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『太初の鯨』  作者: 大塚
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アイリは『太初の鯨』から次のような文字列を発見した。


 教室の外は雪だったことを覚えている。

 「では、入力開始」

 教官の号令がかかっても、僕はずっと窓のそとを眺めていた。白い粉が舞っていた。それを数える訳でもなく、ただ眺めていた。外の音は窓によって遮断されていて、より静かだった。教室には、無機質な打鍵音が鳴り響いていた。

 目の前に置かれた黒い文字入力機は、開かれたまま黙って僕を見ていた。ディスプレイには、ちかちかとカーソルが点滅していた。僕の機械はおじいちゃんから譲り受けたから、キー配列が古い。ほかのみんなが持っているのは、自分なりに配列を工夫できるらしい。

 「おい。」

 頭の上から、声がかかった。教官の犬のような太い声だ。僕はとっさに、キーボードに手を置いた。しかし何を書けばいいのかわからない。文字を打てば何かが書けるのは知っているが、頭に何も浮かんでこない。

 「さっさと書け。」

 「はい。」

 僕は、この時間が恐ろしく嫌いだ。

 教官が僕の机から立ち去ったあと、僕はまた途方に暮れた。何かを書かないとと思うたびに、頭が空回りする。

 「大丈夫? 」

 ティーチングアシスタントの先生が僕の机の脇にしゃがみ込む。僕は、彼女に対応すればいいのか、書くことに集中すればいいのかわからなくて困った。仕方なく、文字入力機のディスプレイに集中するが、何も書けない。

 しばらく、先生は僕と一緒に点滅するカーソルを見つめていたが、何の進展もなかった。

 「仕方ないから、これ書き写す? 」

 先生が出したのは、一枚の紙だった。

 僕はだまってそれを受け取った。折りたたまれたしわを伸ばして、入力機の脇に広げた。

 「書ける?」

 僕は首を振った。

 「あと三百秒。」

 教官が、また大声で言った。

 教室に響く打鍵音が雨あられのように激しくなった。僕は、その一音一音が耳に入ってきて頭が痛くなった。ポケットから耳を塞ぐための耳栓を取り出した。しかし、焦っていたから床に転がって落ちてしまった。先生がそれを拾ってくれた。

 「あと三百秒だって、頑張ろう。」

 ボンボンと僕の背中をたたくが、僕はかえって緊張した。指が震えて力が入らなくなる。先生は僕の背中を絶えずなでてくれるが、僕はついに涙があふれてきた。

 画面に出てるカーソルがチカチカするのを僕はにらみ続けた。

 「三十秒前」

 僕は、ホームポジションに指を何度も置き直しては、「J」の字を何度も指でこすりつける。何度も引っかかれて「J」の字は、ボロボロになってしまっている。

 「十秒前」

 カウントダウンが始まって僕は、とっさに指を動かした。

 『僕は、読めません』

 キーボードをたたく音が軽く鳴った。

 「終了」

 教官の号令とともに教室の、雨あられが止んだ。僕は、打ち込んだ文字をすぐに消した。

 隣にしゃがんでいる先生は「これあげるから」と言って立ち上がって、教官の下に戻っていった。僕は、彼女が教官に向かって何かをつぶやいたのを見ていた。


 翌日、母が学校に呼び出された。

 職員室の隣にある指導室で、僕は次から次へと質問された。

 まずは、ディスプレイに一つだけ文字が表示された。僕はそれを声に出して読み上げた。それから、ディスプレイに文字列が表示された。僕の焦点は文字の流れに翻弄されて、ひどく画面の上をのたうち回った。教官は指示棒をディスプレイに当てて読む順番を指定したが、文字に集中しようとすると気が狂いそうになった。頭は別のことを考え始め、体全体がわなわなと震えた。

