二章 自販機に、かざすタスポの物悲し その1
新学年の初日とあれば始業式しかない。つまり、半ドンなのである。昼過ぎには放課になった。やる気のない赤塚教諭の終礼は、カップメンも半生だろう時間で切り上げられた。
美紀は結局、輝樹にイエスもノーも言わないまま下校時間を迎えてしまい、困り果てていた。このまま何も言わず帰ってしまおうかなどと考えて、鞄を掴む。
愛と輝樹の席順は近い。ゆえに、彼女の元へ行けず逡巡していると愛の方からやってきた。渡りに舟だった。一緒に下校しようと彼女を誘うつもりだったのだから。
「愛、帰ろう。今日、部活ないでしょう?」
「常にないようなものだけどにゃぁ。あたしは天才だからねぇ」
「意味が解らないんだけど」
「ユーレイ部員でもエースのあたしをなめないこと!」
「うーわ……かわいそうなテニス部員たち……。こんなのに負けるなんて」わざとらしい嘆息をしてみせる。本当にテニス部員たちが不憫だと思う。日々努力を重ねているであろうに、こんなユーレイ部員にエースの座を奪われるとは。半殺しにされても文句は言えない気さえする。
「こんなのとは何だ、こんなのとはぁ! ――っと、それよかさぁ、輝樹くんは?」
「……その……このまま帰っちゃおうかなぁって」
「んみ? 別にあたしはいいけど」
意外な言葉だった。美紀はてっきり、愛はつっかかってくるモノと踏んでいた。なので、肩透かしを食らった。
「いいんだ……」ちょっとばかり、拍子抜けである。
「だって、先帰ったしぃ。彼」愛は後ろ指で彼の席を示した。
「ほえ?」
美紀は輝樹の座席を見た。彼の姿も鞄もなかった。彼は帰宅部だ。鞄がないなら、下校したと見て間違いはなさそうだ。初日から生徒会の用事もないだろう。
結構消沈した。朝の提案は何だったのだろう、と思うと。
「まぁ、行こう」
愛に先んじて美紀は教室を出て、昇降口へ降りた。普段どおりなら肩を並べるのに、今回はやや後方からついてくる。
前庭を突っ切って、校門を抜けようとして――びくついた。
校門の翳に、帰ったはずの人物がいたからだ。
「横山くん!」思わず唾が飛び出した。
「おっと、おどかして、ごめん。柳瀬が絶対、手塚がばっくれるだろうから待ち伏せがいいって言うもんだからさ……」
「……愛?」緩慢な動作で愛のほうを向き、睨む。
「にゃはは! このシャイ=ガール! あたしの友達想いに感謝感激雨アラレと、泣いてむせぶがいいわ!」
「黙れ……ツルペタ」輝樹には聞こえないように声を絞って、愛の耳に囁く。ついでにとばかりに、耳たぶを引っ張った。彼女の膚触りは実にもちもちしていて、手触りが良い。他人のことをとやかく言えないが、ガサツそうな人間がお手入れいらずなモチ膚持ちなのが気に入らず、トドメに頬も摘んだ。
「耳やめて! 耳! ピアスあんだから! 頬も、頬も痛いにゃ!」愛はこれでもかと身をよじって、抗議する。
散々暴れるので、赦してやろうと耳から手を離す。代わりにツインテールをぐいぐい引いた。美紀に髪を引っ張られ、自由を欠きながらも愛は言い放つ。「ややや、輝樹くん。暴虐な娘っこだけど、よろしくにゃ!」彼女の辞書に懲りるの文字はないのだった。
「あんまり、じゃれてると邪魔だぞ」
「……うん」
輝樹に言われて周囲を把握せんとする。下校する生徒たちが迷惑そうにしているのが目に入る。バツが悪い。美紀は他の生徒に小さく頭をさげた。
一方愛は確認すらせず、「まったく。ハゲになったらどーすんのさね」とクレームを言いながら、ツインテを丁寧に漉く。いとおしそうに髪の一本一本をさすりながら、彼女はぶうたれた。「この縄文人頭っ!」恐らく、美紀の癖っ毛の揶揄している。しかし、ちっとも堪えなかった。
じゃれあいが再燃しそうな気配。そこで輝樹は「んじゃ、行こう」と言って、掌をクールに返した。
輝樹を車線側にして、愛、美紀と並んだ。
「……あのね、横山くん」
「ん?」
「――横山くんの家って北橋だよね?」おっかなびっくりな仕草で美紀は訊ねた。
「いや、引っ越したんだ。今は西千拾」
「ほえ!」思わず、美紀は仰け反った。
