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アイリは『太初の鯨』から次のような文字列を発見した。
「アイリは『太初の鯨』から次のような文字列を発見した。」このような文字列が、太初の鯨から頻繁に発見される。アイリとは誰か。そもそも、『鯨』にアクセスすることができる人間が本当に存在するのか、はなはだ疑問ではあるが。そして、その人間は自らがアクセスした記録を「アイリは、『太初の鯨』から次のような文字列を発見した」という形で残すことができる。これは、極めて興味深い現象だった。私達は『鯨』にはアクセスできても、そこに記録を残す事は難しいということを、研究において証明していた。『鯨』はいわば情報エントロピーが極大のオブジェクトであり、それ以上の情報を付加することができないということがその研究の示すところだった。ただ、この「アイリ」なるものは確かに自分の形跡を『鯨』の中に残している。それも、規則的に似たような記述が『鯨』の各地で観測されている。これは、誰かが書き残したものではなく『鯨』固有の周波数のようなものだという見解もある。それがたまたま「アイリ」という名前であるに過ぎず、情報エントロピーが極大であるならば確率論的にどのような文字列も規則的に発見することができるだろう。というのがその主張だった。
私はどうしてもそのような、学術的見解を受け入れることができなかった。『鯨』の中に、そして確かにこの世界に「アイリ」はいる。なぜかそんな確信をもって常に観測機に向かい合っていた。ときには一日中。風呂と食事とトイレ以外は常に、ディスプレイに向かってただ不規則な光のうごめきと文字データに向き合っていた。研究室のプリンターはたいてい私が占拠していて、『鯨』から採取してきたデータはなるべく印刷して文字列の形で読むようにしていた。他の光パターンや、音パターン分析の学者には私の紙を印刷する音がうるさくて研究室を分けられてしまった。おかげで私は狭いけれど、一人部屋で『鯨』とゆっくり向き合うことができる。人工知能による分析は、画面に常に向き合っている必要はないし、ほしいパターンを指定すればそれを勝手に抽出してくれる。まだ見つかっていないパターンは当然「無限」にあるらしく、論文のネタが尽きることがない。しかし、ある種の正統派の『鯨』好きは気になるデータがあると自分の目でそれを確認する作業を怠らない。
「あなたは、『鯨』好きというより『鯨』狂ですね。」
昔同僚だったタカナシは、私のことを見てそう言った。そのころ私は、コピー紙が散乱した研究室で髪も切らず爪も切らず『鯨』が生み出す文書と向き合っていた。まるで、羅生門に出てくる鬼婆のような感じだったらしい。私はそれを聞いて、まじまじと鏡を見返して、鬼婆ってこういう顔をしていたのかと感心してしまった。それをきっかけにタカナシは私に、美容院を紹介してくれ、今は「まとも」な外見を保つことにしている。
タカナシはもう研究所にはいないのだが、なんとなく私のことを気にかけてくれる。研究室にほとんど住んでいる私に会うためにタカナシはわざわざ、入館証を首にぶら下げてセンターに訪問してくる。そのたびに、かつて同僚だった研究員はタカナシに群がってくる。アドバイスや、今何をしているのかを聞いているのだが、うざったそうにそれをかき分けて私の研究室に入ってくる。
「いまなにしてんの」
タカナシは、私の座っている床にあぐらをかきコピー紙を取り上げた。
「アイリは『太初の鯨』から次のような文字列を発見した。」
高くて明るい声が、乾いた研究室に染み渡った。タカナシは自分の声が子供っぽくてあまり好きでないと言う。私はそれが好きだと思う。どれだけ、タカナシがしっかりとした大人になってもその声が好きだ。
タカナシは、しばらく私が読んでいた「アイリ」の一節を読み終わると、ふむ。と腕を組んで紙を持ったまま睨みつけた。しかし、どこかわざとらしくて笑えてくる。やっぱりあまり研究者に向いていなかったのかもしれないな、と失礼ながら私は思う。タカナシは、考えているよりも行動することのほうが向いていて、起業家になった今のほうが断然輝いていると思う。ショートカットからみえるビアスが場違いなほど、眩しい。
