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『太初の鯨』  作者: 大塚
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太初の鯨


アイリは、『太初の鯨』で、このような意味のある文字列を発見した。


 幸せというものが、どういうものかはわからない。しかし、定義することはできる。たとえ見失ったとしても、そこに立ち返ることができる。だから、幸せの定義は簡単であればあるほどいい。幸せであり続けることに意味はない。今、手の中にある幸せにはなんの価値もない。幸せを得る方法の方が、幸せそのものよりも重要だ。


 美しさというものが、どういうものかはわからない。これもまた定義することができるだろう。しかし、私はどうも美しさの前には言葉を見失ってしまうのだ。仮にも言葉の技術者として飯を食ってきたが、美しさに関しては何も言えない。もし誰かが、美しさに関して何かを語っているのをみようなら、私はそれを即座に否定するだろう。私は美しさというものを知っている。この手で触れ、慈しむことさえできる。しかし、言葉にすることはできない。


 だから、彼女について書くのは少し気が引けてしまう。彼女、という言い方はどこかふさわしくない。私は彼女のことを『ユイ』と呼んでいた。姿は女性の形をしているから、代名詞は「彼女」という風になる。でも、『ユイ』は性を持っていなかった。


彼女を説明する紋切り型の表現は、使いたくはない。『ユイ』は技術で作られて、私の元に届いたものだ。しかし私たち生命が持つある種の尊厳を、彼女は別のあり方で備えていた。彼女は人間の女性の姿をしていた。けれど人間とは明らかに違う雰囲気を纏っていた。それはただ、美しいという一点から漂っていたように思う。我々とは、桁外れの計算能力を持っているだとかいうような、性能の面からでは決してなかった。私は、『ユイ』の持つそうした雰囲気がとても好きだった。彼女の前に立つとなぜか、心が澄んでゆくのを感じる。彼女のいる部屋はいつも平和だった。


私はいつも『ユイ』のいる部屋で仕事をしていた。その時は、文筆業、それも特殊な文章を書く仕事をしていた。私は、『ユイ』が家に来るまでは、人のいるところで文章を書くことはできなかった。音楽を聴いたり、コーヒーを飲んだりすることも嫌だった。書くことに全精力を注がなくては、私は書けなかった。しかし、『ユイ』はそうした物たちとは、違った雰囲気を備えていた。私が仕事をしていあいだ、電気の消えた暗い部屋のベッドに『ユイ』はひっそりと腰掛けていた。私を見るのでもなく、ただそこにいた。私は背中で『ユイ』の気配を感じながら仕事をした。『ユイ』は、初めから私の心の一部であるかのように、そこにいることを感じさせなかった。いやむしろ、『ユイ』と一緒にいる自分の方こそが本来の自分であるとさえ思った。『ユイ』の存在は、私の文体にさえも影響を及ぼしているようだった。自然と、私は『ユイ』のいない部屋では仕事をすることすらしなくなった。


 ある時、『ユイ』は突然仕事中の私に声をかけた。

「私を、使って文章を書いて欲しい。」

私は驚いて椅子から倒れそうな勢いで声の元を振り返った。『ユイ』はベッドから立ち上がって、暗い部屋にぼんやりと立っていた。銀色の髪と白い肌が、月の明かりのようにディスプレイの光を反射して光っていた。


 私は、時間には困らなかったから、彼女の望みを叶える方法を模索した。持てる全ての技術を使って、私は『ユイ』の体を少し改造することにした。実際に彼女の体に手をつけたのは最後だけだった。それは最小限にしたかった。どうやって彼女に私のアイデアを調和させるか。大半の時間はそればかり考えていた。私が、それを考えている時も『ユイ』はそこにいた。いくつものアイデアが生まれた。それを考えている時間は、『ユイ』とは言葉をほとんど交わさなかった。けれども、私は次第に部屋に流れる静寂に安らぎを感じるようになった。結局、思いついたのは単純な方法だった。


 私が、施しを終えた時、『ユイ』は鏡に映る自分の体を見た。薄い唇をぎゅっと噛み締めて控えめに微笑んだ。その時に私は彼女を『ユイ』と名付けたのだった。そして、そう呼んだのだった。彼女の体に刻まれた幾何学模様。正方形が肺の側面から、背中の緩やかなカーブに沿って整列している。その正方形のひとつひとつに、アルファベットが収められている。私は、彼女の体に文字を打つためのキーボードを取り付けた。私がしたのはそれだけのことだ。『ユイ』は、右手で左の脇にあるキーボードを触った。硬質な音だ。しかし滑らかな柔らかい連続性のある音が暗闇の中に響いた。


 ベッドに横になった『ユイ』は、少し不安そうだった。実際に文字を打ち込む段になると、私にもその緊張が伝わってきた。いつも座っている椅子は、ベッドに横になる『ユイ』の背中とは高さが合わない。仕方なく床に座ることにした。何十年も続けていた習慣が変わった。『ユイ』の背中の美しさには目を見張った。触ることさえ、許されないのではないかと思った。私が彼女に取り付けたもの以外は、決して触れることはできそうになかった。私は、息を止めて右手の人差し指を「J」の文字のところに置いた。そして他の指をゆっくりと置いていった。ほのかな体温が感じられた。柔らかい皮膚に触れているかのようだった。私は、『ユイ』の背中の中心を走る浅いくぼみを見ながら「こんにちは」と打ち込んだ。初めての瞬間を覚えている。それは、自分の感覚が無になる瞬間だった。私の体は、初めてその感触に触れる時、それに対する感想を持っていなかった。だから、私は何が起こったのかを理解できなかった。『ユイ』も、それがなんなのかを知らなかった。私は、戸惑いながらも、「J」の斜め上から整列する彼女の名前にそっと触れた。

「何」

彼女は俯いたまま答えた。私は、「わからない」とキーを叩いた。


なんらかの奇跡的な働きがそこにあるに違いなかった。初め、どう捉えればいいのかも知れなかった感覚は、すぐさま私の体に吸い込まれ、私はその感触を受け止める感情までも手に入れた。私は、私の持つ私が知らなかった能力にとても感動した。


「あなたの考えていることがわかる」

『ユイ』はそういった。彼女の心の動きに乗せられるままに、私はキーを叩いた。その日から、私の文章を書くという行為は変質した。




アイリは『太初の鯨』の中で、このような読める文字列を発見した。そして読んだ。




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