北橋と西千拾は、文字通り下谷川市の北と西にある。三人の通う高校は丁度市の中央に位置する。だから、一緒に帰ることは不可能なはずなのだ。今朝に輝樹から提案を受けたとき、美紀はそこが気がかりであった。謎は解けたものの、引越ししていたとは予想外だった。
「西千拾つったら、あたしらと同じじゃん。あー、だから帰ろうって話かにゃ?」
輝樹は無言で首肯した。
「じゃあ、朝っぱらからOKかにゃぁ?」
「そうだね。登校も」
輝樹が答えるなり、にかっと笑いながら、愛は美紀へサムズアップする。
当の輝樹は愛の行為の意図が汲めず怪訝な顔をした。
「四分の一時間ってのが残念だねぇ、みーにゃん」愛は美紀の肩を叩いた。
「いい。全然いい」
美紀は恍惚とした表情で青空を仰いだ。青々しい絨毯は間延びした雲のきれを散らして高く遠く、全天を包むようにして拡がっていた。まるで、現在の気分を代弁してくれているかのようといえば言い過ぎだろうか。
校門を出て、すぐ右折する。しばらく行くと通称『自販機商店街』と呼ばれる一帯が現れる。もっとも道路脇に並ぶ、何の変哲もない自動販売機の列を商店と呼んでいいのか不明だ。
ここで何が売っているのかといえば、驚くなかれ清涼飲料水はもとより、不良学生用のタバコ、健全な男子諸君用のビニ本、学生なら必須の文具類、マイナーなものになると、古銭やテレホンカード、ワインコインフィギュア(ガチャガチャにあらず)など多種多様に亘る商品が売っている。まさに、何でもござれ状態。へたなスーパーよりも品揃え豊富なのではないかと思ってしまうほど。
整列する自販機の総数を正式に数えた生徒など、おそらくいないだろ。が、約三百メートル近くに亘り五十を超える自販機があるのは確かだ。
自販機商店街は数少ない下谷川の生徒たちのたまり場だ。幾人かの生徒がマシンの前でたむろしている。まだ時間が早く、帰宅部がメインである為、総数はそう多くない。
その中に混じって、奇妙な挙動を繰り返す人物が約一名見受けられた。背の低い女生徒だ。一五○センチあるかないか。財布も出さずに必死な表情で自販機の正面で飛び跳ねている。連れはいないようだ。
よく目を凝らすと、彼女は自販機へ向けて何かをかざしているようだ。どうみても意味不明かつ無意味な行為。しかしながら、どうにもならぬことが不服らしく神妙な面持ちになってうんうん唸り始めた。唸るごとにボリュームある栗毛がふわふわと全方位に揺れている。
皆、不審がって声をかけようともしない。くだんの女生徒も懊悩をやめない。
美紀も他の生徒に倣い、気付かぬフリを決め込んで素通りする所存だった。が、美紀の頭の中などお構いなしに輝樹は声をかけてしまったのだった。「どうしました?」
彼の行動をやっちゃったなぁと思いながらも、彼の背後で様子見するに決める。
「出ないんです」唸っていた女生徒は輝樹の声に振り返る。消え入りそうな声で応えた。瞳の大きな目には薄っすらと泪が浮かんでいる。その様子に、尋常ならざる気配を覚えて輝樹はたじろいだ。
セーラーカラー下部からさがるタイの色から察するに、彼女は三年生であるらしい。美紀たち二年生は青で、三年生は赤だ。ちなみに一年生は白。彼女のタイカラーは赤なのだが、中学生と言っても通りそうな顔立ちをしている。恐ろしいまでの童顔だ。
「何がです?」やんわりとした語調で輝樹は訊く。一応上級生相手であるので敬語だ。
「ジュースです」うらめしい顔付で、女生徒は自販機のボタンを叩く。一回、二回、我慢できなくなったのか、高橋名人顔負けの連打を繰り出した。
「お金入れました?」当然湧くべき疑問を輝樹はぶつける。美紀たちが見ている限りにおいて、彼女は硬化も紙幣も投入している風は一切なかった。タダでものは買えない。
「いいえ。だから、おかしいんです。カードかざしても買えないの……」
「カード?」
「ちゃんと口座はあるんですよ? 整備不良ですかね」女生徒は眉をひん曲げる。憎らしそうに赤い塗装の自販機を見る。
「えっと……カード見せてもらえます?」
「はい」女生徒は掌に収まっていたカードを輝樹に見せる。さきほど、自販機にかざしていたブツはこれだ。
