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太初の鯨
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アイリは気がついた。自分が感じているものに、欠陥がある。それは、なくてもいいような欠陥だった。アイリにとっては、重要な欠陥だった。『太初の鯨』で出会う文字列に意味はあっても、名前がない。アイリは出会った文字列に名前をつけ始めた。
アイリは、『太初の鯨』で、意味のある文字列に出会った。そしてアイリは一連の文字列に名前をつけた。
詩
かの大詩人ゲーテは、小さな額縁から始めなさいといった。今はもう、詩というものは忘れ去られてしまっているが。言葉は、一つの大きな意味に向かって回帰し初めている。詩は、小説は、散文は、日常会話の言葉さえも、大きな一つの言葉に取り込まれていく。彼は、小さな額縁と言った。それは、世界の大きさを思い知るために必要なことだからだ。
かつては詩があった。それぞれの、言葉の形があった。ものの名前が、言葉の起源になった。言葉は、そうやって現実世界から汲み取られるものだった。そしていつからか、言葉が現実の世界から先立つようになった。現実世界のものの名前は、名付けられたものである。初めからあるものではない。私たちは、言葉を使う時に大きな言葉を理解していなければならない。大きな言葉の一部を切り取って、何かに貼り付ける。ものは名前を得る。私たちは、言葉で世界を見ている。
今は、そうした世界を見るあり方に考えが行くようになったみたいだ。誰も、新しいものに出会ったところでそれに名前をつけることはもうしない。興味があるのは、個別的なものではない。もっと大きな言葉だ。何かに名前を授けることができる言葉の力だ。現実を構成する言葉の力だ。だから、人は言葉を使うより前に、言葉について考えるようになった。難しいことではなかった。数学というものがあった。それは、特殊な大きい言葉だった。それに倣って人は言葉を意味の宇宙を記述する体型だと考えた。
この宇宙には大きなスクリーンがあって、私たちはそこで上映されているものの一部を見ることができる。宇宙全体どこからでも見られるスクリーンだ。しかし、あまりにも大きすぎる。そして、内容も決して人間向けに作られているわけではない。この世界にいるみんなが鑑賞しているのはわかる。しかし、映画館は暗くて観客の顔は見えない。そこで見た内容を共有するためには後で、話をしてみて通じるかどうかを確かめるしかないだろう。
言葉は、光。そして、世界は光で照らされて明るくなる。言葉を神聖さに気づいた人たちがいた。今まで、数学やら何やらの学問に神聖さが備わっていたのだから当然のことだった。当然のことが、達成されるのには少々時間がかかった。哲学の発展が必要だった。言葉は人間にとってあまりにも当たり前なものだったから、神聖だと思うのが馬鹿らしいとすら思っていた。しかし、よく考えていると言葉は想像以上に謎めいた存在だった。いや、存在しているかどうかもわからないのが言葉である。言葉への信仰は、そうしたよくわからないものへの憧れも相まって広まりやすかった。そして、信仰することが簡単にできた。なにせ言葉はこの世界にあまねく存在する。そして、人間はその言葉の世界にアクセスすることができる。電気もいらない。生体で作り出される化学的エネルギーだけで、いつでもどこでも言葉に触れることができる。言葉への信仰は、ある不思議な行為を人に課した。
それは、言葉をちぎることである。大きな言葉から、言葉選びとって自分の目の前で再構成することである。人は昔から、これをしてきた。「書く」という行為でそれは説明されていた。言葉を信じるものたちは、ひたすら書いた。ただ、書き続けた。一人がかき、もう一人が書き、いつしか数えることのできないほどになった。彼らの目的は単純だった。
「言葉の原初の姿を取り戻すこと。」
それはすなわち、神の姿を見ること。言葉は紡ぎ出された。言葉は、生成された。いや、そういった表現は信者たちには相応しくなかった。我々が普段口にする言葉、書く言葉、話す言葉、考える言葉、読む言葉。それらは全て、神の一部に過ぎない。彼らは、言葉の本来の抽象的な姿に向かって、神の姿を想像しながら言葉を唱えた。書いた。考えた。描いた。
不思議なことだった。言葉は、すでに抽象的であった。例えば、「りんご」という言葉は、りんごの物自体ではなく抽象的なりんごである。じゃあ、言葉をさらにもう一段階抽象化することはできるのか。それは、誰にもわからなかった。
言葉の徒は、その道のりの険しさを理解していた。原始的な方法はすぐに廃れた。ひたすら、文章を書く方法ではたどり着けない。地上から見た夜空の星のようなものである。コンピュータを使う方法もそれを高速化したものに過ぎなかった。そもそも、この世界が可能性の一つである以上、今そこにある物質さえも「言葉」の一部である。素粒子という母音によって奏でられた詩。それが、世界である。物理学は、対象の目の前で見惚れるだけに過ぎなかった。神の手に触れることさえ容易にはいかないようだった。問題はそこにあるのに、人間は取り掛かり方すらもわからなかった。あるものは、信仰を諦めた。そして、普段と同じように言葉を考えるようになった。それでも諦めきれないものは考え続けた。
言葉を離れることが、本来の言葉に近づく方法かもしれない。「語ることのできないものについて語るには、沈黙するしかない」そういう沈黙は確かにある。しかし、言葉の徒は新しい沈黙を発見した。ウィトゲンシュタインの命題は、沈黙と語ることはきっぱりと断絶している。しかし、言葉の徒は沈黙に対するその見方を更新した。沈黙とは、語ることの彼岸にあるのではない。彼らは、確信した。
「語ることのできないものは、語りつくした後に見えてくるものである。」
語ることと、沈黙は、地つづきになっている。語りつくした後にある神の姿。その背景には、沈黙の闇がある。それもまた、神である。
神の起源に迫ってみよう。なぜ、言葉は生まれたのか。なぜ言葉は、あるのか。
闇を破るその瞬間、言葉は何をしたのか。
コンピュータを動かす二進法が想起される。しかし、私たちは1と0の違いを知っているだろうか。1に1を加えると2になる。それは知っている。しかし、1と0の違いを知っているだろうか。彼らの問いは、そこに集約された。ありふれた、哲学的な問題に思える。しかし、言葉の徒は哲学を超えて実践した。
意味を作り出すことにした。特殊な情報源を作った。それには『太初の鯨』と名前が付けられた。それは、その情報源に触れたものに呼応して情報を発する性質を持っていた。観測するまで、結果は分からず、観測者によって結果が変わる。
鯨は果たして神なのか。それは誰もわかっていない。それをこの世界に生み出した開発者たちは身を隠している。また、安易に『太初の鯨』で得た情報を口外することも言葉の徒にとっては禁じられている。今はまだ、実験の一つに過ぎない。
アイリは、『太初の鯨』でこのような文字列を発見した。ごく基本的なものだった。こうした情報は、誰もが知っていた。アイリがそのような基本的なものに思い浮かぶのは、久しぶりのことだった。
アイリは、この文字列に『詩』と名付けた。