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四章 創立祭 その2

 美紀は独りで屋上にいた。

 何となく風に当たりたい気分だったのだ。いつものなら文学部室へ直行している、もしくはさせられているのだが今日は気持ちを変えてみたかったのである。愛は残念がったが、何も昼休みの全部を屋上で過ごそうというわけではなく、ほんの十分くらいのつもりだ。

 屋上は危険だということで進入禁止になっているのが普通だが、ここ下谷川では非常階段と屋上が繋がっており、安普請のチェーンでガードされているだけなので入り込むことは容易なのである。非常階段の最上部にかけられている一本のチェーンを乗り越えればいいだけだ。

 屋上には他に生徒はいなかった。塔屋(とうおく)の給水塔にも人翳は見えない。屋上には何もないし、埃っぽいので昼食向きではないのだから当然といえば当然だ。屋上の縁をぐるっと取り囲む緑色の金網のはまったフェンスだけがある侘しい場所である。フェンスはところどころ錆びたり、網が破けたりしていて年季を感じた。強風が吹けば、がっちゃがっちゃ鳴る。

 空を仰ぐと月が見えた。青白い月だ。青空の中にぽつねんと、浮かんでいる。風に流される千切れ雲が、その姿を隠したり覆ったりを繰り返す。地球唯一の衛星である月。人が生まれる遥か前から上空にあり、その重力で地球に干渉してきた天体。月が生み出す潮の満ち引きが生命の端緒になったという。一番最初の生命は何処で、どうやって、何故に生まれたのか、誰も知らない。突如として生命は海に現れた。

 地球が母ならば、月は父なのかもしれない。そう、思った。

 少しノスタルジックな気分に染まった。どうしてかは解らない。夜中の月は幻想的な雰囲気を持っているが、昼間の月は茫洋とした輪郭が手伝い寂寞感を喚起してしまうものなのかもしれない。

「あ……」

 カラスだ。一羽のカラスが月と雲を掠めて滑空していった。

 目で追う。しかし、カラスの移動速度は速く、直ぐさま視界の隅に消えていった。カァと啼きもせず一心不乱に何処へ向かっているのだろう。雛鳥のいる巣への帰路の途中かもしれない。

 鳥は自由だと思った。鳥は知っている。アーススケイプでしか俯瞰できない景色を知っている。人間も飛行機やグライダーに乗れば同じようなことはできる。けれども、それは自力でできるわけではない。何かの力を借りなくては人間は空に飛ぶことすらままならない。

 それでも人は宇宙に飛んだ。アームストロング船長は確かな人類の一歩を、空の、あの月に刻み付けて帰ってきたのだ。

『私にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩』

 有名な言葉だ。

 含蓄の深い言であると感じる。

 バタフライ=エフェクトという話がある。小さな出来事がいずれ大きなストリームになってしまうということ。一匹の蝶が跳んだから、その所為で未来が様変わりしてしまうという確率論の話。

 たった一人の人間がしでかしたことが、人類全体に尋常ではない影響を及ぼすことがある。こんな意味に、アームストロングの言葉は聞こえる。

 科学者でいったなら、ニュートン一人が人類に与えた影響は絶大だった。彼本人は物理学の創設者であるけれども、決して数学によって宇宙を解き明かそうとしたわけではない。彼は錬金術師でもあって、神の造った世界を単に数字によって説明したかっただけだ。それでも、彼の偉業は計り知れない。

 持たざる者こそが努力と研鑽を積むのかもしれない。神様ではないから、神の御心を知ろうと努力するのかもしれない。失った者が失くしたモノを延々と探し続けるように。手の届かないものに、一生懸命背伸びするように。

「なんだろう? あれ――」

 美紀は重要なことを喪失しているような気がした。口にだそうとするが、脳内にアイデアがない以上言葉になることはなかった。

 大切な何かを忘れている気がする。その大切な何かは手の届かない場所にあって、がむしゃらに手を伸ばしていたような気もする。

 考えながら、フェンスにもたれかかった。フェンスがぎしぎしと軋んだ。破れたフェンスの針金が制服をほつらせてしまうかもしれなかったが、気に留めなかった。

「失った者……」

 失った者という響きに親近感を覚える。自分は何を失っただろうか? 何も失ってはいない。友達もいる、両親もいる。今が、そうだ、幸せじゃないか。不幸なんて言葉は自分には似合わない。なのに心にぽっかり空いたような穴はなんだろう?