「んで、なんで読んでたの」
タカナシにそう聞かれて私はうまく答えられない。
「なんか、アイリにしては感情的というか具体的というか。『鯨』はもっと抽象的な記述が多い気がしていたけど。これも面白いかなって。」
「へえ」
タカナシは、リズムよくうなずいてもう一度紙を見る。
「『鯨』に感情的とかそうでないとかあるんだ。」
「うーん。もしかしたら私が文字列でやってるせいかも知れない。光とか音とかでやってる人にはあまりそんな話を聞かないな。そもそも抽象的だし。あ、でも天才的な数学者が証明を『鯨』から見つけたとか言って話題になったこともあって。あれは抽象的なのか具体的なのか。どっちだろう。」
「なるほど。」
タカナシは、もう一度うんと小さくうなずいて紙をやっと私に返した。タカナシの手は爪がしっかりと装飾されていて、私はまたそれが眩しいと思った。爪を一本ずつ塗るのは、めんどくさくないのだろうか。
「最近どうしてる」
私は、何も言えなくなった。時々言葉がつっかえる自分の癖を久しぶりに思い出した。最後に人と話したのがいつだったか思い出せない。もしかしたら、前にタカナシが研究室に来たとき以来だったかもしれない。
タカナシは、何も言えない私の頬を触った。最近、私はずっと文章を読んでいた。ちょうど答えが出掛かったところで私は言う機会を失ってしまった。
「ショートカット、あまり似合ってないね。真似しなくていいのに。」
私は、突然心が沸き立って来るのを察してタカナシの手から顔を引き剥がした。座ったままだったから、足がもつれてうまく動かず、手で床を押したせいで手首が痛くなった。持っていた紙が折れ曲がってしまった。タカナシは手を伸ばしたまま少し笑って、膝の上に手を戻した。私は、驚きのあまり、また何も言えなくなって、タカナシを凝視してしまった。タカナシは、ため息をついて「やっぱり変わらないな」とぼやいた。私もそれを痛感している。自分の外見を決める基準がタカナシになっているだけで、自分で考えていないに等しい。
「あんた、美容室の人のアドバイスとか聞いてる?」
「いや、とにかくショートカットにしてほしいとだけ言っている。あとは一切会話してない。」
タカナシは、またため息をついて肩をすくめた。
「うーん。長いほうがいいよ。」
とだけ、呆れた目をして立ち上がった。
「ほら、ご飯食べにいくよ。」
「は?」
全く予想外の言葉を聞いて私は、タカナシの顔を伺う。そもそも、読まなくてはならない文章があるので、研究室から出たくない。
「別に今は食べたくないのだが。それに、出かけるなら前もって言ってほしい。今日は一日中研究する予定だった。」
「本当に?」
タカナシが、腰に手を当てて私を見下ろした。そこにたっぷりと疑念が込められていて、私はたじろいだ。悟られないように目をそらさずにじっとタカナシを見返した。
「じゃあ私、弁当買ってきてここで食べるわ。」
「やめてほしい。なぜならここは私の研究室だ。研究に関係ないことはここでしないでほしい。」
タカナシと私は、しばらくにらみ合った。私はこの時間がもったいないと思い、今でも手に持ったコピー紙に書かれた文字列を読みたいと思った。我慢できなくなり目をそらすと、タカナシは打ち明けるように話しだした。
「あんたが、研究に没頭する気持ちはわかるけど。私はもっと他の、例えば食べることとかにも気を使ってほしいんだよね。」
私は、少し息が混じったタカナシの声をうつむきながら聞いていた。床に、山積みになった白いコピー紙の束をなんとなく見ていた。いつ何を読んだのか思い出せないし、何が書いてあったのかもよく覚えていない。我ながら、なぜそれで論文が書けたのだろうと思う。
「連絡しても断られると思ったから、何も言わずに誘ったの。大人気ないけど。あんたのためだと思ってる。」
