エピローグ 赤い大地の眠り姫、目覚めはキスにあらざるを
二〇四〇年代の火星は、安全な場所ではなかった。
テラフォーミングは順調だったが、反面、事故も多発していた。厖大な予算をかけていただけに、主導の米国はその安全性をしらしめようと、強引に第一次移民を募った。
案の定、公募に人は集まらなかった。一部の好奇心旺盛な人や好事家、死ぬ前に火星へ行きたい連中などによって最初の移民は占められた。
一般の人々は何よりもまず、テラフォーミングユニットとして使用されているナノマシンの人体への影響を懸念していた。新技術というのは必ず出端には嫌疑をかけられるものである。
しかし、蓋を開けてみればナノマシンは何の影響も人々に与えなかった。ただ、自身に与えられた任務の通りに火星を緑化し続けた。自己増殖、自己組織化を持ったナノマシン群は加速度的に、火星を地球さながらに変容させていった。自分で資源やエネルギーを調達するので、一回バラまけばそれでお終いだった。たまに、バグがないか、自己増殖の為のDNA機構に損傷がないかを調べるだけでよかった。
計画の順風さによって勢いに乗った米国は、次々に移民を送ることになる。
そのまま何ごとも起こらなければよかった。しかしながら、八〇年代に入ると火星政府のタカ派は火星中に撒かれたナノマシンの軍事転用を考えた。当時、既に火星のテラフォーム化は最終段階に入っており、いわば、ナノマシンの次期的用途を模索していたともいえる。
計画は惑星中に散布された各ナノマシンを人間の脳の組成――ニューラルネットのように扱い、火星そのものを巨大な演算装置に変えるというものであった。同時に絶対的な管理体制も整わせる予定であった。火星そのものをナノマシンで支配するのと同義だった。
いずれ、ことが上手く行った暁には国際同盟及び地球政府に対して牙を向く算段であったのではないか、と言われた。かつて月面連合が七〇年代初頭、投石作戦によって地球表層を焦土に変えたように、である。
しかし、彼らの行為は火星の変異のトリガーになった。誰がナノマシンが人間を裏切ると予想できただろう?
ナノマシンのネットワークに入り込んだ人格があったのだ。つまり、正確には独りの人間に火星が奪われたことを意味した。
原因は解らない。意思を持たないナノマシンが生命機構であるニューラルネットを模した為に人格を欲してしまい、昏睡状態の人間の脳内に於ける電気信号のやり取りを自らの規範に据えたとの説が一番、有力な説ではある。
四〇年代に事故で植物人間となっていた手塚美紀の思念がナノマシンのネットワークを乗っ取ったことが後の調査で判明するが時は既に遅かった。彼女の意思によって、火星は改竄され始めた。誰も抗えなかった。
彼女が火星史上最初の植物人間であったことも、彼女がナノマシンに選ばれたことと何かの因果があるだろう。彼女はナノマシンの軍事転用が始まる前からずっと夢の中の住人だったのだから。ナノマシンたちは彼女の夢を半世紀に亘り見続けていたわけだ。
行けと言われてほっぽりだされた文学部室の外は魔界のようだった。人間が造った世界が崩落していくと、こうなるのだろう。
文学部室だけ無事なのは松本の所為だろう。
外にはまだ外気があった。外気までは分解されていないようだ。これで窒息死するという可能性は消えたが、かといって一刻も早く美紀を見つけなくては、火星はテラフォーミング前の姿に戻ってしまいかねない。いや、正確にどうなるのかは検討もつかない。
愛が言ったように、新世界が創世されるのかもしれない。
しかし、一つ解るのは光が生まれ育った火星がなくなるということだ。
光は走った。めっちゃくっちゃの世界のどこに美紀がいるのかなど解らない。一番の可能性は自宅か、それとも光の家か、だろう。愛の家かもしれない。
早く西千拾へ行きたかったが、行き方が解らなかった。忘れてしまったわけではない。道らしい道が失われてしまっているのだ。うねった蛇腹や、アスファルトでできた小高い丘、半欠けの家屋。それらがカオティックにマーブリングされているのだ。
きちんとした道順は失われている。勘に頼るしかなかった。恐らくこうだろうという道だっただろう場所を進んだ。
進むめば進むほどに風景は酷くなっていった。
光は確信する。美紀に近づいている、と。
美紀は真っ黒な空間の中心に立っていた。手塚家や横山家があった場所にはブラックホールのような穴があいているのだ。
光は穴の縁より先へは進まなかった。進もうとしても進めなかっただろう。
「手塚!」だから、呼んだ。
「来ないで」
「……いや、行く」