 僕は「できません」と自分から言わなくてはならなかった。母の前だから、教官には怒られないと思った。しかし、母は何も言わずに教官の顔を見て呆然としていた。

 「失読症の人が文章を生成できない訳ではありませんが、特別な支援が必要です。」

 教官の丁寧な言葉を聞くのはこれが初めてだった。

 「私たちの指導カリキュラムには、失読症のお子さん向けの教育は入っていません。このまま、学校に通っていても将来戦力になるのは難しいと思われます。」

 学校からの帰り道、母は何も言わなかった。

 僕は、自分の病気の名前をよく覚えていた。「失読症」という言葉だけは、忘れずに聞いていた。なんだか、僕はさみしい気持ちの反面、少し安心した気分にもなった。自分がなぜ、あんなにも惨めな気分にならないといけないのか、どうして怒られるのか。

 それは、僕が文字が読めない病気だったからだ。 それで謎は解けた。

 

 しかし、家に帰るとその奇妙な安心感は途端に消えてなくなってしまった。

 父は、僕が「失読症」とわかると突然に怒り狂った。

 「私の子供ではない」と言った。

 父は、僕の中では学校の教官よりも偉い人だった。だから、そういわれて僕はひどく落ち込んだ。 僕はその晩、部屋にこもっておじいちゃんがくれた文字入力機の画面を見つめていた。チカチカするカーソルは呼吸をするように僕を見つめ返していた。僕はいらだって、文字を打ち込み始めた。

 「いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいまままままままままままままままままままままままままままままままいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」


 母は、それを見るとまたがっかりして父に僕のしでかしたディスプレイを見せた。

 「思念がこもっていない。『鯨』の内部には到達できない。」

 と父は冷たく言った。


 それから、僕は文字と、そしてクジラという言葉を嫌って生活を続けてきた。

 テレビで、『鯨』関連、情報戦争関連のニュースが入ってきたら耳栓をした。そうするたびに父とけんかをした。

 「おまえは、兵士の息子ではない。」

 父が僕のことをなじると、家の雰囲気が悪くなった。

 学校に行かなくなった僕は、母に連れられていろいろな大人と会った。会う大人は、ほとんどが白衣を着ていた。失読症を直すための病院、レッスンで一日の大半は終わった。僕は毎回つらい思いをした。

 文字を読めるようになりたくなかった。それは、『鯨』のためにすることだから。大人たちは、僕が戦争で役に立つ大人になるように親切にしているだけだった。

 レッスンが終わるたびに母は、僕に本を買ってくれた。病院のそばに本屋さんがあった。僕は図鑑や絵本をよく選んだ。母はそれでも怒らなかった。

 病院から帰る電車の中で、母は買った本を読み聞かせた。僕はよく疲れたふりをして、眠っていた。実際文字が並んでいるのを見ると気持ち悪くなって目を背けたくなった。

 僕に弟ができ、妹ができた。きょうだいは皆、文字が読めた。父は、彼らの誕生日に文字入力機を買っていた。僕はそれをみて「かわいそうに」と思った。いつかきょうだいが、クジラのために戦争に行かされると思うと、僕は怖くなった。

 きょうだいが大きくなると僕は一人で病院に通うようになった。重苦しいような、自分がすこし特別扱いされる歯がゆさは変わらなかった。その代わり、僕は病院に行き来する間の少しばかりの自由を手に入れた。

 病院が終わったあと、本屋さんに行くかわりに街をぶらついた。街には、活字ではない文化がたくさんあった。映画や音楽や絵や、ゲームがあった。それはきらびやかでずっと先進的に思えた。なぜ、クジラのために退屈な文字列の練習をしなくてはいけないのか、僕は自分がしていることがくだらなく思えた。

 ついに、病院に行かず僕は街にでた。

 病院に行く道からはずれると、街路が一面ピンク色になって花びらが舞っていた。何も考えずに僕はその道をずっと歩いた。春だった。戦争はまだ続いていた。

 「終わりが見えない戦争。」

 その言葉が何度もつぶやかれたときだった。

 街は、すこしだけ戦争につかれてきて、すこしだけ戦いながら生活を明るく彩っていくことを覚えてきた時だった。桜の道には、音楽がかかっていた。美しい映像効果のコマーシャルが街頭の大きなディスプレイに流れていた。