 再び空を見上げる。

 さきほどまでと見え方が違った。舞台の書割を見ているような違和感がする。書割の前で踊っている演者が、自分のような感じがしてやまない。違和感の正体を探す。見付からない。変だとか妙だとか、感情的な裏づけしかないのが物悲しく不可解で不安定な感慨だけがある。理知的な回答が得られないのは単なる感情論だ。

 気持ちをクールダウンさせる為、目を閉じた。視覚を欠いた世界には、風だけが吹いている。たった独り自分だけが世界に存在しているような感覚がする。膚をそっと、撫でる空気。セーラーカラーと長髪の先を揺らす微風。なんだか心地よい気分だ。ぽかぽかの春の陽気も眠りを誘う。

 下半身から力を抜いた。支えを失った身体は、フェンス上を滑るようにして、そのまま座り込む。屋上のコンクリートは陽光に当てられほのかに熱を帯びている。そして、沙っぽい。床に触れた細い指からざらざらする感触がやってくる。乾いた細やかな沙粒だった。

 閉じた目の裏に蘇るのは、初めて輝樹と言葉を交わしたときのことだった。寝入るような感覚の中で記憶を掘りこした。

 一年生の頃の夏。この頃から彼はモテてはいた。ただ、美紀は興味がなかった。彼女は見てくれなんて気にしなかったし、人気者はつけあがるものだと思っていた。自分には縁のない人だとも思っていた。帰宅部だから部活間の繋がりもなく、クラスも違ったのだ。接点は何一つなかった。

 その日は年に一回の写生大会が執り行われていた。一年生全員が近くの自然公園もしくは寺社へくりだして絵を描くのだ。丸一日潰して行われるので、学校公認の校外散策とばかりに、遊ぶ生徒は遊んで真面目に写生などしなかった。生徒の大半はそうだった。勉学は真面目にしても、進学に直接的影響のない授業に彼らは冷淡なのだった。

 最後の最後でやっつけ仕事気味に終わらせてしまっても教師も文句は言わない。だって、美術は成績に影響しない暇潰しの選択授業というのが大方のコンセンサスだから。

 美紀は友人たちと離れて山の斜面に座っていた。彼女が選んだのは寺社ではなく、自然公園のほうだった。あたりに人翳はない。下から吹き上がる風を一身に受ける、潅木が少量しか生えていない緩い勾配の野っぱらに一人っきりだ。

 友人たち三人はとっくに、街のほうへ遊興しにでかけてしまった後で「いかない?」と誘われはしたが、ついていかなかった。授業の一環なのだからサボるのが良くないと優等生的な考えに囚われていたわけではない。

 単純な理由だ。彼女は絵を描くのが好きだった。それに田舎町で何をして遊ぶというのだろう。制服を着て、カラオケやウインドウショッピングができるとは思えない。思えないし、そこまで厚顔無恥でもない。

 写真というのは、そのときの情景を完璧に残すことができる。できるけれども、何年も見ていなかったアルバムを開くと違和感を感じるものだ。なぜなら、そこにはその時撮影者が感じた気持ちが入っていないからだ。その点、絵というのは写実的にそのときの風景を残すことはどんな芸術家でもできないけれど、感じた気分を克明に焼き付けておくことができるのだ。筆に乗せてしたためることで。

 これが美紀が絵を愛好する所以だ。

「んー」

 斜面からは下谷川が望める。眼下に拡がるひなびた街。人口三万の田舎町。一応鉄道は走っているものの、町を縦横無尽に駆ける道路には車の姿はほとんどない。歩道を歩く人も殆ど見受けられない。閑散とした歩道橋は、美紀がここにきてから半時間経つが一人として渡っていない有様だ。

 中途半端な高さの山々が囲む市井。リアス式海岸の岬のように、市街に山の麓がせり出しているので市の全容が一望できるわけではない。山の裏手に隠れ駅は見えないので、駅を起点にすると東口側だけが見えている。西側へ行ったことはないが、もう少し賑っているものなのだろうか? 見えないので何とも言いがたかった。