「……これ、タスポじゃないですか……」
彼女が手にしているカードは未成年にタバコを買わせない為に、約二十年前に導入されたタスポだった。どうして高校生なのにタスポを持っているのかという疑念があるが、これについては、あえて輝樹は訊かなかった。世の中、抜け道は幾らでも存在するもの。深く詮索しない方がいいこともある。
「タスポ? 双方間識別台帳カードじゃないんですか?」
「はい? ソーホーカンシキベツカァド?」
「Trans-Affair Significative Parsonal Passのことじゃないんですか? テランならみんな持ってるはずです」生真面目な調子で、女生徒は朗々と言いつのる。自分の発言に全く疑念はないらしい。あまりに堂々としていいて、聞いている側が識らないのが罪みたいだ。
「……はい? トランサフェイアァって?」
「ほら、見てください」女生徒はカードを輝樹に見せ付け、「タスポだったら、T・A・S・P・Oですよね? でも、これT・A・S・P・Pです。一文字違いますよね? 一文字違いって重要なんですよ、ウコンとアレとか……。色似てますし、ターメリックって呼ぶべきだとか思いますけど……」自信満々である。
一文字違いの重要性について、顔を赤らめながら語る。けれども、何処をどう見てもデザインからして、彼女の持つカードはタスポ以外の何様でもない。青と白を基調として、顔写真が左側部分に入っている。文字は確かに彼女の言うようにTASPPなのだが、ちょっと細工すればこれくらいの偽装は容易とも思える。
輝樹は美紀たちのほうへ、同意を求める顔つきを向けた。二人は無言で首肯した。言外に輝樹の混迷は解ったし、頷かざるをえないシュチュエーションだったのだ。
「そんなカード、聞いたことないよね? どこかのカード会社のサービスなのかな?」小声で美紀は愛に訊いた。
「知らないにゃぁ。少なくともこの時代には、同盟はないはずだからねぇ」
愛は美紀を見ずに女生徒へ目を向けた。わざとらしく声も大きく、彼女に聞こえるように言ったらしい。したり顔に加え、口の端もにんまりしている。何か悪巧みをしているかのよう。
「あ……」愛の言葉を受けて、女生徒の肩が震えた。
自分の重大な勘違いに今更気付いたようだ。急激に彼女の顔が湯気をあげた。さっきから多少なりと赤らんでいた顔面が、更に紅潮した。四十度近い風邪患いでもここまで、赤くはなるまいと思えるほど、両頬に朱が差す。
「どうしました?」急変した態度を慮って、輝樹がは手をさしのべた。女生徒は、避けるようにして一歩さがる。「みみみ、見なかったことにしてください!」
今にも号泣しそうな顔で、少女は輝樹を凝視した。声が裏返っている。周囲のほかの生徒も気になって、彼女に視線を寄せた。
「その……」輝樹は返答に窮した。
「いいいい、いいんです! 私が勘違いしてたんです! ごごごご、ごめんなさい!」女生徒は、大音声でわめいた。手を大仰にばたばたしてとりつくろう。そして、反転。輝樹たちに背を向ける。
女生徒は駆け出した。「あ、ちょっと!」輝樹は彼女の背中へ声をかける。応えはなく、つまづきそうになりながらも止まることはない。衆人の視線を受けながら、近場の路地の角へと一目散に消えた。
三人とも鳩豆な顔をして一部始終を見続けた。
「何だったの? あの人」美紀は困った顔で愛に問う。半分、呆れてもいた。世の中、色々な人がいるもんだ。
「さぁ」愛はアメリカンなジェスチャーで、首を軽く左右に動かした。
「TASPPって何? 愛、知ってるみたいな口振りだったけど……」
「ほら、首都圏じゃSUICAってあるじゃん?」
「うん」
「あれって、自販機にかざすとジュース買えるわけよ」
「それで?」
「そういうサービスは、こんな田舎じゃやってないよにゃぁって。導入から四半世紀も経つのにねぇ。これぞ二十世紀末より始まった格差社会、地方格差そのものだにゃぁ! ま、駅構内となれば、話は別だけどね。つまり――彼女はきっと未来人なんだよ」
「意味解らないけど?」美紀は首をかしげた。愛の話の飛躍についていけない。何故結論がそうなる?