 ぼんやりと歩いていたら、お腹がへった。もう病院のことなど考えられなかった。忘れてしまおうと思った。そう決めるとなんだか腹の底から笑いがこみ上げてきた。

 街はどこまでも続いていた。居心地のいいレストランが見つからなくて困っていた。街にはたくさんの店があったが、僕を受け入れてくれるような場所はとても少ないと感じた。

 携帯電話がなった。とっさに母だと出る前からわかった。僕は、さっきまでの気持ちがしぼんでいくのを感じた。電話に出ずに、携帯の音を出ないようにした。僕は自分が何も考えずに歩いていることが、情けなく思えた。早く帰りたい、そんな気持ちになってあいている店で早く腹を満たそうと考えた。

 ふと脇に看板を見つけた。その店は、華やかな道から外れた商店街の一角にあった。古いビルがいかにも僕の寂しい気持ちに似合っていると思った。手書きの看板は優しそうな文字で、怖いところではなさそうに思えた。

 ビルの階段を上ると、木でできたドアに「OPEN」とでかでかと書いてあった。さびた金属製のドアノブに手をかけるとひねらなくても開いた。

 「おっお客さん。」

 カウンターの向こうには、エプロン姿のひげを生やしたコックさん。カウンターには、たばこを吸っているサラリーマン、そしてワンピースの女性が腰掛けていた。彼らのほかは誰もいない。

 「好きな席どうぞ。」

 ワンビースの女性か微笑んで挨拶をした。僕は恥ずかしくなってカウンターの一番端に腰を下ろした。

 「ご注文はこちらからどうぞ」

 まごついている僕にさっきの女性が丁寧に教えてくれる。僕は、冊子を手にしてメニューを開いた。そのとたん僕は自分が文字を読めないことに気がついた。メニューはやけに読みずらかった。一品一品の名前が長くて、まるで詩のような文字の配置をしていた。僕は急に気分が悪くなった。違う店にしようか、と思ったがシェフもさっきの女性も僕の注文を待っている。

 僕はお腹が痛くなってきた。とっさに僕は鞄を開いて文字入力機をカウンターの上に出した。

 シェフと女性は黙って僕のことを見ている。僕は二つ折りの機械を開いて文章を画面に表示した。

 「これ読んでください」

 僕は手に持って二人に画面を向けた。

 「私は、」

 ワンピースの女性が読み上げ始めた。

 「私は、失読症です。音声での会話はできますが、活字を読むことができません。細かい字で書かれた書類や、本を読むと気分が悪くなります。また、道路標識や、説明書き、レストランのメニューなど何が書かれているのかわからなくて困るときがあります。

 そうしたときは、会話はできますのであらためて言葉で説明したりするなどの配慮をお願いします。」

 冷涼な声が店にこだました。僕はこんなにもきれいに文章が読み上げらるのを初めて聞いた。女性は真面目にすべて音読した。

 「ありがとうございます。」

 僕は、お辞儀をして文字入力機の電源を切った。 「待って。」

 カウンターの奥に座っていたスーツの男が突然立ち上がった。

 僕はびっくりして動きをとめた。

 「もしかしてそれ、『ワードタイパー567』じゃないか?」

 「へ、なにそれ。」

 ワンビースの女性が振り返ってスーツの男に尋ねた。

 「『ワードタイパー567』だよ。情報空間黎明期に、『鯨』調査団たちが使っていた伝説の機械。『鯨』を調査するための最低限の機能だけに特化した、まさにプロのための、文字入力マシンさ。」

