一章 初日より、あられもないこと、万事尽き その2
雀の声を耳にして、美紀は覚醒した。ちゅんちゅんと啼いている。羽をばたかせる音もその中に混じっている。はっきりしない頭を一回振るってから、床に目を落とした。
フローリングの上には、ぶっかぶっかでよっれよっれの部屋着以外には何もなかった。ほっとした。血だまりがなくて、心底安堵した。もちろん、黒ずくめの姿も彼らの死骸もあろうはずがない。
「いやな……夢」嘆息を一つ漏らす。朝っぱらから気分が滅入ることこの上ない。意味が違うかもしれないが、文字通りの目覚めが悪いとはこのことだ。
念の為にと、窓辺も見やる。爽快たる群青カラーの安手のカーテンは、微塵も揺れることなく、黄色い朝日を透過させている。
窓際へ行き、カーテンを開けはなった。遮ぐものがなくなって、まばゆい陽光が室内に降り注ぐ。真っ白な太陽がおはようを告げている。
窓枠の桟中央のロックを確認する。きちんと鍵はかかっている。硝子は割れてさえいなかった。こんこんと、硝子表面を小突くも痛んですらいない。ヒビ一つない。
「やっぱり、いやな夢……」
昨晩、最初のうちはいい気分だった。
横山輝樹ときゃっきゃうふふする恥ずかしい夢を見ていた。しかし、一転。何故か夢の中にも関わらず覚醒して、突拍子もなく自室に黒装束の侵入者たちが侵入してきて、彼らを輝樹が撃ち殺した。
夢の中で覚醒した所為で、てっきり現実と誤謬してしまったが、自室の状況を鑑みるとこれも夢だったようだ。夢の中で夢を見る。妙な感覚だ。現実感が揺らいでしまうようなアイロニックさがある。
しかも始末の悪いことに、夢中の自分は散々叫び声をあげて痴態を晒していた。冷静に思い返すと、一階で寝起きしている両親が階上で起こる激しい物音に対し、全く気付きもしなかった時点ですでにおかしかったことに考えが至った。これこそ、夢であった何よりの証拠だと思った。
「ほんと……何なのさ……」
自室の壁掛けの鏡を見ながら、肩甲骨まで伸びた髪をいじった。枝毛が際限なく跳ね、ぼっさぼっさに寝癖がついている。しかも、変な夢を見た為かいつも以上に寝汗をかいていて、普段の二割り増しでボンバーヘッドだ。
今朝もセットに時間がかかるだろうなぁと思うと、美紀のテンションはがくんとさがった。低血圧ではないので朝が弱いということはないが、この癖っ毛はどうにかしてもらいたいものだと、思う。神様は意地悪な奴だ。
休みの日なら、何時間かけようと問題はない。しかし、今日から新学期がスタートするのである。春休みも終わって、新しい幕開けだ。
クラス替えがあるから誰と一緒になれるかは解らないけれども、第一印象は大切だ。ズボラに支度するわけにもいかない。女同士の付き合いは、男と同じで舐められたら即終了な点においては一緒にしても、舐められる要素や条件が違う。
男性諸君は綺麗綺麗にしているブサイクを厭うけれど、彼女らが身だしなみを整えるのにはきちんとした理由があるのだ。女子が見てくれに拘泥して化粧の一つもするのは、どんなナヨナヨしい男子でも自室に鉄アレイの一つや二つ持っていて、家族にすら内緒で筋トレをひそかにかかさないのと少しも変わらない。
「美紀ぃ。起きたー?」階下から母親の呼ぶ声があがってくる。美紀はぞんざいに、「起きた」と返した。
「ご飯できてるよ」
「すぐ、行くから」
とりあえず長袖のセーラーに着替えた。春休み中にクリーニングに出されたであろう制服は、新品のような清々しい香がした。ピシっと糊も決まっていて、おニュー然としているものの春休み前に不覚にも石に蹴躓いて転んで、アスファルトで豪快に擦った右ひじ部分はぼさぼさと毛羽立っているので、新品ではない。新品ではないが、この新品っぽさは春休みで醸成されただらけた感覚を払拭する一助になりそうだ。