「輝樹くんもそう思うよにゃぁ?」
愛は、半ば放心状態の輝樹に話題を振った。突然振られた彼は、「ああ」と頷き「そうだよ」と言葉を継いだ。
「むぅ……横山くんがそう言うのなら……」不服だったが、美紀は肯った。
彼女の態度が不承不承すぎたので、慌てて輝樹はフォローを入れる。「……あ、うん。そうそう。この前、テレビでやってた」
「双方間識別台帳ってのは、国民基本台帳ネットみたいなもんだよねぇ。それの世界版。個人口座とかとも連動してて、大きな政府の象徴みたいなもんさね」
どうやら、未来技術の番組か何かでやっていたようだ。美紀は視聴してはいなかったが、二人は視聴していたらしい。しかし、これはあくまでテレビの話である。それを真に受けるなんて――考えれられる可能性は一つ「ようするに、頭の弱い人?」
「そんな、身も蓋もないなぁ」愛は苦笑した。
挙動不審な上級生なきあと、とどこおりなく三人は西千拾に至った。そろそろ、お別れの時間だ。
自宅の玄関先が視界に入る。手塚家の門柱の前には普段見かけない中型バンがとまっていた。側面には有名な引越し屋のマーク。同様に愛も気付き、「あれ、輝樹くんの?」と訊く。
「いや……。引越しはもう終わってる」
横山家の引越しが行われたのは昨日今日の話ではなかった。
「そっか」
「んじゃ、俺はこっちだから」
そう言って、輝樹が向かった先は手塚家の真正面の家。新築ではない。宅地開発として、同時期に建てられた建売住宅の一軒である。手塚家宅もその建売の一軒なので、全く同じデザインをしている。二階建ての6LDK。青い瓦にクリーム色の外壁。ファッショナブルでもダサくもない一般的な安手の家屋。
「へ?」
亀のように首を伸ばして、まじまじと横山家の玄関先を覗き見る。
「ここに引っ越したんだよ。先週」自宅の玄関先を指しながら、輝樹。
「……あ、うん」本日は衝撃的なことが多く、もうどうにでもなれぃ! 状態の美紀は壊れたマリオネットみたく首を縦に振った。
「よかったねぇ」
愛はほくそ笑んだ。加えて、セクハラ親父ばりの手つきで美紀の尻をまさぐった。行為の意味が不明すぎた上、気持ち悪かったので有無をいわさず引っ叩く。
「また明日。手塚に柳瀬」
輝樹と別れ、すぐさま愛とも別れた。
「んじゃねー。また、あしたぁ! ほななー!」
「うん」
一気に喧騒が消えた。美紀はぱたぱたと駆けて行く愛の後姿を見送った。
彼女が曲がり角に消えると美紀の周囲に残るのは、閑静な住宅街の細い道。
愛の姿が見えなくなった。美紀は自宅の門柱を抜けようとした。そこで、門前にいる人物に気付く。見覚えのある人物だった。それも半時間くらいまでに見た。
「あれ、赤塚先生じゃないですか?」
手塚家の門前にいるのは、本日担任であると明かされた赤塚教諭。呼ばれた彼は、驚きもせずにゆっくりと顔を美紀の方へと向けた。
「ああ、手塚。やっぱり、ここはおまえの家だったのか?」表札を見ながら赤塚は言った。手塚姓は、さして珍しい苗字ではないが、学校に二人もいるような名前でもない。赤塚が美紀の家と推定したのも頷ける。
「はい。その何か用事でしょうか?」
「いやなぁ、引越しソバでも……と思って」
後頭部を申し訳なさそうに掻きながら、赤塚は手に抱えた木箱を美紀に見せた。木目調の、丁寧な装丁は結構値の張るシロモノに感じられた。担任という事実が赤塚を奮発させたのだろうか。そんなにしなくてもよいのにと、美紀は思った。却って恐縮してしまうだけではないか。
「あの運送屋、先生が頼んだのですか?」美紀は引越し屋のバンを見ながら言った。
頷きつつ赤塚は答える。「そうそう。隣に越してきたんだ」
「……ふえ……」無意識に潰れたカエルのような声が出てしまう。漏れてしまってから、慌てて口を塞ぐも手遅れだった。音は赤塚にきちんと届いてしまっていた。
「そんな顔をするな。そんな声も出すな。おまえが遅刻の常習犯だとは知ってるが、俺は気にしない」
「いえ……そういうことが気になったわけじゃ……」
しょっぱなから新しい担任に遅刻魔と知られているのも迷惑千万である。が、美紀にとっての現状の問題はそこではない。教師相手に堂々と言えるはずもない問題が横たわっているのだ。美紀は、歯切れ悪く俯く。すると案の定、赤塚の追撃が放たれた。
