三章 流れる日常、その平和に耽溺す その1
まだ四月の中頃。櫻の開花と歩調を合わせて、やっと始まった新学期。新学年。にも関わらず、なんと転校生が来るとのことで、本日の二年四組は少しだけ浮ついていた。
転校生が美少年、美少女なんてことはファンタジーにせよ、時期的に考えれば不可思議だ。こんな中途半端な時期に転向するには何か理由や事情があるに違いない。皆興味を抱いた。ふつうなら春休みのうちに越すはずなのだ。そこをそうしないのは、何かある――たとえば、親の夜逃げとか――があるのではなと、ゲスの勘繰りが渦巻いていた。
さわがしい四組にやってくる赤塚担任。いつものやる気のなさで教卓に陣取ると朝のHRを開始する。担任の登場によって、教室に満ちていたざわめきのボルテージが一段高まった。
「あー。おはよう、諸君。もう耳にしてると思うが、転校生がくる」開口一番、皆の関心事について赤塚は告げた。
囃し屋の生徒が、「待ってました」と担任の口上へ合いの手を入れる。続く、拍手。
「そうか。じゃあ、石森。入れ」
「失礼します」
中々の美声が凛と鳴って、教室に入ってきた転校生。中々の美少年であった。ややきざったらしい細目だが、クールといえなくもない。やひゃっと、あがる黄色い声。真逆に消沈する男子連。「こんなことなら、クッパやドムのほうが百万倍よかった」などと、笑止千万な呟きが教室の端々から漏れ聞こえる。
教室に入っただけにも関わらず、茶味がかったサラサラヘアーと、小さい顔の乗ったすらりと細い四肢と胴が女子たちの心をわしづかみにしてしまったらしい。
きざったらしい口元が、美紀はあまり好きにはなれそうにないと思った。
美紀は転校生石森を見た。目がカチ合った。視線が何度か交錯し、なんだか気まずくなった。そこで、逸らした。
くだんの転校生は戸のレールを跨ぐと、教卓の方へはいかなかった。なぜだか一目散に美紀の机のある方へとやってくる。え? と美紀は思った。石森は、ぴんと背筋の伸びた姿勢でつかつかと新品の上履きを鳴らし、美紀の真前で足を止めた。
そして、言った。「神様っ!」
この発言で二年四組に氷河期が到来した。無音の世界も降誕した。いや、ザ=ワールドであった。時が止まった。皆、壊れたマリオネットのような動作で首を回して美紀と石森を見た。
「石森?」怪訝な問い掛け口調で赤塚。しかし、全く石森の耳には入っていない。あたりを慮らんばかりか、更なる意味不明発言を繰り出した。「美紀さまっ!」
発声と同時に、真摯な石森の眼差しが美紀を射抜いた。しかも、両手を慈悲深いクリストのイコンのように拡げ、さぁ飛び込んできたまえ的な慈しみの表情を浮かべている。絵にはなっていたが、正直きもかった。
美紀は首を回した。皆が自分と石森を交互に見ている。困った。何だ? これ?
意味深で勘繰るような、いくつかの双眸が美紀に向いているのが目に留まる。しかし、美紀本人も勘繰られるようなことをした記憶はない。呆けたように、石森を見上げた。勘繰られるような目線の原因は、全部目の前の男の所業である。
「えっ…… 私? 神様? へ?」戸惑いながら、しどろもどろになりながら、石森に訊ねた。
すると得心したように大きく首肯する石森。「そうです! 美紀さまは神様です」目を爛々と輝かせて断言した。何の疑いもこもらない真剣そのものの顔。恐いくらいに真面目な顔。これが字義どおりの確信犯というのだなと美紀は思った。どうしようもないと思った。
「ふぇ……」
新手の告白か、なにかだろうか……。などと考えることで、現実逃避へと思いを馳せる。
一瞬だけ救けてくれオーラを愛に送ったが、無碍にもスルーされた。彼女は完全に野次馬と化し、傍観者の立ち位置に徹していた。近くの席の輝樹はあろうことか寝ていた。万策は尽きた。
「石森……自己紹介くらい、しろ。ワケの解らんこといってんじゃない!」
困り果てた美紀と生徒たちに赤塚の助け舟。教師に怒鳴られ、石森は背中をびくっと振るわせた。案外、小心者らしいことが発覚。
「あ……その、すいません。えっと、石森昭二です」
美紀の前で自己紹介を始める転校生。
「ちゃんと、前でしろ。教卓に立て!」普段のやる気のなさが消え、赤塚の怒号が飛ぶ。なんとも、先生らしい。というか、軍人調の切り口上だった。今ばかりは教師らしいと感謝した。
「あ、はいっ!」かしこまる石森。すっかりしおらしくなって、彼は黒板前へ向かった。
美紀は石森が目前から消えて、ふぅと嘆息。最近、意味の解らないことだからけだと心中、嘆いた。嘆きの所為で、肺の空気がなくなりそうだった。
HRが終わると、石森は神様発言が仇となって、クラスメイトから質問攻めにあう羽目におちいった。ようするに、オモチャにされるネタキャラと認知されてしまったわけだ。おかげで、授業の休み時間など、美紀は石森の相手をしなくてもよかった。神様なんて休み時間ごとに言われたら堪ったものではない。
一応、クラスメートの何名かから「どういう関係?」と訊ねられはした。が、「知らない」と言い続けた。実際問題、知らないのだから嘘は言っていない。そもそも、知らないことをどう応えよというのだろうか。