私は黙ってタカナシの言葉に対して、閉ざしてしまった。私は勝手に手に持った紙に視線を戻して文章を読みだした。「アイリは『太初の鯨』から、次の文字列を発見した。」。お決まりの書き出しで始まる文に心を逃した。『鯨』の文体は、機械的なそっけないものだった。しかし、誰かが書いたような意図もどこかに感じ取れた。情報戦争の記述が見て取れた。私達はそれを見て、どこかに別の世界の出来事のように感じる。誰もが『鯨』にアクセスできる世界で、その戦争は勃発した。その世界は、人は文章だけでなく、自分に関わるすべての情報を『鯨』に託していた。どんな感覚なのかわからないが、生体情報や記憶、言語能力までもを『鯨』に委託して生活していたのだろう。いわば『鯨』の中で生きていた。戦争は『鯨』のリソースの奪い合いだった。何もしなくても『鯨』にアクセスすることは、人によっては意味があり、それで満足できることだった。しかし、それで満足せず『鯨』のリソースを占有し自己の領域を拡大していくことには積極的な意味があった。豊穣な『鯨』の空間は、求めるものにはすべてを与えたのだろう。その動きを認めないものや、『鯨』に対する信仰を持つもの、文章や情報の所有権を脅かされた市民、そして国家がそれぞれ対立した。『鯨』の中で膨大なスケールで情報の書き換えと流動、削除と生成が起こった。『鯨』の中で生きている人は自らの情報アイデンティティが揺らぎ、現実はまるでコンピュータ上の文字列のように削除されたり、複製されたり、書き加えられたりした。その戦争の結末は、詳しく分かっていない。
タカナシは、私が文章を読んでいる途中、ずっと床に座って虚空を見ていた。私はその動作が少し不思議で、いつも横顔をみては何を考えているのか勝手に想像していた。その謎も解き明かす前に彼女は突然、研究職をやめてしまった。
「アイリってさあ、、、どんな女の子なんだろうね」
ぽつり、とタカナシがつぶやいた。目は虚ろで相変わらず「ここにない何か」を見るように。
「どうして、女の子って分かったの」
タカナシは、急に凝り固まって私を見た。その目には、動揺が僅かに宿っていた。なんとなく発した言葉だったのだが、想像していたよりもはるかに重く受け止めているようだった。
「いや、だってアイリって女の子の名前だから」
タカナシは少し戸惑いながら言った。当たり前のことをわざわざ説明するのが、面倒くさいと言うように私から目をそらした。
「でも、『鯨』にはそんな詳しい情報は残ってない。」
「そう?じゃあ私の思い込みかもね。」
タカナシは、立ち上がって伸びをした。私は、首をあげて真横に立つタカナシの顔を見上げた。特別なことは何もなく、ただ目を細めて深呼吸をしているだけだった。タカナシは、部屋の隅に脱いである靴をもう一度履くと、カバンを肩にかけ直した。
「まあ、また来たときにご飯食べよう。」
私は、座ったままタカナシを見送った。彼女が出て行く瞬間、調整されて均一な温度になった空気と、機械が動作する騒音が、ドアのすき間から入り込んだ。しばらくすると、また音のない時間が流れ始めた。いつも聞いていて耳に刷り込まれてしまった印刷機の音を、今日はタカナシが来たせいで思い出した。静かだったから、耳鳴りがした。高い金属音が、耳の奥で鳴り響いた。私にしか聞こえない音。不思議と、文章を読み直す気持ちにはならなかった。私は、しばらくその音を聞いて呆然と床に座っていた。
文章に向き合っているときは、何時間床に座っていても疲れないのに、ただ座っていると、いつもより流れる時間が遅く感じた。尻が痛くなって足がしびれた。なんとなく、体が訴える不快感から逃れるために、私は立ち上がって伸びをした。筋肉を伸ばすと爽やかな開放感と共に、疲れが体に覆いかぶさってきた。腹がなって空腹感がした。何かを食べたいと素直に思う。こんなふうに何かを食べたいと思うのは久しぶりだった。
街にでて、コンビニエンスストアを探す。タクシーを使っても良かったのだけど、私は歩きたかった。音もなく地面を滑っていく車の列を横に、私はナビゲーションもなく歩き始めた。研究所からでると、時間もわからない夜の暗さが空に降りていた。しばらく歩いていただけで足が痛くなる。歩いているとタカナシのことが何度も思い出された。久しぶりに人に会ったせいで私はひどく揺らいでいた。もう人は、店に出かけて何かを買うということをしなくなってしまったのだろうか?歩いても歩いても、コンビニエンスストアはなかった。その代わり、娯楽施設やオフィスが立ち並んでいて私にとって街は無価値で居場所がないように思えた。だからかえって、何度もタカナシのことが思い出された。あのとき私はもっとこうするべきだった、そう何度も会話を頭の中で繰り返して後悔した。
