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太初の鯨
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許された。書くことを許された。アイリはそう思った。それから、その権利を行使しないまま、街に出かけた。何を書くのか、わからなかったこと。書くということがわからなかったこと。それがその理由だった。
書くということは、未完成さをそのまま書くということなのだ。少し歩き始めてアイリはわかった。言葉の全てを知らないまま、人は言葉を書いている。美しさを知らないまま、美しさへと導かれている。
アイリは名付けた。太初の鯨から溢れ出る情報にタイトルをつけた。それは禁じられた行為だった。わかっていた。しかし、それは衝動的なことだったし、禁じられているとはいえ、論理的に不可能な行為ではなかった。だから、禁忌を犯していることはわかっていたのだがそれをどう不法であると罰するのかをアイリは知りたかった。本当の意味はそこにあった。だから、ドアを開けて市民に公開されているある食堂に入った時、声をかけられたのはアイリにとって刺激的なことだった。その食堂は、いかにも古びていて、落ち着ける場所だった。アイリは知らなかった。そんな場所があるとは知らなかったが、入った瞬間にその場所を知った。
「あなた、どうしてタイトルをつけているの。それは、違法行為よ。」
アイリは何も言わなかった。喉が、震えた。何かを言いたくなった。けれど我慢した。久しぶりに自分の体の感覚が神経に訴えてきて新鮮だった。そうだ、体もまた、自分にありながら、自分ではない何者かだった。そう思い出した。
「消されるわ。そのタイトルを残した履歴は消されるわ。」
アイリは、自分の中のどこかが、激しく痛んだ。
「どうして。」
ニアアは答えなかった。その代わりに
「どうしてかはわからないけど、そういうものでしょう。」
といった。
アイリは、ニアアに自分の感じている痛みの切迫さが伝わっていないことに苛立った。自分のつけたタイトルが消されるということの痛みを、アイリは覚えてしまったことに気がついた。今までの自分が知り得なかった痛みだ。それは、体がアイリに訴えるよりも鮮明に鈍く響き続ける痛みだった。そしてその痛みからは逃れられないのだと瞬間的に悟った。どうしてか知っていた。後悔もした。だが、アイリはもがくことを止めることはできなかった。
「ニアア」
アイリは、目の前にいる人間の名前を呼んだ。それは今ではほとんど意味のない行為だとされていた。しかし、今だけは違っていた。
「ニアア、あなたの名前を教えて。」
「ニアア」
アイリは、頷いた。
「ニアア、あなたの名前をもう一度教えて。」
ニアアは、アイリの意図に気がついて教えなかった。
アイリは、ニアアが答えないことの意図に気がついて、
「ニアア、あなたの名前も、タイトルよ。」
「いいのよ。私は存在しているから。」
ニアアは、少し考えてからいった。そんなことは、アイリは考えるまでもなく知っていた。だってそれは誰もが当たり前だと思っているから。
「あなたは、存在していないものに名前をつけた。それは、いけないことなのよ。」
「存在しているってなに」
アイリは、反抗した。
「存在しているっていうことは、ここにある、っていうことだよ。」
「だって、私が名前をつけたものはここにあるもの。」
「それは、少し違う。ここにあるようになったのは、あなたが名前をつけたからだよ。あなたが名前をつける前はなかったの。」
アイリは、言葉に詰まった。その通りだとも思った。私たちは、名前で区切られた情報のまとまり。名前をつける価値のような、質感のようなものがあったから名前をつけられた。でも、初めから何もないところに名前をつけるとどうなる。
「ねえ、あなた。他の場所に行ったら。」
ニアアは、それ以上何も言わなかった。アイリが痛がっていることを知っていたから。その顔が涙のようなもので濡れていたから。
「ねえ、アイリ。」
アイリは、席を立った。それだけがニアアに伝わった。アイリは、太初の鯨にいつものように戻っていった。それから流れ出る文字列の中から、いくつか拾い上げて次にする行動を決めた。他の場所に行く。