「じゃあ、何だ?」
「えっと……」美紀は言葉に詰まった。詰まりながら、うんうん言っていると、赤塚は呆れた顔になった。さすがはやる気のない教師。メンドーなので流すことにしたようだ。やれやれと軽く首をひねる。「まあいい。今後、よろしくな。親御さんは留守かい?」
「母さんはいると思いますけど?」
「チャイムならしても返事なくてなぁ……」赤塚は侘びしげにピンポンを眺めて肩をすくめて、笑った。
「そうですか」自分から話しかけておきながら、早く話を切り上げたく、美紀は素っ気なく応える。
「そんで、これどうしようかと思ってなぁ。渡してもらえるか?」
「あ、はい。どうも」高級そうなソバの詰まった木箱を受け取る。
「それじゃぁな」
「はい」
赤塚が自宅に消えたのを見届けて、ふぅと美紀は溜息を一つ。
玄関に入って、框を越える。ローファーを脱ぎ捨てた際、玄関脇に確認した母親の靴は全部揃ってちゃんとあった。外出しているわけではないようだ。そうなると、考え付く母親の居所は一箇所。
美紀は二階の自室へは行かずに一階のトイレへ直行する。トイレのドアの前に立ち、ドアノブを回す。しかし、鍵がかかっていて開かない。がちゃがちゃと何回か回してみて無理だと解ると、今度はトイレの扉をばんばん叩く。「母さん、母さん!」
「うみぃ」寝惚けた声がドア越しにやってくる。
「やっぱり……母さん、二度とやらないって言ったじゃないの」
「ごめん、ごめん。ついつい……」
ロックの外れる音がして、ドアがわずかに開いた。
美紀はドアを開け放つ。すると、トイレの中には便座にかけたまま、おぼろ眼の母親の姿があった。
「そんなんだから、主夫になりてーとか父さんが言うんだからね。もう、この温熱便座はがすよ?」美紀は眉を吊って、説教開始。便座が暖かいと舟を漕ぎそうになるということを肯定するのも、やぶさかではない。しかしながら、認めるわけにもいかない。トイレで寝てしまうなんて主婦失格ではないか。
「堪忍して……」しょぼくれて、しょげかえる母。
「しません! 父さんだって、長糞だし……。便秘ならコーラック呑めばいいの」
「堪忍して……」なおも、母は言いつのる。
「もう……」
美紀はなんとか母親を御そうと考える。
思案中に、口を開いたのは母。「そんなこと言ったら、美紀のベントー、もう作らないことにするよ?」
内容は完全なる脅迫だった。購買部や学食で買い食いすると、小遣いが痛手をこうむることは必至だ。こうなっては、謝る以外に道があるだろうか? あるはずがない。だから、美紀は謝った。謝るしかない。「……ごめんなさい」
「解ればいいの。解れば、母さんはまだ籠るから、宿題でもしてなさい」
そう言うと、彼女は再びトイレの扉を閉めようとする。その挙動を制止せんと、戸と建て付けの狭間に手を突っ込む。
「……。いくら進学校でも出ないよ……初日から」
「そうなの?」
「そうです」と言ったものの、実は嘘であった。下谷川は県内でも有数の進学校なので、私立に負けまいと躍起で、当然登校初日から宿題が出る。それも山のようにだ。友人同士で写し合わないと無理なくらい。
「でも、勉強は――」
母が疑いのまなざしを向ける。
閉めた。ドアを閉めた。即行閉めた。彼女の母はそれ以上、何も言わなかった。再度寝てしまったのだろう。本当に主婦失格もいいところだ。トイレで寝こけるのは親父とうのが一般常識ではないか。
美紀は二階の自室に向かった。
部屋にはいるなり鞄を床に投げた。そのまま、ベッドに頭からダイブする。ぶわっと舞い上がる布団とシーツ。中空へと踊り出す埃たち。ロクに掃除をしていない所為で、部屋は埃っぽい。
部屋着に着替えるのが何だか億劫だった。正直心の底から疲れていた。輝樹に帰ろうと言われたのが今朝。彼は近くに引っ越してきていたのが解ったのがさっき。しかも、引っ越してきたのは彼だけではなく、担任のおまけつきだ。前者は歓迎しよう、が、後者は限りなく――不要だ。歓迎なんてできるわけがない。
寝返りを打って天井へ顔を向ける。カーテンが開いているのが目に留まった。
