。単に手を動かしながら話す癖があるだけかもしれないが。
「うーん……むしろ、昔のことを忘れているような気がします。愛のこと、忘れちゃってたし。っていっても、春休み二週間のことなんですけど。記憶力が悪いってことはないと自負してるんですけど」
頤に手をあてて、健気な面持ちで唸るひろこ。しばし、うんうん言ってから、「解りました」と言った。
「何が訊きたかったんです? 永井先輩。雲を掴むようなことで……」
「私が未来人だとするなら、手塚さんも未来人かもしれない、ってことなんです」
「はい? どういう意味ですか?」
話が飛躍した。目の前の上級生は、自称でも未来人らしい。
「これ以上はいえません」話を自分から振っておいて、ひろこはきっぱりと告げた。
「タイム=パラドックスとか、ですか? 私に話すことで世界の法則が乱れてしまう。みたいな。なんか、それじゃ私が世界の中心みたいですけど」
「……おもしろいこと、いいますね。手塚さん。私が本当に未来人だと思いますか?」
「うーん。そういうキャラなのかもしれないですけど、前読んだ本にあったんですよね。時間旅行っていうのは、確率論みたいなものだって。世界中、どこでもタイムトラベルは起こっているみたいな話で。あれば、あったで、愛も喜びそうですし」
実際にタイムトラベルがあるかどうか、美紀にはどっちでもよいことだった。そこで、なんとなく見聞きした知識を言ったのだが、これがひろこのハートに火を点けた。
ひろこは美紀の方へ居住まいを正して向いた。そして、口を開いた。長口上の幕開けであった。
「私は専門家ではないので、詳しくは解らないですけど」と取ってつけたような前置きをひろこはした。そして、一段声が大きくなる。「つまりは、量子テレポートと先進波後進波の話なんでしょうね。人体っていうのは、常に量子テレポートにみまわれているんです。量子テレポートのような素粒子レベルでの出来事を、ミクロな視点から見た場合大事なんですが、マクロに見た場合、誤差にも過ぎないんです」一息吐く。
「それと同じ理屈で、例えば何億もの細胞の一つがタイムトラベルしても私たちには何の影響も起こりはしません。生命体が分子原子に比べ、尋常でなく巨大な体躯を持つに至ったというのが生命体の同一性を保持する為に必須だったと考えられる所以です。
数学でいう、限りなくゼロ、無限大という概念、考え方があります。リミットというヤツですね。無限分の一は限りなくゼロです」
「はぁ……」言葉なく美紀は頷く。頷くしかない。
「ただ、おっしゃったように、確率論ですから全ての細胞が量子テレポートする可能性はゼロではありません。エントロピーは基本的に肥大化しますが、これも確率論的に言っての話でして、可逆が起こらないのではなく、起こる確率が非常に低いだけなんです。完全なカオスにみまわれた場合、可逆しないとも言えません。ですので、マヤ神話のような、宇宙は死と再生を繰り返しているという考え方は一理あるわけです」ふぅとひろこは深呼吸。話を自分で整理するように胸に手を当てる。そして、続ける。「時間も根本的には三次元空間と同一ですから――つまりひっくるめて、表現するならば時空ですね。ですので、大統一理論以前の四つの力のうち、最も根源、宇宙創成より存在する場を持つ重力の干渉によって、後発の次元である時間は簡単に歪みますし、先進波と後進波も常に未来に向くとは限らないんです。今が、過去に影響を与える可能性がないとは誰も言えません。
ちょっと解りにくいですけど、時空で考えたなら量子テレポートは空間的な現象ですが、同じアナロジーでタイムトラベルも語れないとも言えません。もっとも、頻繁にタイムトラベルは事実上起こっているといえます。エミール=ドルエの発想はやや古典的解釈で、誤りとしても、地球は自転していますから――」
美紀の頷きも全く関せず、ひろこは朗々とタイムトラベルについて語った。難しい専門用語は使われていない概念的な概略だったが門外漢には堪える内容だ。金魚のように口をぱくぱくさせる以外にどうしろというのか。
無論、美紀はひろこの喋った内容が少しも解らなかった。ただただ圧倒されてしまうばかりだ。このままでは、延々と語り続けそうな気配が濃厚だったので、茶々を入れる。「……先輩ってSFマニアですか?」
「いえ! そんなことないですよ! つい……私たちの間では常識みたいなものなんです!」
ひろこは自分の熱弁っぷりに気付き、慌てだす。全身をせわしなく動かし、取り繕う。あいかわらず、年上とは思えない愛くるしい挙動だった。
「テンプノート(時間飛行士)ですもんね、先輩」
テンプノートという言い方は、タイムトラベラーというよりも衒学的な響きがある。アストロノートからの類推で生まれた言葉だ。あえて、使ったのは当然、この衒学的上級生に一矢報いる為だ。
「おちょくってません? 手塚さん」
「そんなことないですよ」
「すいません」何故かひろこは謝った。眉がへの字にさがっている。
「え? なんで、あやまるんです?」謝られた理由を解せず、美紀は訊いた。どっちが悪いかといえば、むしろ、茶化した自分が悪いような。
「いえ、そのウンチクばかり垂れて、肝心の根幹部分が話せなくて……。タイム=パラドックスじゃないですけど、手塚さんに重要な部分を話すと、その……別のパラドックスがですね……。だから、根掘っておきながら、その申し訳ないといいますか……」もごもごとはっきりしない口調で言う。
「いいですよ。先輩、そういうキャラなんだなって思っときますから。永井先輩、結構、おもしろい人だったんで、よかったですよ。むしろ」
「そう言っていただけると、嬉しいです」ひろこはにっこり笑った。
バスはもう直ぐ西千拾につきそうだった。バス停のコールが『次、西千拾、西千拾』と告げた。美紀が降車ボタンを押すと、物珍しそうにひろこがその様子を眺めていた。