 「へ、こんなにすごいのこれ?」

 ワンピースの女性がまた、僕のほうを向いた。

 「もう一回見てもいい?」

 「おまえら。」

 僕がうろたえてると、シェフのおじさんが一喝した。

 「メニューが読めなくて困ってるだろが。」

 スーツのサラリーマンはすっと席に戻り、ワンビースの女性はしゅんとしてしまった。

 「君、ごめんね。」

 「いえいえ」

 「メニュー読むね」

 「ありがとうございます。」

 僕は、女性にメニューを手渡した。彼女は冊子を開くと高らかに、メニューを読み上げた。 「カフェ『くじらのうた』へようこそ

 ここでは、文学の香りとともにくつろぎの時間を提供いたします。

 いまは戦争の道具に成り果ててしまった言葉の本来の味をお伝えしたいと思います。

 料理の名前はすべて詩、となっています。シェフはそこから連想を広げ、料理を創作しました。

 人は言葉とともに味を知り、感情を知り人と心を通わせています。

 ここであなたが出会った味と言葉がかけがえない思い出になれば、それ以上の幸せはありません。 シェフより」

 店にいたすべての人が拍手した。

 なめらかな美しい音読だった。僕は感動して我を忘れて彼女の声を聞いていた。

 「飲み物

 春の

 香りとともに

 重なる重なる

 積み重なる

 花びらのように

 明日には消えて

 積み重なる

 積み重なる

 思い出はみえないまま

 積み重なる

 」

 「それにします。」

 「それ以外もあるけど。」

 「でも、読むの大変そう。」

 「気遣いがじょうずね。」

 女性は、そのままメニューに目を下ろして続けた。

 「ランチメニュー

 潮が引いて

 満ちた

 白い砂浜に光が残った

 貝が

 海の中の匂いを残してちりばめられていた

 海藻が

 おおらかな体を揺らして波を喜んでいた

 太陽が育てた

 海が抱いた

 風が運んだ

 波打ち際のボンゴレビアンコ


 森のなかの妖精が

 流した涙の味わいは

 雨より冷たく

 静かに岩に染み入った

 森の動物たちは

 彼女の恋を計らいかねて

 静かに知らない振りをした

 山菜のペペロンチーノ

 」

 「それにします」

 「お、いいね。」

 スーツのサラリーマンが言った。

 「決めたら一途なんだね。」

 僕は、全部読み上げるのが大変そうだからいいと思ったらすぐそれに決めているだけだった。普通の人が選ぶ方法とはすこし違うかも知れない。 「シェフ、桜ティーと山菜ペペロンチーノ」

 女性がよく通る声で言った。

 「はい、これが桜ティー。」

 透明なグラスのなかで桜の花びらが舞っていた。香りも上品だった。これが桜の香りなのだと知った。 

 「君、名前は」

 「君、さっきの機械を見せてくれ。」

 僕は、「ミツキです。」と言いながら、文字入力機をカウンターに差し出した。

 「そうか、ミツキくんか。」

 「おお、これはやっぱり」

 「何歳?」

 「君が買ったのか?」

 今度ばかりは同時に返答できなくなった。

 「おまえら、ゆずりあえや」

 シェフが厨房で怒鳴った。しかし、父や教官のような怖さはなかった。

 「ええっと、今は十八歳。これは、僕のおじいちゃんがくれた物です。」

 女性と、サラリーマンはお互いをみて、どっちが先に話しかけるか確認し合った。お互い手のひらをどうぞどうぞ、と差し出しあってなかなか決まらなかった。

 「君のおじいちゃんは何者だい?」

 結局スーツの男性が口火を切った。

 「僕も、あまり覚えてないです。すごく小さい頃に会ったきりで。」

 「そうなんだ。でも、これを持っているということは」

 男性は、黒い文字入力機を見た。古ぼけた機体がなんだか違った意味があるように思えた。

 「はい、山菜のペペロンチーノです。」

 シェフが、料理を持ってきてくれた。

 「いただきます。」

 僕は正面に向き直って、スプーンとフォークを手に取った。さらには、野菜がたくさんのったパスタがきれいに盛り付けられていた。麺も緑色をしている。一口たべてみると、野菜の香りがかむたびに染み出てきた。