そして、昼休みも同じ調子だったので、僥倖得たりと美紀はさっさと文学部室へ遁走した。向かう途中、パック牛乳を買い込むには忘れない。これは日課なのだ。身長を伸ばすとか健康によいとかそういう即物的な目的があるわけではない。単に好きなのだ。
文学部室に入る。すると、既に松本が椅子にかけて日の丸弁当を拡げていた。ただし、箸はつけず、所在なげに両足を机の下でぶらぶらさせている。
美紀が適当にパイプ椅子に掛けると、数分もせずに愛と輝樹がやってきた。最後にひろこが来て、先日と同じメンバーが揃った。昨日同様、愛が音頭を取ってから昼食が始まる。
「あれ……なんだったのかな?」
牛乳パックをちゅうちゅうしながら、美紀は愛に話を振る。
「昭二くんのことかにゃ?」ミートボールを頬張りながら、愛。ミートボールのソースが唇にひっついている。
「そう。ほんと――」美紀は心に溜まった愚痴を吐き出してやろうと、息を吸い込んだ。
「何か、あったのでしょうか?」話題に食指が動いてしまったのだろう、ひろこが会話に加わろうと二人の話間に割って入った。
「えっと……」
どのように説明したら、いいものか? 美紀は首をひねる。
「痛い人が転校してきたんだ」応えあぐねている美紀に代わって、輝樹が応じた。
「痛い人ですか?」
「中々、重度のイタさだったねぇ。ありゃ、きっと新興宗教のジィーロットに違いないにゃぁとあたしは思うねっ!」
「いきなり、さまづけはないよなぁ」
「なんか、変人ですね……」苦笑いしながら、ひろこ。
「そう……全く、もう! しょっぱなから、ひとを神様呼ばわりして……」鬱憤を晴らさんと美紀が高らかに、拳を握ったところで――。
「お呼びですかっ!」長机の下から声が沸いた。そして、飛び出す人の顔。
「ひやあああああ」「やああああ」同時にあがる、ひろこと美紀の悲鳴。飛び出した顔がイケメンであるにしたって、唐突すぎる。これでは、ゴキブリが目前を飛翔していったのと大差ない。しかし一方、愛と松本はふぅんとジト目で彼を睥睨した。
「呼ばれて飛び出て――」嬉しそうに言いながら、机の下から姿を見せるのはもちろん、話題の痛い人であった。口からチラっと見える白い歯が無駄に爽やかだったが、この状況では気持ち悪さを増幅させる燃料にしかならなかった。
石森は上半身をねじりながら、机の下から這い出る。全員の脚に当たらないように身を隠すのは相当難儀だったようだ。一向に、全身を出し切らない。
「うざい」鈴の音のような響きが訪れた。
ガボアァ!
頭蓋骨が砕け散りそうなほど豪快な音がエコーする。音が残響を刻んでいるうちに、石森がリノリウムに落ちる音が続いた。
床に崩れた石森は、中々起き上がらない。一応、外傷から察するに頭蓋骨は破損してはいないようだ。不穏当な空気が流れた。
「松本?」
下手人の名を輝樹が告げる。全員の視線が、松本に注がれた。
美紀は彼女が手を下す瞬間を目撃していないので、大人しそうな彼女の犯行に驚いた。
次いで、松本はぴくりともしない石森を机の下から引きずり出す。そして、部室の隅っこに放り投げた。ボウリングの要領で、勢いをつけられ、床を華麗に滑っていく石森。
最終的に壁にぶち当たって、またしても鈍い音がとどろく。しかも、頭の先から爽快に直撃だ。今度こそ本当に頭が裂けてしまったやもしれない。
松本以外のランチメイト全員が、絶大なる冷や汗をかいたのは間違いなかった。ヘタをすると死んでいるかもしれない。
最初に様子見に向かったのは、輝樹とひろこ。
「気絶してるぞ……」
呼吸や瞳孔を輝樹が確かめる。輝樹の傍らで脈を取っていたひろこが言う。「脈は……あるみたいですよ……」そこはかとなく、自信なさげなのが虚しさを醸す。
「よかった。死んでなくて」
生死を確認した二人はほっと胸をなでおろす。おかしな男とはいえ、死ぬるべきではないだろうから。
「本当です。松本さん!」ひろこは振り返って、松本を難詰する。彼女の正義感がそうさせているようだった。彼女の厳しい視線を受けて、松本は小さく「つい……」と答えた。言い訳する気はないようだ。
「椅子は六つあるんだから、別にいいのににゃぁ」パイプ椅子にかけたまま、ほとんど他人事のように愛は言った。
「いや、でも今の登場はNGじゃないかな」
輝樹はひろこと異なり、松本の肩を持った。
隣でひろこは不服そうにした。石森は一応無事であったので、ひろこもこれ以上問題を深くするつもりはなかった。わずかに、ふぅと嘆息する。
「確かに。輝樹くん、一理ある。で、どうするかにゃ、これ」
愛はこれよばわりしながら、動かない石森を見下げた。
「隅に放っておこう。異議のある人」輝樹が、とんでもない提案をする。
「異議ない」「異議なしだにゃぁ」「……異議ありませんけど……」「異議ないかな……」
最後はひろこも石森の敵に回るのだった。
石森は昼休み中に起きることはなかった。チャイムと共に部室を去る際、ひろこと美紀は彼に合掌しておいた。