コンビニエンスストアは、研究所から三十分ほど歩いた先の、ビルが立ち並ぶオフィス街にあった。あるビルの一階に、煌々と光る四角い空間があった。自動ドアをくぐると、無人の空間に品物が丁寧に陳列されていた。生なましい動きをする、万引防止用の人型ロボットと目が合った。精巧で不自然に大きい青い目をした女性のアンドロイドだった。彼女は、ダンボール箱を開けて一つ一つ商品を棚に陳列していた。私に気がついて、いらっしゃいませと柔らかな音声を発してくちびるを動かした。私はすぐに目をそらして、品物を選び始めた。
私は、食べられるものを探した。コンビニエンスストアに売っている8割方のものは梱包された食品だった。その中でも、私が惹かれたのは、必要最低限の栄養素を簡単に摂取することができるブロック状の食品だった。成分表示表を見ると、様々な原材料が的確に組み合わされて作られているのが想像できた。卵と牛乳が入っているのがなぜか不思議だった。他のインスタント料理や弁当と比べて安かった。なんとなく食べ物という気がしなかったが、そこに私は強く惹かれた。
コンビニエンスストアから出て、歩きながらブロックを食べた。そっけない味付けだった。数分のうちに食べ終わることができた。さほど満腹感は覚えなかったが、私は手に残っている包装の成分表示表を見返した。確かに説明では、「一日に必要な栄養素を取ることができます。」と書いてある。私はそれに安心してそれ以上空腹について考えることをしなかった。ただいつもどおり『鯨』のことを考えて家に戻った。
集合住宅のエントランスに入ると、受付のアンドロイドが「おかえりなさい」と軽く会釈をした。きれいに髪をまとめた上品な身だしなみをしている。私はなんとなく会釈をして、まっすぐエレベーターホールに向かった。音もなくエレベーターのドアが開いて私を招き入れた。他に乗客はいなかった。いつもより時間が遅いせいかもしれない。エレベーターがゆっくりと上昇を始める。私は窓から見える外の景色を見る。いつの間にか、そうやって外を眺めることが癖になってしまった。エレベーターが高く登るほど夜の景色は鮮やかになった。碁盤の目のように直行した道路に立ち並ぶライトが見える。高いところから見ると、場所ごとに区間が割り振られていることがわかる。夜間でも電気を使う工業施設。セキュリティのためにほの明るい商業施設。寝静まった住宅施設。そして、ひっそりと空を支える柱のように超高層集合住宅が窓から光をだして建っているのが見える。
やがてエレベーターが止まると、私は自分の部屋に向かって歩き出した。何度も通ったことのある廊下の模様をもう一度眺めてみる。足元に線を描くようにライトが配置されていてほのかに明るい。ドアとドアの間隔は広く、その間の壁に絵画やオブジェがおいてある。海の貝殻をかたどった曲線や、果てしない水平線を額縁に収めた絵画が、私の心を現実から引き離そうとする。海の遠さと生命の緻密さに、私は引き寄せられ、やがて何も掴むことができないままゆっくりと切り離される。
自分の部屋のドアの前につく。「潮の層」358号室。私の生体認証で開く。ドアの向こうにある薄暗い空間に心が流れてゆく。一歩部屋に踏み入れ、背後でドアが閉まる音を聞くと、私は大きく息を吐いた。呼吸の音は、部屋の匂いと引き換えにどこかへ消えていった。靴を脱ごうとして足を動かすと別の靴に足が引っかかった。別の誰かが脱いだ靴だ。私は再び呼吸が引き締まるのを感じる。音を立てないようにバッグを床に置く。スリッパを履かずに靴下のまま、リビングに向かう。心臓の鼓動が内側から耳まで届いて鼓膜を揺らした。血流が速くなって、意識が研ぎ澄まされてゆく。リビングのドアから、光が漏れている。それは、揺らぎながら色を変える僅かな光だった。
「誰」
私は、声を振り絞って言った。舌がもつれてうまく発声できなかった。答えは返ってこない。私は、玄関に引き返して、なにか頼りになるものを探した。やっと白いビニール製の傘を見つけた。形状記憶合金のメモリーを引き出す。畳まれた金属は瞬時に棒状になり、ビニールのドームが広がった。これでは逆にリビングに入りにくくなるが、相手も私に近づきにくくなる。
「誰」