 「おいしいか。」

 「はい」

 ふふふ、と笑ってシェフはまた厨房の奥に引っ込んでいった。

 「ねえ、これ文字を記録する機能もあるんじゃない」

 女性がふと、思い出したように言った。

 「そうだ。」

 スーツの男性がまた興奮したように、立ち上がった。 

 「もし、文章が残っていたらそれは貴重な史料になり得るぞ。」

 「へ、もしかしたら歴史的新発見とか。」

 「ありうる。」

 突然二人が色めきだった。僕は、パスタを食べるのに夢中でどうすればよいのかわからない。あまり、歴史には興味がなかった。

 「ちょっと、探してみてもいいよ。僕は探したことないけど」

 僕は文字入力機を二人に差し出した。

 スーツの男が、うやうやしく機械を開いた。女性も身をかたむけてディスプレイに注目する。その間、僕は食べることに集中することができた。 「これは。」

 「え。」

 「『調査日記』だって。タイムスタンプは、五十年前だ。」

 「え、ちょっとマスター、この子ただ者じゃないわよ」

 女性が、厨房の奥に声をかける。

 「うるせえ、ちょっと待ちな」

 マスターまで手を拭きながら急いで裏から出てきた。僕は、手をとめて三人の騒ぎようをすこし観察していた。

 「『調査日記』」

 女性が、読み上げる。

 「三月のこと。私たちは『太初の鯨』の実部に侵入することに成功した。そこではまさに、現実世界に関する情報が書き込まれていた。

 そこには、遠い未来あるいは過去そして、この宇宙のどこかで実際に起こったことだと思われる。人文的な記述では、『重力』や、『光』、『時間』などに言及するものもあった。また、データとして宇宙の状態を記述する記号列も発見された。 この瞬間私たちは、『鯨』の改変を続けることは私たち現実世界を改変することでもあるという事実を証明した。

 そしてここからが、『鯨』によって世界の秘密を解き明かす学問の黎明期がはじまっていくだろう。」

 僕は、彼女の流麗な声が少しうわずっているのを感じた。僕もおじいちゃんが残した文章を初めて読んだ。

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 「本物だよな。」

 シェフが腕を組みながら言った。

 「本当だったら偉いことだぞ。」

 「いやでも、この機械は実際に調査団が使っていたものだ。」

 サラリーマンがまた立ち上がって、入力機を指さした。

 「んで、本当だったらどうするつもりだ。これを研究所にもってって調べてもらうのかい。」

 シェフの言葉に僕はすこしドキリとした。女性は座っている僕の様子を伺った。

 「いやです。」

 僕は立ち上がった。

 「返してください。」

 サラリーマンにそう言うと、彼はだまって入力機を閉じた。

 「君のものだ。」

 僕はそれを受け取るとバッグにもどして、また食べ始めた。

 「大変よね。ディスクレシアって。」

 ふと、女性が言った。それは、気まずい雰囲気にぽちゃんと投げ込まれた石のようだった。僕はまた、恥ずかしい気分になった。

 「学校の作文の授業とかどうしてるの。」

 「学校には行ってない。」

 というと、また静かな雰囲気になった。今度は僕の言い方が悪かったのかも知れないと反省した。 「僕は、クジラも戦争も嫌いだ。学校にいくと、訳もわからないようなものと戦わされて怒られるだけだった。」