 遠くに聞こえる、ほかの生徒の話し声。車道を擦るタイヤの音。ほのなかなBGMになって美紀の耳朶にやってくる。

「んー」

 美紀は中々筆が進まなかった。下書きすらしていない。エンピツを握ったまま、その先端の消しゴムを顎にこすりつける。

 アクリル絵具を垂らしたパレットに飛んできた葉がひっついた。赤色の絵具のついてしまった葉。まるでモミジのようだ。いま、この季節が夏ではなく秋だったならば筆が進んだのではないかと思えた。秋は寂寥を覚えるシーズンだから。

 葉っぱを取って中空へと放った。葉は風に煽られて戻って来ると、昼食用に買った飲みかけの牛乳と菓子パンの入った袋にひっついた。絵具が糊の役目を果たし、そのまま動かない。面倒に感じて、それ以上剥がそうと試みない。

 筆が進まない理由は一つだ。彼女はいま眼下に見える景色を留めておこうとは思っていなかった。見慣れた街で、生まれた街で、これからもずっと見続ける街だ。わざわざ描きとどめておくほどのモノにも思えないのが本音なのだ。

「んー」三度目の懊悩の呻きを漏らす。

 隣に誰かが座った。友人たちが帰ってきたのだろうかと思って、顔を向ける。そこにいたのは想定外の人物だった。横山輝樹だった。精悍な顔立ちが間近にある。

「やぁ」と彼はいって、小型のカルトンを持ったままの手をあげた。

「あ、うん」

 何の用だろうと訝った。接点のないはずの人間が自分のもとにくる理由など、美紀には予想できなかった。

 美紀の内心などおかまいなしに、輝樹は喋った。

「この位置いいよね。どうして、誰もいないかなぁ」

 斜面の下の景色を一望しながら、輝樹は生臭い臭いを放つ草の絨毯をなでた。

「……そうだね」

 確かに、位置取りとしては良好だ。風景画としては、人工物と自然物、人の生活、それらを全て一枚の紙に押し込めることができる。悪くは――ない。

「まだ描いてないんだね」

 真っ白の美紀の水彩用紙を見ながら輝樹は言った。

 下書きすら描かれていないまっさらの紙だ。タブラ=ラーサだ。そこには何もこもっていない。性善でも性悪(せいあく)でもなく、これからいかようにもできる状態だ。生まれる前の赤子にも似ている。

「うん。まだ描いてない」

「どうして? 気が進まない?」

「そう。あんまり」美紀は正直に答えた。

「思うままに描けばいいんだよ」

「なら――苦労しないと思うよ」

「だね。ぼくらはさ、ずっとこの街にいるわけじゃないから、今描いたことって今しかできないよね。そのときの思惟って、そのときしかできないっていうか――非再現性?」

「――ん」

 美紀は黙った。言葉使いは違っていたが、彼女の絵への思いと同じ内容を彼が語ったからだった。別段珍しい思想ではないかもしれない。ありがちかもしれない。けれど、シンクロニシティを感じたのも事実だった。無言になってしまった彼女を気遣うように、輝樹は言う。「どうしたの?」

「――何でもないよ」今度は正直に答えなかった。

「お腹でも壊しちゃったかな」

「へ?」何を言っているのかと、まじまじと輝樹を見る。彼の視線は美紀の傍らの飲みかけの牛乳パックに注がれていた。彼が何を勘違いしたのか、容易に解った。むろん、腹をくだしているわけではない。簡単に壊すようなら毎日一パックの牛乳生活をしているわけがない。「違うよ」と言った。

「よかった。お花を摘むことになっちゃうもんね」

「……デリカシーがないよ」美紀はむすっとして言った。こういうことは言わないのが吉というもの。存外、プレイボーイというわけではないらしいことが解った。

「ごめん」

 輝樹が心底すまなさそうな顔をするので、却って美紀は自分に非があるような気分に陥った。ずるい顔付をするなぁと思った。憎めないタイプだ。爽やかさというのはずるいし卑怯だと感じた。

