一章 初日より、あられもないこと、万事尽き その1
窓硝子が盛大な音を立てて、割れた。飛散した硝子が室内一帯に散った。
大きな破砕音を耳に受け、手塚美紀は跳ねるようにして、飛び起きた。夢を見ている最中だった。心地よさを与えてくれていたそれは、覚醒によって即時寸断された。
夢の中断が少しだけ口惜しく残念な気分になったが、それどころではなかった。まず事態を把握しなければならない。
大きな音の正体を探した。きょろきょろと周囲を見渡すと、電子時計の青い灯に煌く無数の硝子片が目に入った。幾つもの欠片はフローリング敷きの上、暗天に煌く星屑の如く照り返しの灯に染まっている。
「へ?」美紀は混乱した。何ごとかと眉を顰めた。いくら大きな音がしたからといって、まさか硝子が割れていようとは思いもよらなかったからだ。一体、何があったのか? 寝惚け頭でも、すぐさま蓋然高いアイデアが浮かんだ。
――泥棒だ。
半ばはだけてしまっているお気に入りのキャラモノのパジャマを握り締め、タオルケットを胸元へ引き寄せる。身構え、神経を研ぎ澄ませ警戒しつつ、夜風の舞い込むようになってしまった窓辺を注視する。
前後左右にカーテンが激しく、はためいている。際限なく風が吹き込んできていて、窓硝子が破砕していることを最早、疑いようがなかった。
泥棒の翳も探す。しかし、それらしい姿は見当たらず、不安に駆られた。
タンスの陰、クローゼットの中、机の角、どこか目の届かぬ場所にひそんでいるのではないか? 可能性の数々を疑って、美紀は恐怖を感じながらもベッドから降りようとした。家族に応援を頼もうと思った。その為には自室から出なくてはならない。
足の裏が床につこうとしたとき、「確保ぉ!」男の怒号を聞いた。突然のことで、びっくりした。悲鳴の一つもでなかった。
声の残響消えぬ(きえぬ)間に、割れた硝子の狭間から黒ずくめの腕が現れる。黒い手は窓のロックを外した。サッシがおざなりに開け放たれると、複数の人翳が飛び込んできた。一人、二人、三人と次々に。
彼らは軽快な動作で、静穏なる足捌きでもって美紀の部屋に散開した。わらわらと登場した彼らの一人が、もう一度「確保ぉ!」と大声を出す。
美紀は事態が全く飲み込めず、ただただ恐怖して身を竦めた。とりあえず、彼らが泥棒ではないようであることは一目で解った。
泥棒が暗視ゴーグルをつけているなんて話、聞いたことなかったし、黒装束という一様な格好の、眼前の男衆は泥棒よりも特殊部隊の構成員に見えた。ガタイもしっかりしているし、タイツのように全身を覆う服には、隠しようもないほどに鍛え上げられた筋肉の凹凸が浮かんでいる。
逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、身体が硬直したように動かない。ベッドからおろしかけた足が中途半端に中空で止まったまま。更に、意志に反し肩の震えが止まらない。誰一人として、「殺す」などとは一言も言っていないのに、死を身近に感じた。咽元にナイフを突きつけられでもした気分だ。それくらいの恐れを抱いた。
侵入者三名は美紀のベッドをぐるっと囲んだ。逃げられないように、ベッドの三隅に陣取っている。残された一隅は壁。美紀に退路はない。最早、階下の家族を呼ぶこともできそうになかった。
一人が手を伸ばす。美紀はベッドの壁際へといざり足で逃れた。すぐに部屋の壁に背中がつく。逃げ場は、あっと言う間に尽きてしまった。問答無用で、男の手が更に伸びてくる。思わず瞼が自動的に閉じてしまう。本当に殺されるとしか思えなかった。きっと、彼の豪腕でくびり殺されるのだ。
しかし、いつまで経っても男の指先が彼女に触れることはなかった。その代わりに、何かの破裂する音が部屋中に木霊した。続けざまに、花火の臭いが鼻をつく。
美紀は男の呻き声を聞いた。おそるおそる瞼をあげると、男の一人が前のめりで床につっぷしていた。悶絶し、四肢と背中をぴくぴく痙攣している。
「何だ、おまえ!」黒装束が声荒く言った。彼の視線は、美紀ではなく部屋の戸口へ向けられている。
美紀も彼に倣って、自室の戸の方を見やった。瞬間、ドキっとした。
寝る前に鍵をかけて閉めたはずの扉は何故か全開になっている。そして、その前に見知った顔があった。同級生の横山輝樹だ。暗がりの中でさえも見間違えるはずはなかった。毎日のように遠目にしていたし、片時も忘れたことのない人物だから。
彼の手には予想外のものが握られていた。闇に溶ける色合いの拳銃だ。彼はしっかりとぶれることなく構えを取り、銃口は黒ずくめたちへと向けられている。
「おまえたちに告げる名前はない!」輝樹は言うやいなや、一分の躊躇もせずにトリガーを引いた。
「――待て!」と男が言い終わらぬ間に、発砲音がした。銃口からわずかに火花が散って、一瞬だけ部屋が明るくなる。