 「わかる」

 サラリーマンがたばこをふかしながら相づちを入れた。

 「俺が学校行ってたころは、もっとひどかったぜ。なにも考えなくてもいいからとにかく文章書けとか。」

 「あったわー。あの謎の儀式」

 女性は、思い出したように笑った。

 「今も、ひどいよ。」

 僕は言った。

 「書かないと怒られるし、適当に書くと思念がこもってないっていわれる。」

 「思念ってなによ。」

 「創作意図みたいなものだな。」

 サラリーマンは詳しいのか、話が早い。

 「ランダムな文字列だとだめで、文章が存在するためには何らかの理由が込められてないといけないんだよ。な。」

 僕はうなずいた。

 「たいへんだね。」

 女性は、頬杖をついてカフェの天井をみた。天井には大きな文字で何かが書いてあるようだ。文字は交錯して、どの向きでどう読めばいいのかわからない。

 「これ、『鯨』の中をイメージしてるんだって。ねえ。」

 僕は、彼女を見た。

 「『言葉』は好き?」

 僕は少し考えた。言葉が好きかどうかなんて考えたことがなかったから。好きな言葉もない。言葉なんて当たり前にあるもので、好きになるものでもないと思った。

 「私はねえ、声優やってるの。」

 僕は感心して、彼女の目を見た。

 「声優っていっても、アニメじゃなくて、文学専門。本の読み上げとか、詩の朗読とかしかやらない声優さんなの。」

 「プロですから。」

 サラリーマンが少しおだてると、彼女はやめてよ。と謙遜した。

 「だから、こんなに素敵な声だったんですね。」

 「あ、素敵だった? ほんと?うれしい」

 僕はかくかくとうなずくと、彼女は心から喜んでいるようだった。こんな風に人を喜ばせたことはなかったので僕はすこし拍子ぬけしてしまった。 「まあ、つまり『言葉』がすきだからこの仕事やってるのよ。ここに来ている人もみんな『言葉』が好き。」

 「まあ、当たってる。」

 シェフがひげを触りながら言った。僕は、すこし真剣に考えてみたが「言葉」が好きとはどういうことなのか、さっぱりわからなかった。文字が読めない自分はむしろ言葉が嫌いな方なのかと思った。

 僕たちは、しばらく食べたり話したりして過ごした。いつの間にか、病院をサボった罪悪感も忘れていた。

 すると、突然にドアが開いた。

 「ここにいたのね。」

 母が、青白い顔で立っていた。春の強い風が店内に入り込んだ。みんな僕と、母を交互に見た。母は、そのまま僕の方に歩いてきて、僕の手をつかむと立ち上がらせた。

 「お代は、払ったの」

 僕は首を振った。母が、胸ポケットから端末を取り出した。

 「いやいや。僕が払います。」

 サラリーマンが突然立ち上がって母の前に立ちはだかった。

 「彼にはとてもいい話を聞かせてもらったんで。」

 「結構です。」

 母は、受け入れずカウンターの上にある白い読み取り機に端末を近づけた。

 「いやいや、いいですいいです。」

 サラリーマンは抵抗して、白い読み取り機を手で覆って読み取れないようにした。

 「あなたは関係ないでしょう。」

 「いやいや、彼とはもう友達です。」

 母は、僕のことを見た。

 「私も、ミツキくんにはいいお話きかせてもらいました。」

 ワンビースの女性も立ち上がって母に向かってお辞儀をした。シェフはだまって、母のことを見て様子をうかがっていた。

 「いそいでるので、失礼します。」

 意外なことに、女性もサラリーマンの手の上に自分の手を重ねた。読み取り機には、二人の大人の手が覆い被さっている。

 「私も払います。」

 僕はどちらの方に立てばいいのか困ってしまった。しばらく、にらみ合いの状態が続いた。

 「けんかすんなや。」

 しびれをきらして、シェフがどなった。

 「大人がけんかして困ってるのは、子供のほうや。」

 はっとして、サラリーマンと、女性がシェフのほうを見た。そのすきに、母は二人の手が覆い被さった読み取り機に端末を近づけた。電子音がなって、決済されましたと機械が言った。

 「つかえんのかよ。」

 サラリーマンがぼやいた。

 母は、だまって僕の手をとると出口に連れて行った。僕はよろめきながら、歩き出す。

 ふりむくと女性が「またきてね。」と手を振っていた。


 帰りの電車、母はなにも言わなかった。僕は、自分が失読症だとわかった日のことをおもいだした。

 その日とは違って、家に帰っても父は僕になにも言わなかった。僕は黙って夕ご飯を食べるとすぐに部屋にこもった。

『言葉は好き?』

 ワンピースの女性が問いかけた言葉が妙に頭に残った。

 