私は仕方なくもう一度声を張り上げた。自分がこうして興奮していることが、本当の事のように思えない。まるで、夢を見ているようだ。覚めることができない夢。私はもがくように、もう一度「誰」と扉の向こうに声を掛けた。リビングから漏れる光の明滅が止まった。そして、部屋は暗くなり、音も消えた。リビングのドアがゆっくりと開き、人影が現れた。私は、目を見開いて凝視しつつ傘を強く握りしめた。腰が抜けそうになりながら傘を持つ手に力を込めた。
「おかえりなさい」
人影の声は、どこかで聞いたことのある声だった。それも、近い過去に聞いた声だ。私は記憶を必死に探し出し、タカナシの声だと認識した。
「タカナシ」
しかし、なぜここに彼女がいるのか、理解できずに私は混乱した。
「なにこれ、じゃまで出れないんだけど。」
やっぱりタカナシの声だった。私は半分安心して、言葉を探し始める。
「どうしてここに」
「アンタに会いに来た。」
問いかけた私が、会話の糸口を掴むことができずに言葉を忘れる。タカナシは、言葉もなく私の目の前に立ちはだかって圧倒した。傘を握る手が緩んで、柄が床に落ちた。普段なら聞き流してしまうほどの音が、私の意識をつんざいた。床に崩れ落ちて、私は疲れた体が重力に従うのに任せた。タカナシはうまく、形状記憶合金の傘を取り払って畳んだ。もとの小ささには戻らず、傘はかたちをある程度保ったまま細く折りたたまれた。タカナシの手は、透明なビニールを軽やかに扱った。
やがて明かりがついて、視界が明確になった。私の目の前にいたのは、やはりタカナシだった。鮮やかな青いドレスを着ていた。私は、普段の彼女ではないと思った。少なくとも、今日、研究所にいたタカナシとはどこか違うと感じた。タカナシが手を差し伸べてくれたので、私はなんとなく彼女の手を掴んで立ち上がった。体重のかけ方が分からずに、私は結局タカナシの手をただ掴んだだけで、特に楽することなく立ち上がった。立ち上がると、タカナシは私より背が低かった。その代わり、ドレスを着飾った体は私より豊かで肌の質感と曲線、ドレスの青が調和された美しさがあった。
「ご飯は、食べた?」
タカナシは優しく言った。そんなふうに他人から声をかけられるのが不思議だった。タカナシの口調はまるで、子供を思いやる母のようだった。タカナシは私の母でもなんでもないのに。私はそれにも関わらず、心が軽く穏やかになっていくのを感じて、また戸惑う。
「食べたよ」
私はブロック状のあの感触を思い出して、嘘をついたような気分になる。タカナシは少し残念そうな顔をして、考え込んだ。
「じゃあ私一人で食べるね」
と振り返ってソファーに腰をかけた。彼女が座ると軽くソファーが音を立てた。しばらくして、タカナシはソファーの向かいにかかっているディスプレイを見つめていた。やがて勝手にディスプレイが起動して、画面いっぱいに文字列が流れ始めた。言語フィルターはかかっていない。かな文字やアルファベット、そして人類がまだ見たことのない言語の最小構成単位が、散らばって流れ始める。
私達は黙ってその光景をただ見ていた。私もタカナシの隣に座って、文字列を目で追った。やがてタカナシの料理が運ばれてきた。アンドロイドが配膳して私達とディスプレイのあいだのテーブルに料理を並べた。清潔感のある男性アンドロイドは何も言わずに、自らの仕事を全うした。彼は去り際に、どうぞ召し上がりくださいとお辞儀した。そして、しばらくメモリを消費して気の利いた言葉を考えた。結果彼は私達が見ているディスプレイに目をやって沈黙した。私達は黙って、彼がどう反応するのかを見ていた。それは不思議な沈黙だった。
「着物を着た羽蟲が、そしてトマトの青い心情に織りなすって玉鋼の、海は白い乗り物に濡れて、私はとてもきれいなきれいな、目の仕草を見ていました。」
アンドロイドは、一点も曇りのない笑顔で私達に言い残した。
アンドロイドが去ったあと、タカナシは彼が配膳した夕食を食べ始めた。私は食べているタカナシを横に彼が言い残した言葉を復唱した。
「着物を着た羽蟲が、青い海の玉鋼のトマトの心情に触れてきれいなきれいな目をしていた。」
「違う。」
タカナシは、箸を止めて私を訂正した。