銃弾は黒装束を撃ち抜いた。床に崩れた男の数が二人に増える。彼の顔が何の抵抗なく床に投げ出されたとき、骨に響き渡る不快な音がした。
銃撃音の直後、男の頭の辺りから飛沫が中空に散るのを美紀の目は捉えていた。その飛沫の正体についてなど、考えたくもなかった。いや、考えることができなかった。肥大化する恐怖感によって、思考が遮蔽されていく気配を彼女は感じた。
「おのれ……」最後の一人となった黒装束が、苦々しく奥歯を鳴らす。彼の所作は歯軋りとも恐怖による顎の震えとも、どちらにも取れた。
「軍部はやり方が極端ですよ? とりあえず、手をあげてもらえますか?」
淡々とした調子で輝樹が告げると、彼は観念したようで無言のまま両手をあげた。憎々しげに舌打ちを一つして。
「取り返しがつかなくなったら、どうするんですか?」
「おまえこそ、政府の回し者か、ミリティアか。どこの所属か知らんが、やってることに大差あるまい……?」
「でも、ぼくらは確保なんて叫びませんよ。彼女を動揺させたいんでしょうけど、ちょっとやり方が稚拙じゃないですかね?」シニカルに輝樹は鼻を鳴らす。
「おまえだって、こんなことしておいてタダで済むものか!」黒装束は怒鳴り声をあげ、輝樹を睨む。
「済みますよ。むしろ、わざとやってるんですから。眠り姫に見てもらわないと意味がないでしょう?」
「“リセット”狙いか?」
「黙秘します」断として輝樹は答えた。
目前の急展開に美紀はついていけない。軍部? 眠り姫? 政府の回し者? ミリティア? 単語の意味は薄っすら解っても、その示すところが全然解らなかった。ただ心中おろおろするのみだ。そうする以外に手段も手立てもなかった。
目を逸らしたいという強い衝動も湧いたが、脳裏の奥で誰かが見ておけと言うのを聞いた。その声は有無をいわさなかった。美紀は瞼をまばたきさせることなく、彼らの動向を注視し続けた。
「それでは、そろそろさようならですかね」
ちゃきっと銃把が鳴った。
「話し合おう!」残された黒装束が半ば取り乱す。
「問答無用」
再び引かれるトリガー。火を吹く銃口。硝煙臭が生まれ、ただちに男は床へと落ち込んだ。
「ひぃ!」美紀は悲鳴をあげた。
今度ははっきりと、床に流れているものを見てしまった所為だ。ゆったり流れるそれは、明らかに黒装束たちの頭部から発している。電子時計のわずかな灯と暗闇に慣れた両の眼は確かなヴィジョンで彼らの末路を捉えてしまっていた。
流るる粘体の正体は血液に違いなかった。もっと明るかったなら、もっとグロテスクな物々が目撃できたかもしれない。脳漿だとか――。
怯える美紀に、「大丈夫かな?」と輝樹が言った。
全然大丈夫なはずもなく恐慌を来たしながら、美紀は輝樹を見た。彼は人を殺めておきながら、何の罪悪感も感じていない顔をしていた。
「ひやああぁ!」頭を振った。甲高く、裏返った声。
「やっぱり……まずかったかなぁ……」
少しの焦りもなく、泰然として後頭部を掻く。『ちょっと白地のジャージにコーヒーこぼしました、洗濯したらちゃんと落ちるかな』という程度の楽観然とした顔つきで。美紀にはこの態度が信じられなかった。
「ひ、人ががが――ててて輝樹くん!」
何が何で何なのか、問いただそうと試みる。試みは、舌がこんがらがって上手く発話できない。思考もめちゃくちゃで、上手くフレーズが組み立てられない。焦燥感だけが無慈悲に、そして目まぐるしく回った。三半規管がダメになったみたいになって、頭部がぐらぐらし始める。
「落ち着いて」
「お、おおおお落ち着けないっ!」
美紀はタオルケットをひっぱって全身を包んだ。輝樹が視界に入らないようにして、縮こまる。アルマジロのようになって完全拒否を決め込んだ。信じられない出来事には、否む以外の方法論を彼女は識らなかった。
「困ったな……」人間三人を撃っておきながら、未だに何でもないかのように振舞っている輝樹。「ねぇ、手塚さん」
「……」美紀は答えない。答えられるはずがない。三人の侵入者よりもずっと、この同級生の方が恐い。上下の歯列ががくがくした。細く白皙な彼女の肩は限界まで萎んで、わなないた。
「むぅ……。これじゃ、上にどやされるかなぁ……」独り言のように輝樹は言った。
輝樹は美紀に近づこうとする。足音が近づいてくる。フローリングを響かせる靴音から察するに、彼は土足のようだ。
「ここ、来ないでっ!」タオルケット蓑虫状態の所為で、くぐもった声。
美紀の嘆願は通じなかった。足音は一切止まず、近づいている。
「だから、来ないでっ!」これまでの生涯で一番の大声を振り絞った。自分の耳がじんじんするくらいの声量だった。
それでも、お構いなしに足音は近づくのをやめない。こうなっては、どうしようもなかった。正直、泣きたかった。
「こな――」再び叫ぼうと息を大きく吸い込む。声帯を絞る。瞬間、視界が白いだ。声帯はフレーズを言い終えることなく、意識が混濁して消えた。