 僕が病院を何回かサボった頃、そして手紙が書けるようになった頃。僕は、誰に何を書こうかと考えていた。

 戦争はまだ続いていた。

 地図から、いくつか地名が消えたらしい。

 人がとつぜんいなくなったらしい。

 まるでコンピューター上の文字列を消すかのように。しかし、僕には何かが変わったようには思えなかった。僕の周りの世界は何も変化しているように見えないからだ。だから、相変わらず父やほかの大人たちは、得体の知れないものと戦って、常に機嫌が悪いだけのように見えた。

 僕は、この世界にいない何かに向けて手紙を書こうと思った。


 おじいちゃんへ

 今どこにいますか。この手紙はおじいちゃんがくれた機械でかいています。僕が初めて書く手紙です。

 元気だとうれしいです。また会ったら、面白い話をきかせてください。

 ミツキより。


 病院の先生は、僕がおじいちゃんにむけて書くというと、なんども遠回しに反対した。

 「それを書いて、どうやっておじいちゃんにとどけるんだい。」

 僕は、役に立つとか「えらいね」とか褒められたくなかった。母や父に書いたらそんな風に評価のめにさらされてしまうだろうと思った。だから、どこにいったかわからないおじいちゃんに書けばいいだろうと思った。


 帰りに『くじらのうた』にまたよってみんなその話をすると、みんな手紙を見たがった。僕はいやだったがついに見せてしまった。

 コピー紙には、印刷されたもじで僕の文章が並んでいた。

 「かけたじゃん」

 女性はうれしそうに言った。

 「おじいちゃんもよろこんでるぞ。」

 シェフは言った。

 「どうしてそう思ったの。」

 僕は思わずシェフに問いかけた。

 「そりゃ、だれだって手紙もらったらうれしいからな。」

 シェフは、目を丸くして言った。

 「いや、でも。おじいちゃんはどこにいるかわからないんだし。」

 それを聞くと、シェフは忙しそうにまた厨房に戻ってしまった。女性もまたカウンターに向き直って僕が書いた手紙を読み直した。奥のカウンターには、頬杖をつきながらサラリーマンがたばこをすっている。僕は、紅茶を飲みながらおじいちゃんのことを思い出そうとした。気がつけば、古ぼけた文字入力機を手で何度もなでていた。

 「『鯨』に投げ込めば、読んでくれるかもよ」 サラリーマンが言った。

 「たぶん、あんたのおじいちゃんは『鯨』の中にいる。」

 はあ、とたばこの煙を吐き出す。それからコホンと軽くせきをした。

 「あんたも、俺も、死んだ人も今ここにいない人もみんな『鯨』の中にいる。」

 僕は、サラリーマンの言葉に反論しようとした。 「でも『鯨』は本当じゃないでしょう。」

 「いや、それは本当だよ。」

 女性が、僕の方に向き直った。組んだ足が地面についてこつんとなった。

 「いや、本当とかそうじゃないとかってなんだろう。」

 サラリーマンは、ぼんやりと言った。目は、天井を見ていた。無数に文字が描かれたあの天井を。 「おれたちだって、誰かの想像の世界にいるかも知れない。逆に俺たちが想像している世界は、実際にあるかも知れない。」

 僕は思わず、天井をみた。このときばかりは気持ち悪いとは思わなかった。さまざまな文字は重なって流れ出し、僕の乱走する視線にそって存在した。まるで、一つの絵画のような気がした。

 「じゃあ、おじいちゃんはあの中にいるかな」

 僕は天井を指さした。

 「うーん。」

 女性は上を見てうなった。

 「戦争で死んだ人は、どこに行くんだろうって思うの。」

 冷たく湿った声だった。

 女性は上を見たまま、話し続けた。

 「いなくなった人のこと、消えた街のこと誰も覚えていないの。でも私、消えた瞬間のことを覚えているの。

 糸が切れたみたいに、突然意識が途切れて感覚が変わったの。病院で目覚めた時には、変わる前のことは思い出せなかった。

 多分、いろいろなものを失ったんだと思う。

 その人たちは、いまどこにいるんだろうな。」 僕はカウンターに肘をついてじっと文字入力機を眺めていた。さみしいとか、悲しいという気持ちさえわいてこなかった。それが一番悲しいことなのかも知れなかった。