「着物を着た羽蟲が、そしてトマトの青い心情に織りなすって玉鋼の、海は白い乗り物に濡れて、私はとてもきれいなきれいな、目の仕草を見ていました。」
言い終わるとタカナシは、何もなかったかのように食事を再開した。タカナシの声は、まるで感情のないアンドロイドのようだった。しかしその奥には、何か心のようなものを感じた。そのように思ってしまうのは失礼だろうか。人間に当然備わっていると思われるもの。その存在が私の目の前で、揺らいではまた消えた気がした。その瞬きが、私にはとても不遜に思えた。それでも、私にはそうとしか思えなかったし、自分が何か危うい考えに足を踏み入れようとしていることに気がついていた。
「ねえ」
タカナシが何も言わなかったので、私の中の疑問が素直に彼女に向かった。
「どうやって部屋に入ったの」
アンドロイドが配膳した夕食は、とても清潔に色彩が整えられていた。その代わり、それが何をもとにして作られているのか、さかのぼって推測することが難しかった。夕食を食べたかどうかタカナシに聞かれたとき、私は返答に困ったが、今となっては、ここで夕食を食べても、変わりはないのだと私は思う。
タカナシは、咀嚼したあと軽く水を飲んで私の方を見た。
「この部屋の鍵は、生体認証でもデコードは結局デジタルなの。それが何を意味するかわかる?」
タカナシは、水をもう一度口に運んで机に戻した。そしてまた、化粧で彩られた目で私を見た。
「つまり、あなたの目がなくても、あなたの目から抽出された情報があれば、この部屋の鍵になるの。」
薄暗い部屋の中は静かで、タカナシの声が何にも邪魔されずに耳に届いた。カーテンは閉じられ外の景色は見えない。ただ、生き物のようにディスプレイはその表面を絶えず変化させ、文字列を表示していた。あるピクセルが黒くなり、白に移り変わるそのパターンを床の絨毯が受け止めて柔らかく映し出していた。それはまるで、肌から透かして見る血管や体の中の色のようだった。
「しかし、タカナシは私の目から情報を抽出できない」
かすかな気配を感じて私は言葉を選ぶ。まるでお互いが想定している未来をすり合わせるように。そしてもし、自分が想定もしない答えが返ってきても、驚かないように、私は会話の終着点を思い描く。
「そのとおり。でも任意の目から抽出されたデジタルデータのパターンは有限個よね」
タカナシが私の意見に対して、正確に反論しているとは思えなかった。彼女はうまく会話に乗れない私の顔をみて、微笑んだ。彼女が私の正常な答えを求めていないことはすぐにわかった。ただ、わかったということを表に出すことができないで、私はただ彼女の話を聞いているだけだった。
「でも、目が作り出すパターンをすべて網羅するには膨大な時間がかかる。私はそれを知っている。だからどうしても、可能性がわかっているだけでは不十分だったの。そう、可能性というものに対する本質的な理解が必要だったの。」
タカナシは、フォークをおいて手を合わせた。私は食後にそのような動作をするタカナシが少し懐かしく思えた。タカナシがかつて同僚だった頃、その動作に込められた、意味を教えてくれたのだった。私はなんとなく思い出そうとして、忘れてしまった自分に気がつく。それはとてもささやかで、知っていても知らなくても変わらないような意味だった。でも、タカナシがそれを教えてくれたとき、私は少し心が晴れやかになったのを覚えている。
研究所の前の公園で二人で並んで弁当を食べていたときのことだたった。その時もタカナシは、研究室にこもっている私に声をかけて私を外に連れ出したのだった。タカナシはちょうどその時、研究職をやめようと考えていることを私に言ったのだ。そして私はその、タカナシの決定を他人事のように聞いていたのだった。彼女は、唯一、私と言葉を交わすことができた同僚だった。私はその彼女が突然私から離れていったことに対してうまく受け入れる心を持たなかったのだと思う。
そのときタカナシは、膝においた弁当に向かって手のひらを合わせたのだ。何か呪文のようなものを唱えながら。私はなにかの宗教的な決まりかと思った。いつも、大雑把で話すのが好きなタカナシが、黙ってただ手を合わせたからだ。そのとき、私はタカナシの身に他の誰かの想いが宿っているのを感じた。それも、顔も声色もわからない幾重にも伝えられ、無駄なものが削ぎ落とされた誰かの想いだった。