階段を降り、ダイニングへゆくと、食卓に目玉焼きとサラダとわかめの味噌汁が乗っていた。出来たてですといわんばかりに、黒塗りお椀から立ち昇る湯気。天井へ向かって、一心不乱に背伸びをしている。
「先に食べなさいね」母は美紀が支度に長時間かかるのを知っているので、先に朝食を摂るように薦めた。
美紀は少し考えてから、「解った」と答える。食卓につくと、朝餉らしい芳香が食欲を喚起した。示し合わせたようなタイミングで、お腹がぐぅと鳴った。
世間の女子高生の間ではダイエットの為にと、朝は抜くというのが流行っているらしい。というか大昔からメインストリームである。一種の宗教かもしれないと思えるほどに。されど、彼女にはあまり関係のない話だ。生まれつき新陳代謝がいいのか知らないが、それなりの量を食べたとしても。太ることはない。自分贔屓を差し引いてもスタイルの良い方であるし、必要以上に食を削って細る気もない。平均体重マイナス三キロで十分だ。身長も平均よりちょっと高いので、ほぼ安泰である。
さっさか、目玉焼きを味噌汁でかき込む。締めに牛乳をぐびっと一杯ひっかけて、彼女は洗面台へ向かった。食事時間計三分。早飯食いも太るというが、やっぱり美紀には関係ない。重きを置くべき部分と思っていない。
「白米、残ってるぞ」と背後から父がいったが、無視した。
残ってるとはいっても潔癖症の父の観点でいえば、そうなのであって、一般的な見解では器内面にこびりついた飯粒を残しているだとか、残っているとは表現しないだろう。米一粒には七人の神様の神様がいるらしいので、合計何人の神様がシンクの渦に消え、下水に流れるかは解らないが。
結局、支度に一時間超かかった。
美紀は化粧はしない。元々二重だから目をぱっちりにするチートもしないし、アクセの類もつけない。されど、一時間。全ては癖っ毛を整える為だけに浪費された。いっそ、坊主にでもしてくれようか。デミ=ムーアだってGIジェーンで丸坊主になったし。美人はつるっるつるでも映えるんだ、などと考えながら家を出る。
「行ってきます」
玄関先で告げて、道へ出た。母親の「いってらっしゃい」だけが聞こえた。恐らく、父はトイレだろう。新聞読みながら便座に座り、便秘にうんうん言ってるのか、政治記事にうんうん言っているのか解らない唸り声をあげているに違いない。
「おはよん」門柱を出たところで、唐突に人翳が現れた。美紀は身を引いた。
「うわ!」心臓が飛び出るかと思った。不意打ちとは、精神衛生に悪い登場方法である。寿命が十五分は縮まった気分。
美紀がびびって、口をもごもごさせているので「おはよん」と人翳はもう一度、一段大き目の声で言った。
「えっと……誰だっけ?」
本当に誰か見覚えがなかった。
美紀の前に立つ少女は美紀と同じ制服を着て、ブリーチした長い髪を色気のない無地のリボンでサイドアップにしていた。耳たぶからは、大きなリング状の銀色ピアスがさがっている。そのリングには更に、一回りほど小さなリングがいくつか連ねてあって、ジャラジャラと囃したてるような金属音を奏でる。
「あーあ。酷いなぁ。愛ちゃんですよ、愛ちゃん。愛し麗しの愛ちゃん。柳瀬愛。親友、忘れるなんてサイテー」愛はむすっと頬を膨らませる。非常に解りやすい漫符然とした感情表現をしてみせた。やや釣り目気味なのであまり似合ってはいなかったが。
「……ごめん。愛」
「春休みボケかにゃぁ?」美紀よりも、目線一つ分低身長の愛は下から覗き込んだ。
「ん……多分」美紀は小声で言った。
目の前の人物は確かに柳瀬愛、その人である。自分の数少ない友人の中、最も親しい人に違いなかった。どうして忘却していたのか。妙チクリンな語尾の『にゃぁ』を忘れるはずもないのに。ほんの数秒のこととはいえ、誰か解らなかったのが心底不思議に思えた。彼女の言うように、春休みボケかもしれない。