 その日、僕は『鯨』に自分の手紙を送りこむ方法を教えてもらった。それは、あっけないほど簡単だった。国立情報局のウェブサイトにいくと『太初の鯨』に情報を追加するというページがあった。そこに書いてある説明はよくわからなかった。でも、フォームに打ち込めば良さそうだった。インターネットなどほとんど使わないから、文字の多さに目がくらんだ。ちゃんとできているのか不安になった。

 しかし、手紙を打ち込んで送信すると

 『太初の鯨』に文字列が加わりました

 と言うメッセージが表示された。

 僕は安心して、眠ったのだった。


 僕は、働くことになった。結局文字が読めない人がする仕事は限られていて、迷う暇もなかった。戦争には行かずにすみそうだったから僕はそれでもよかった。

 いつも病院に行くときにつかう駅を降りて歩き出した。母とよく行った本屋さんは、駅と張り合うように高くそびえていた。自分が一人で病院に行くようになってから入っていない。自分が入ることができない活字という文化に憧れがない訳ではない。本を読んだらたくさんのことを知れたと思う。もし、自分が失読症でなかったら父のように軍隊にはいっていまも、必死で文字を打ち込んでいたかも知れない。自分のキーボードの一打で、相手の国の一帯を消去したりしていたかも知れない。

 あるいは、小説家になって『太初の鯨』に自分の足跡を永久に残す権利を行使していたかも知れない。

 軍人か、作家か。それがこの国の子供たちの憧れの職業だった。どちらも、人を選びそうな職業だと思った。僕は、そのどちらでもなく。そのどちらを選ぶ権利もなかった。

 しかし、もし自分が失読症でなかったらと言う妄想は楽しかった。まるで映画でも見ているように軽く頭の中でストーリーが走り出した。そのとき、文字が読めるということは僕の中では魔法の力だった。文字をつかって何かをするということは、魔法をつかって無責任に世界のあり方を変えたりする想像と同じ類いのものだった。

 不思議なことに街には文字が見当たらなかった。華やかな音楽がメインストリートに鳴り響いていた。人はそれを当たり前のように聞き流して歩き去る。踊る人も、歌う人もいない。だから、音楽は耳鳴りのように自分だけに聞こえるもののように錯覚した。映像もそうだ。わざわざ立ち止まって見る人はいない。すべて僕だけに問いかけているかのようだった。

 しかし、あまりにも内容が僕自身の興味と乖離していた。僕は様々な情報を聞き流していくうちになんだか、自分だけが一人違う世界に生きているのではないかと錯覚した。じっさい、世の中の出来事を一切しらなくても生きてゆけると思えてきた。

 戦争に関するニュースも、『鯨』の新しい発見もすべて無視してきた。

 『くじらのうた』は、いつも通りそこにあった。寂れた建物が、僕にふさわしいと思った。街の人々の気が行き届かない場所が心地よかった。むしろ何もかもを記述し、意味あるものとしようとする世界から逃れるためには、そもそもそこから逃げ出してしまえばいい。僕は文字が読めなかったから、ここに来たのだ。

 カフェのドアを開けると、いつもの三人がいつものようにそこにいた。

 「おっきたきた。」

 「今日はなに用だね。」

 「ここで働かせてください。」

 奥で黙っているシェフに僕はいった。

 シェフは腕をくんで僕をじろじろ見た。

 「別にいいが、詩は書けるか。」

 僕は、しばらくなにも言えずにシェフと向き合っていた。シェフがついになにかを言おうとしたとき、僕は鞄から文字入力機を取り出した。

 それを開くと、真っ白なはずのディスプレイに文字列が浮かんでいた。

 僕は驚いてしばらくそれを見つめていた。幸いに文字と文字との行間が広く読みやすかった。詩のようだった。最後の文字が書かれたところで、カーソルが息をつくように点滅していた。


アイリは『太初の鯨』から次のような文字列を発見した。

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