「閉めよう……」
たとえ玄関同士が真正面に向かい合っていようとも、美紀の部屋が横山家から見えるはずはない。位置的に考えて、部屋の窓から横の隣家は見えても正面の道路は見えない。けれど、彼女は念の為、カーテンを閉め切った。精神的、心理的理由からだ。それが乙女心の真髄なのである。
そして、再び布団に顔をうずめた。長らく洗濯していないシーツは汗臭い。超、汗臭い。昨晩の寝汗の度合いを今更知った。あとで洗濯機にぶちこもうと誓う。
「暇い……」
部活もしていないので、いつものことなのだが、時間の経過の低速っぷりに、じたばたと四肢を動かしてみた。されど、そんなことをしてどうとなるものでもない。時間の進行は一定だ。
「暇い……」呟く。
しんと静まり返っている自室。今朝の夢のような事態は勘弁だとしても、もうちょっと刺激が欲しいところである。
「暇いよぉぉぉ」叫んだ。
そして、がばっと起き上がり、上体を伸ばして、「ポチっとな」パソコンのスイッチを押す。
ぶんとファンが微細な音を立てて、HDDの駆動音が後に続く。そして、BIOSが立ち上がる。
むずむずと蠢きつつ布団の狭間から手を出して、勉強机の上からノートパソコンを引っ張って、ベッドへ導く。強引に引き寄せたので、インターネット用のLANケーブルが電源コードに絡まった。
OSの立ち上がったパソコン。早速、ブラウザを起動。
向かうサイトはすでに決まっている。
「こういうときの、アーススケプ=インターナショナル」楽しげに呟き、美紀はタッチパネル上で指を踊らせた。お気に入りの中のフォルダ『暇つぶし用』を開く。アーススケイプを選択する。
アーススケイプは衛星写真と街頭監視カメラを連動させ、家にいながらにして世界中の情景や風景を見られるインターネットサービスのこと。基本的にサービスにかかる料金は無料であり、ユーザー登録も一般ユーザーであれば不要となっている。ゲストとして何時でも自由にログイン可能だ。
このサービスを利用して、ピラミッドや長城などの遺構や遺跡を見るのもオツであるが、ヘビーユーザーは、そんなチャチな楽しみ方はしない。
三角錐は真上から眺めれば、スクウェアに見えてしまう。しかし、地上からの視座では決してそのスクウェアは見えない。航空写真や衛星写真による地表の姿は、地上からの見方と違い、ときにカオティックな顔を見せる。その姿形を楽しむのが、ヘビーユーザーのたしなみなのである。
美紀は平静から暇潰しにと、アーススケイプで世界を俯瞰して楽しんでいる。暇潰しとしては結構これが使いものになるのである。今日も世界中の珍妙キテレツな風景を拝んでやろうと、ぐりぐりマウスホイールを回した。すぐに人面にしか見えようがない奇抜な造形の山膚を見つけた。
「うへへ。きもいなぁ……ん?」映像のキモさに思わず笑いをかみ締める。「ライブ映像、エラー?」にやにやしながら、ダブルクリック。
アーススケイプは、各地の監視カメラや人工衛星と連動しているので、現在の現地の状況を知ることもできる。その切り替えを行おうとしたのだが、なぜかできなかった。何度、クリックしても結果は同じだ。しかし、サイト側からのエラー表示は出ない。通信ラグだろうか。さきほどLANケーブルを引っ掛けてしまったからか?
「おっかしいなぁ……。向こうのサーバーがダウンしてるのかな? まあ、いいや」
美紀は手早く、諦念を決め込んだ。暇潰しに真剣になるのも、すごくバカらしいと思ったからだ。
世界は広い。もっと、ずっときもい――いや、おもしろい風景もあるだろう。
次を探せばいいのである。そうして、今日も無為に夕食時を迎える美紀だった。アーススケイプ探訪に費やした時間は、四時間近くに及んだ。
晩飯はケララカリーであった。ターメリックの芳香に、自販機商店街で遭遇した、ウコンとターメリックの違いを力説するチワワのような上級生を思い出した。
「未来人かぁ……。私の未来ってどんなだろう?」頭の中のアイデアが口をついて出た。
耳聡い父が、応える。「孤独死じゃないか?」父親とは、どだい思いがたい発言であった。しかし何となく現実感のある言葉のように感じて、身震いした。