休み中は一日中家に籠ってヒキコモリ状態フルスロットルだったので、対人スキルのレベルや脳味噌の機能が下がったのかも、とも思う。元々あまり人付き合いが得意ではない所為もあるにせよ、反省せねばなるまいと美紀は思った。
「みーにゃんさぁ、メールもくれないし!」
「だから、ケータイ持ってない……」
いまどき、ケータイを持っていない人間などというのは、大学進学しない人間よりも少ないかもしれない。美紀が持っていないのは、ケータイに通信費としてなけなしの小遣いを割きたくないのが理由である。
「パッソあるじゃん」
「起動するのがめんどくさい……。あれ、父さんのお古でWIN2015なんだよ」
「古っ! 十年近く前のOSじゃん。それにしても――この不精もにょめ!」
愛はびしっと人差し指で美紀を指した。一方の手は腰にして。今にも『異議あり!』と言い出しそうなポージングだ。
出不精なのは本当なので、美紀は反駁をしなかった。
「とりあえずさ、学校行こう」美紀は腕時計を見ながら言った。
時計によれば、現在の時刻は是が非でも急がないと遅刻というレベルではないが、全く急がなければ遅刻という微妙なラインだった。
「そうだねぇ。時間、ヤベーかもにゃぁ」
二人は肩を並べて、下谷川高校を目指した。
学校までの所要時間は、美紀たちの棲む住宅街から大体徒歩で十五分くらいだ。やや早足気味ながらも無言で歩くことなど、決してない。それが女子高生クオリティ。駄弁りに使う時間は無駄にしたりしないものだ。
「ねぇ、手紙の件どうなったぁ?」
「手紙?」
「みーにゃん、忘れたのかな?」
美紀は自分の記憶を検索する。しかしながら、それらしい記憶は一つも引っかからない。全く心当たりはないので、「解んない」と正直に言った。
「そっか、忘れたんだ」意味深な様子で、愛はにやにやした。かなり含むところがあるらしい。美紀はそれがとても気になった。
「むぅ。何のこと? 教えてよ」
「輝樹くんの話さね」
どきりとした。無言で、愛から目線を外す。彼が出演する妙な夢を見たばかりだったからだろう、自分自身の反応に自分で困る美紀だった。
「初心いですね、お嬢さん。名前出しただけじゃない。にゃはは」特徴的な笑い声をあげた。
「からかわないで……。なにか意味深な風、愛がしてるからじゃない……。そういう、唐突な話のフリに動揺したんであって――」
美紀の言い訳を愛はばっさりと、中途で裁断する。「一緒のクラスだといいねぇ?」
「……別に……」蚊の鳴くような声量だった。
「はいはい。ツンデレ、ツンデレ」
「煩いなぁ」
美紀は愛をド突こうと手を伸ばす。が、愛はひらりとサイドステップを踏んで躱す。踊るような、洗練された回避運動。美紀の行動は完全に愛に先読みされていた。「甘いにゃぁ。メリケン産のチョコ並のシュガー量だよ。にゃはは」躱した勢いのまま一回転して、愛は勝ち誇った様子で胸を逸らす。弓なりに背筋は曲がっているのに、ぺったんこの彼女の胸部は少しの自己主張さえしなかった。
「むぅ……」美紀は唸った。とりあえず唸ってはみたものの、ここまで華麗に回避されると第二撃を当てることなどできそうもないので、諦めた。復讐はまた、別の機会に。
そうこうするうちに、学校を囲むコンクリートの周壁が見え、校門、その門口柱二つが姿を見せた。普段なら他の登校中の生徒たちで賑っている場所であるのだが、美紀たちから校門までの数百メートルの道程に、生徒の翳は一つもない。
「あれ……やばくない?」
時計に目を落とすと、なんとチャイム三分前だった。真面目な生徒の多い下谷川高校、遅刻することが解り切っている時間に通学中のものなどいようはずがない。つまり――。