私が、それを面白いと思ったのはタカナシの行為は身体的な言葉だと思ったからだ。言葉にアイデンティティがない。悲しいという言葉にはもう、太初に発された意味は残っていない。長い目で見れば、言葉には定まった意味などなく、常に使用者によって変わってゆく意味があるのだ。でも、私達はその意味の移り変わりの流れの中で生きている。その流れに入らなくては言葉を使うことは許されない。それは、過去と人と現在の人の間に結ばれた不思議なつながりだ。過去の人たちの、思いの形跡や特定の意味を引き継ぎつつ、私達がそれから逸脱する自由を持っているからこそ、生まれる柔らかい紐帯のようだった。過去の人々はかつて、かけがえのない自分自身を表現したものが、今となっては全く違う意味にすり替わっていることに気がつくだろう。いや、それは余計な心配だろうか。過去に生きた人は、もう生きていないのだし、過去に話した人はそのとき話すことができればそれで良かったのだ。言葉は感情を乗せる方舟であり、その内容ではない。その、大いなるささやかな旅の途中に私達は生きているのだ。それを感じて、私はタカナシに話したのだ。
タカナシは、そのときに驚いて思わず立ち上がってしまった。膝の上においた逆さまになって、すべて地面に落ちた。私は、その弁当の中身が台無しになってしまったことに驚いた。しかし、タカナシは全く気にせずに新しい言葉を話しだした。
「でも、そのとおりね。」
そのときに、青い空を背景に笑うタカナシの顔が、私の心に焼き付いている。それは心から素直に、タカナシは笑っているのだと私が信じられた笑顔だったからかもしれない。
「意味に囚われた言葉は、まるで標本にされた蝶のようね。鎖に繋がれた人間が使う言葉だわ。」
タカナシは、そのまま空の遠い方をみてやがて目を閉じた。ベンチに置かれたままの箸が、風が吹いて地面に落ちた。私はそれから、彼女が見つめようとした遠くを自分自身の目で見たいと思ってずっと目を開けていた。
「人はその鎖を、論理によって解こうとするけれど、いつまでたってもその檻から出ることはできないのよね。だから私は、意味の鎖から超越するために過去の権威ある言葉とか、哲学とか学問とか、あらゆる力を拒否したいと思うの。だって、初めて人が発した言葉に意味なんてなかったはずだから。そこには声だけがあったはずだから。」
彼女の声は、まるで絵本の文章のようにこの空の色と調和していた。まるで彼女自身ではなく空が話しているかのように。私は懐かしかった。こういうふうに誰かを話しているのを聞きながら、黙って景色を見つめていること。研究所の庭は、つややかな芝生が息をしていたし、木々は風に揺られて体を軽くなびかせていた。鳥の声が耳鳴りの代わりに体に吸い込まれていって、それから風の音も、遠くの方で走っているリニアモーターカーの起動音も聞こえてきた。相変わらず飛行機は低い唸り声をあげながら私達の真上を通過していった。それらの私達を取り巻く概念や、有機体や構成物は誰かが作ったものなのだろうか。言葉は誰かが作ったものだろうか。
「だから、言葉がそこにあるべきかとか、ふさわしいかなんて考えることも必要ないはずよ。詩のように、歌えばいいの。何語でもない詩を。文法も、語も、句も節もない分析されることない詩を。私達はそれを知っている。」
タカナシは、弁当箱を拾わずに研究所の建物に戻っていった。
「私、研究者やめるわ」
タカナシは、合わせた手を離して、それから指を組んで膝の上に置いた。
「例えば、知っている、ということはどのようなことを表すのだと思う?」
私は、タカナシの手をみて、考える。まるで、手の本来の機能を忘れさせるような形をしていた。いや、手には本来の機能などなく、その柔らかに変形する形は人が世界と関わるための、メディアとして機能を変えていくだろう。彼女の手は、彼女が世界とどうやって関わるのかを端的に示しているように見えた。とても繊細で、たった一つのものでさえ守れないような儚い手だった。むしろそれは、具体的に何かをするよりも抽象的な操作が向いているだろう。手話を話せば、美しい言葉になるだろう。そして、掴むよりも撫でたり触れたりするほうがずっと得意なように見えた。なにも所有することができなくて、何かを常に優しく求めている手。