「来るなっ! 偽物、偽物、偽物っ!」熱烈な拒絶だった。
「思い出したん……だろ?」
「だから、なおさら来ないで。これ以上、私の思い出を汚さないで」
「できない。それは、できない」光も引けなかった。引き下がるわけにはいかない。
「……どうして!」美紀は叫ぶ。
「今の俺は、メッセンジャーなんだ」
「メッセン……ジャー?」
やや、顔がほころんだ。
「手紙」
「要らない」
「誰からか、解る?」
「どうせ、また、私をたばかるんだ。解ってるもん……」
「解ってない」
「解る。解るって! だって、ここは私の世界だから!」
「なら……ここにおいておく。読んでくれ」
空間の縁に手紙を置く。
「読まない……絶対に、読まない――帰れっ!」
憎しみの籠った顔、般若のような顔だった。
もうできることはなかった。そのまま引き返す。しばらく、進んだところで二人の人翳を見つけた。この状況で残っている人間は少ないだろう。
「松本? 永井?」
「人事は尽くした。ご苦労さま、横山輝樹。いや、横山光」
「横山くん。あとは、“神”のみぞ知るですよ」
松本は超然として、ひろこは無理に明るく言った。
「……そうか」
「さて、私はそろそろ、お暇の準備でもしておこう」
「ちょっと、待て……。失敗するっていいたいのか?」
「違う。逆だ。最早、ここで私が監察することはなくなるだろうってことだ」
「そうなるといいのですけど……あ、また書類の山に揉まれるんですね……」
「えらく、楽観的だな……おまえら」
手紙で解決できるのだろうか? 本当に。これは分の悪い賭けではないか?
光の内情を見抜き松本が言う。
「ははは。今の私はアンドロギュノスだ、モノセクシャルのおまえには解るまい」
「そうですね。老いても、女の子は、女の子なんですよ」
「ワケが解らない……」
「いずれ、解るだろう」
「そうですよ」
「……」
手紙の宛名は手塚美紀殿で、差出人は横山輝樹だった。
読む気はなかった。読みたくなどなかった。それでも気がつくと封を切っていた。
『この手紙を読んでいるってことは、手塚さんは目を醒ましてくれたのかな? そうだと、ぼくは嬉しい。三年生の終業式の日、手塚さんから手紙をもらったとき、実をいうと、とても驚いたんだ。
なんて、いったらいいんだろう。ぼくも、手塚さんが気がかりだったから。いや、ちょっと言い方悪いかな。でも、そうとしか言えないんだ。
ここからは、笑い話なんだけど返事を書こうとして何度も何度も書き直しているうちに、この歳になったんだ』
「笑えないよ……バカな人……」
『あ、もちろん、答えはイエスだったんだ。だけど、ぼくは面と向かって、イエスとは言えなかった。理由は、誰かを選ぶことに、すごく躊躇したんだ。
ぼくは、神様って優しい存在だと思う。真の優しさは、なにも選ばないことなんじゃないかって、そんなことばかり考えてた。だから、何回か女子から告白もされたんだけど、そのときはノーと言えたんだ。
ノーと言いたくない。でも、イエスとも言えない。
言い訳するみたいだけど、ぼくは逃げたんだ。火星に。腰抜けって笑って欲しい。この、根性なしって。
それで、ぼくが火星のテラフォーミング計画に参加して、最初の殖民で手塚さんが来たことを知った。でも、ぼくは直後には知らなくて、手塚さんが事故にあってから、そのことを知った。
ものすごく、後悔したよ。
ぼくは、自分で選ぶべきと思っていながら、選ばなかった。ぼくが、逃げた所為で手塚さんを傷つけた。さっき、神様は優しいって言ったけど、ぼくは神様じゃない。驕ってたのはぼくだったんだ。
ぼくは、優しくなるべきだったんだ。
もう遅いかもしれない。手塚さんは、ぼくを恨んでいるかもしれない。だけど、言うよ。あのとき、出せなかった返事を。今、するよ』
「輝樹くん……」
『ぼくも好きです』
「はは……バカ、今、そんなこと言ったら、奥さんが怒るよ……。本当に、人を苦笑いさせるの、得意なんだから……。それで、輝樹くん。私も、あなたの創った星を滅茶苦茶にしちゃったから、おあいこなんだよ。これでチャラ。うん、イーブン。
そして、神様は優しくて、そして、優しくない存在なんだよね。だから、私。元に戻すよ。全部。最期に聞けてよかった。待った甲斐、あったかな」
手紙には一枚の絵が添えてあった。黄ばんで色落ちしたアクリルの水彩画。斜面に佇む女の子の絵だった。
西暦二〇八五年、三月二十三日未明。火星の変異の消失を確認。
火星政府の公式発表が待たれるが、関係者各位からの情報を送る。
詳細は添付ファイルにて。
AC○○四二年三月十四日付
地球同盟一等専任事務官永井ひろこ