「描かないの?」と美紀は逆に訊いた。人には言っておきながら、輝樹の用紙も白かったからだ。

「描く風景はさっき決まったんだ」言って輝樹はほほえんだ。屈託のない笑みだった。

「そう、なんだ」

「きみも描こうよ」

「んー。中々――」美紀は困った顔を浮かべる。すると、輝樹は両手の指四つを使い、四角形をつくって構図を勝手に決め始めた。お手製ディスケールだ。色々な角度から試して、独りで「これとかいいんじゃないかな」と言っている。ひとしきり、そうした後、「決まった?」と訊いてきた。

 もう面倒なので「決まった」と美紀は答えた。

 輝樹は満足そうに頷いた。それから、拳を握った。

「それじゃぁ、でーんと、ずばばーんと描こう」

 まるで長嶋茂雄のような抽象的な物言いだ。全く意図するところが解らない。「は?」

「じゃあ、じゃららーんと描こう」

 何を言っているのかと思った。変な擬音を言われたところでしっくりこない。疑念の眼差しを向ける。すると、輝樹は思案顔をつくった。

「ぼくは神様になってみたい」

「神様?」

 話が飛躍している。いきなり何を、と美紀は思った。優等生の思考回路はよく解らない。IQが二十違うと話が通じ合えないというがそういうことなのだろうか?

「そう。絵を描くって神様になれるってことだよ。多分」

「大きく出るんだね」

「夢はでっかく」体全部を使って、輝樹はでっかくを表現してみせた。その様子がおかしかった。ものすごく子供じみて映った。目を輝かせて将来の夢を語るような少年の顔だと思った。

「大き過ぎ」美紀は苦笑した。

「大きいことはいいことだ、とアメリカ人も言ってるよ」

「あはは」今度は笑った。ここでアメリカンはすごく関係ない気がした。

「あれ? ぼく変なこといった?」輝樹は怪訝な顔をして美紀の笑い顔を覗く。

「ちょっと意外だなぁと思って」

「何が?」

「こっちの話」

「そう」釈然としない様子だったが、輝樹はそれ以上の詮索はしなかった。

「それに、届かないからこそぼくらは手を伸ばすんじゃないかな。だから、背伸びできるんだと思うよ」

「そうかもしれないね」

「夢って見続けるものなのか、抱くものなのか、どっちだと思う?」

「哲学的なんだね」

「そうかな」輝樹は恥ずかしそうに前髪をもてあそんだ。

「多分」

「多分かぁ……」感慨深そうに一息ついた。「手塚さんってさ、絵になるよね」

「えっ」面と向かって、激しく恥ずかしいことを言われた。言った本人にその気はないらしくケロっとしているが、美紀は取り乱した。絵になるっていえばジョコンダ婦人が一番最初に浮かんだ。自分はあんな風に妖艶な女性ではない。そもそも、クラスは違うし今日初めて話したのにどうして、自分の名前を輝樹は識っているのだろう?

 慌てた美紀は肘で牛乳パックをこかした。潰れたパックから盛大に中身がぶちまかれる。中身は輝樹の制服を白濁させた。

「あ……ごめん……」即座に美紀は謝った。ポケットからハンケチを取り出そうとする。しかし、わたついている所為か上手く取り出せなかった。焦りが強まる。

「気にしなくていいよ」全く怒ることもなく、輝樹は言った。

「でも……臭いが」

「これも青春の一ページ。気にしても何にもならないからね。短気は損気」

 輝樹は柔和に言った。そして、濡れた制服の裾を掴んでやおら立ち上がる。仁王立ちして、言う。「水も滴るいい男!」

 美紀は盛大に噴き出した。滴っているのは水じゃない。そう――「牛乳だよ……」

「ナイスつっこみ」嬉しそうに彼はサムズアップした。口元から覗く歯の白いエナメル質。()に輝く。

 変な人だと思った。

 本当に変な人だと、心の底からそう思った。神様になりたいと言い、寒いジョークを連発する優等生。こんな人なら悪くはないと、感じた。

 輝樹が「それじゃぁ」と行って去った後、不思議と筆が進んだ。彼女は街と街を覆う山々を描き尽した。

 あの日、描いた風景画にはどんな思いが籠っていたのだろう。そんなことを斟酌した。去年の出来事なのに遠い昔に思えた。


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