「知っていることは、存在することとは次元が違う」
私はそうとだけ言っておいた。
「存在することは、知っていることではないの」
「たぶん、知らなくても存在できる」
「『鯨』は知っているの?」
「『鯨』は、どうとでも言えない。」
研究者が『太初の鯨』について述べるときの、消極的で的を得ない言説をしてしまった。結局私は何を研究しているのか、その答えさえ容易に言わせない何かがあるのだ。本来的には違うのだが、そのような得体のしれなさは『鯨』にまつわるもの全てに共通する。
「私はこの部屋の鍵を『鯨』に聞いたのよ」
タカナシは、ずっと言いたかったかのように言った。
「どういうこと」
私は、予想もしなかった言葉にタカナシをじっと見つめた。私は少し、憤慨を込めていった。もし彼女がふざけているのであればすぐさまその本当の答えを白状させるつもりだった。もちろん、私の方から聞き出す事はできず、困っている私の目を見てタカナシは口を割った。
「どうしてわからない、『鯨』を研究しているのに?」
タカナシは、笑ってその笑った顔のまま、ディスプレイを乱舞する文字列を見た。彼女の白い肌に、活字が踊る。
キモノヲキタ
ハネムシガ、
ソシテトマトノ
アオイシンジョウニオリナスッテ
タマハガネノ
ウミハシロイノリモノニヌレテ、
ワタシハトテモキレイナキレイナ、
メノシグサヲミテイマシタ。
私は、全身の肌が泡立つ感覚を覚えた。気のせいだ。と思おうとした。
「どうしたの」
タカナシは私の頬に触れて心配そうに顔を覗き込んだ。私は何も言えずに、ただタカナシの顔を見ていた。
「なんでもない。」
私は言った。
「私はとてもきれいなきれいな…」
タカナシは呟いた。
「やめて。」
「目の仕草を見ていました。」
その途端、ディスプレイが暴走したように白くなった。
私は、壁に目をやる。壊れてはいない。その代わりに数字が目にも止まらぬスピードで流れていた。
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「何よこれ。」
「あなたの目のバイナリデータ。」
タカナシは言った。
「どうして、どうして。」
「可能性の話をしましょう。『鯨』が存在する世界には、可能性は全て実現可能性なの。」
タカナシは、呆然とする私に言い聞かせるように言った。私は、タカナシに言われるがままじっと目を見つめる。
「つまり、新しいものは何もない、未知のものも何もない。」
「しかし、可能性は膨大で、限りがないはず。」
私は反論する。
しかし、反論には必ず反論がある。無限の言語空間においては、反論は無限に存在する。
「たまたま、見つけたの。たまたま、私たちの宇宙が私があなたの目のバイナリデータを『鯨』から見つけ出す宇宙だったの。」
私は、これ以上ない事実に膝を挫く。気力がなくなって、考える気もしなくなって私は座ったまま、タカナシにもたれかかる。
彼女の青いドレスからは、海の匂いがした。私は生まれてから一度も海に行ったことがないのに、海の匂いがした。
「私たちは会うべくしてあったのよ。」
私は彼女の胸の中で、ただ言葉を聞いていた。
「きっとアイリもそうしたはず。」
タカナシは言った。
私は、もう言葉を発する事はできなかった。私の頭の中には『鯨』が実在として存在していた。これから話すどんな言葉も、これからするどんな行動も、『鯨』の中にある。私は、『鯨』を研究していたはずなのに、それを本当の意味で理解していなかった。
「アイリも『太初の鯨』の存在を知っていた。だから、それにアクセスすることができた。ただ、それに気がついた。それだけだわ。あなたも、今、それに気がついた。だからそれでいいのよ。」
私は、うなずいた。頭が打たれたように真っ白なまま動かない。
「よしよし、わかったらそれで良いの。」
タカナシは私の頭を撫でて、それからそっと私をソファにもたれ掛けさせた。そして立ち上がると、私を見つめて「またくるね。」と言った。
私はうなずいたのかどうか覚えていない。
ただ、そのときにディスプレイに映されていた文字列を忘れる事はなかった。
アイリは『太初の鯨』から次のような文字列を発見した。