「ヤベーにゃぁ!」ちっとも緊張感のない調子で愛は言った。
「ヤバいね」と美紀。
愛があまりに緊張感がなかったので、美紀も気が緩んでしまった。しかし、美紀の気が緩んだのを見計らったように、いきなり愛が走り出す。美紀を路中に放って。
「あ、ちょっと!」反射的に愛の後姿へと声をかける美紀。だが、待てと言って待つ泥棒はおらず、彼女も待てと言って待つような人物ではなかった。ゆえに彼女の脚は速度を緩めるはずもなく、むしろ加速を増した。鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
「あたしは、遅刻ヤだからねぇ!」走りながら愛は後を振り返る。そして、あっかんべーと舌を出す。親友は完全に裏切ったようだ。
負けじと美紀も駆け出す。置き勉している為、鞄自体はそう重くはないものの、足を前に踏み出すごとに大きく揺れるので、走るのにすごく邪魔になった。こういうときのことを考えると、学生鞄よりもリュックサックのほうが便利だと思う。
校門の奥のほうへ視線をはわせると、いざ遅刻者狩りへと向かう教師がグランドを横切ってくる様子が視界の隅に映りこむ。教師は校門まで百メートルくらいの位置につけている。間に合うか間に合わないか、結構瀬戸際だ。
さして運動の得意でない美紀は、あっと言う間に愛と差をつけられた。愛は性格が快活なのと同様、日がな一日アクティヴ模様で、じっとしているのが我慢できないタイプだ。ゆえに運動全般が得意だ。追いつけるはずがない。
愛はチャイム五秒前に意味もなくヘッドスライディングを豪快に決めて、校庭の沙粉を撒き散らしつつ校門を抜けて行った。彼女の行為に向けられる教師の、苦渋の顔。教師を舐めているからこそできる行動なので苦々しく思われるのも致し方ない。愛が滑り込んですぐチャイムが無慈悲に鳴った。
美紀が校門に息をきらしながら至ったのは、チャイムの鳴った遥か後だった。教師は既に校門前に陣取っている。
「手塚……」引き攣った笑みを浮かべながら、校門の前で仁王立ちになっている教師。筋骨隆々で浅黒い膚の、絵にかいたような体育教師。手には弦の緩んだ竹刀を持ち、威嚇するようにアスファルトを切先で叩く。幼稚園児なら即座に泣いてしまうくらいの威圧感をびしびしと放っていた。
「……すいません」蛇に睨まれた蛙の如く、美紀は即座に謝罪を展開。しかし、それだけで赦す気など教師の脳中には毛頭なく、「何回目だ?」と言いながら眉をひくひくさせた。
「……解りません」
実際、憶えてなどいなかった。一々遅刻の数を勘定する役目を負っているのは、生徒ではなく、教師であろう。
「俺の記憶が正しいなら、おまえは――」
美紀の前に立つ教師は生徒指導もかねている。授業で会ったことはないが、朝に何度も遭遇戦を経験している。つまり、美紀は遅刻の常連なのであり、彼は仇敵といえる。
「今学期は一回目です……」ついうっかり、反骨心から美紀は余計なことを口走る。当然これは仇にしかならなかった。全き失言であった。
教師の逆鱗を逆なですることくらい少し考えれば解りそうなもの。けれども美紀は親友の裏切りと、走ったことによる体力消耗によって、思慮的になおざりだったのが災いした。
「ほう! 新学期は今日からだよなぁ!」皮肉めいて言う教師。
「……はい」消沈する。
「つまり、それは今学期遅刻率百パーセントってことだよなぁ!」
「……はい」
そして、始まるお説教スパイラル。息巻く教師のお説教は粘着質で、とてつもなく長い時間のように思われた。実時間、十五分も経ってはいなかったがカイロス時間的に考えて苦痛だった。苦痛なだけで、遅刻を反省する気は少しもおこらなかったので、無意味という他なかった。




