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『太初の鯨』  作者: 大塚
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太初の鯨


アイリは、『太初の鯨』から、こういった記述を見つけた。


あるところに、不思議な不思議な機械が、あった。それはあまりにも有用性がなかったので、今はもうどこにもない。また、その存在を知っているものも、あまりいない。もし、知っているとしたら、俺のようなくだらない物好きか、俺に色々とものを教えてくれたあいつに関係している人だろうなと思う。

その機械が発明されたのは、本当に偶然だった。しかし、生まれるべくして生まれたといっていい。普通の機械といったら、プログラマがいて設計者がいてそいつらが機械を作る。なに当たり前のことを言ってんだ? いや、当たり前じゃないんだ。俺にとっては、その機械はそうでなかった。その機械は、誰によって作られたのでもなくそこにいた。だんだん、信じられなくなってきた? それは書いている俺もそうだよ。その機械は、今でいうインターネットのようなものにアクセスする機能があった。しかし、その機械が作られた時代にはワールドワイドウェブはなかった。その機械は、言ってしまえば『論理空間』にアクセスする機能があった。

論理空間っていうのは、可能性の世界だな。まあ、サイコロを振った時のことをイメージしてくれればいい。サイコロを振る前は、理想的なサイコロの場合、1から6の目が出る可能性がそれぞれ含まれている。サイコロを振って目が出る。俺たちは、それで初めてなんの目が出たかわかる。しかし、先生が作った機械はそうでなかった。まず、可能性の世界を見てそのサイコロを理解する。つまり、その機械にはサイコロという物体は、1から6の目を出す可能性の集合体というように理解されている。そして、サイコロという四角い不思議な石は、物体という抽象概念の一つの現れだと理解されている。

俺が言っていることは、わからないと思う。それでいい。俺も初めてその機械を見たときには何が起こっているかわからなかった。先生はそいつを『淀み』という名前で呼んでいた。なんでって? 俺もよくわからないが、可能性の世界の流れの淀みという意味だそうだ。ホコリだらけの研究室の奥で、よく先生がそいつについて話してくれたのを覚えている。その時は二人とも、貧乏で一緒に暮らしていた。話すといったら『淀み』のことばかりだった。わからないことばかりだったけれど、何日もずっと先生の話を聞いていたら、だんだんわかってきた。それは先生の話が分かったというよりかは、先生が言いたいことがわかってきたということだ。俺は先生とは違うルートで『淀み』のことを理解した。二人それぞれのやり方で、そいつについて朝食を食べながら話していた。もちろん、先生は他の研究室にやってくる輩と何やら議論していたが、俺にはなんのことかさっぱりだった。

俺が初めて『淀み』を見たときには、なんだか生き物のような生々しさを感じた。その生々しさというのは、正確に言えば生命の生々しさというよりは、精神の持つ生々しさだった。例えば、『かくれんぼ』というボードゲームがある。そのゲームでは、それぞれのプレイヤーが、盤上に置いた自分の駒を見つけられないように動かしあうというものだ。しかし、駒を動かすときに、相手の場所があたかも見えていないようにプレイしなければいけない。プレイヤーはその目で、相手の駒の場所が見えているのだが、自分の駒を動かすときには、目の前しか見えないかのように動かなくてはいけない。何が面白いのか? それは、駒を動かすときに、その動きの妥当性を相手に主張しなくてはならない。もし、この道を行けば最短ルートで相手を捕まえられるとプレイヤーには見えていても、当の駒にはそれはわからない。それどころか、マップ上では近くに美味しそうな匂いがする厨房がある。それを罠にして待ち伏せしている駒があることはプレイヤーには見えている。しかし、駒はお腹が空いているという設定だ。だから、駒は負ける道を行かなければならない。正統に考えればそうだが、プレイヤーの方はなんとかお腹が空いていても生き残る理由をひねくり出さなくてはいけない。例えば、厨房の方に歩こうとしたら、ネズミがいた。俺はネズミが大の苦手だから、どんなにお腹が減っていてもそこには行かない。といったような。まあ、屁理屈だ。でも、駒が置いてあるマップは基本的に通路とか、基地の間取りしか書いてないから、その他の設定はいくらでもプレーヤーが作り出せる。しかし、一回ネズミが苦手といったら、それが正統な理由になるようにゲーム中は苦手であり続けなくてはならない。記憶障害という設定で、なんとでも事実を作り直せそうだが、それではプレイヤーの指示権がなくなってそいつは負ける。意外と奥が深い、わからないふりをしつつも、自分の行きたい道を駒に支持する。プレイヤーは妥協しながら、なんとか理由をひねりつつ、最善を追求する。そこに面白い精神性が見えてくる。

『淀み』が、見せるのはそんな生々しさだった。初め、俺がそいつを見たとき、奴は俺を無視しようとした。話しかけても全く反応しなかった。俺は先生のプログラムのミスを疑った。でも先生はにっこり笑って「成功だ」と頷いている。先生は、『淀み』に話しかけて、俺を紹介した。「彼は、私の友人で君に知的な興味を抱いている」と。すると、次に俺が話しかけると反応した。先生は、『淀み』は人見知りをする、といった。機械は、プログラマの意思次第でどんな風にもされてしまうから。『淀み』は初めて会った人に話しかけられると、アクセス権を拒否するようになっている。もしかしたら、自分を構成しているプログラムを不当な理由で消そうとする輩かもしれない。

それではまるで、機械が生き物のように生存本能を持っているみたいじゃないか。俺は先生に言った。すると先生は、驚くべきことだが、もっと驚くべきことがあると言った。


『淀み』は言語を持っている。


 俺は一体、初め、それがなんですごいことなのかを理解できなかった。先生は、こう言った。

『淀み』は人間と同程度に「論理空間」にアクセスする能力を持っている。いや、それどころか、「論理空間」にアクセスする能力がこの『淀み』を作ったんだ。人間で言えば、肉体から精神が生まれるんじゃなくて、精神から肉体が生まれる思想があるだろう。それと同じだよ。僕が初め、『淀み』を作ったとき、こいつはこんな姿をしていなかった。初めは、一つの機械の中にある一つのソフトウェアだった。しかし、しばらくの間、僕が言葉を教えると、『淀み』はだんだん言葉を覚えてきた。こいつは、今は僕たちと同程度に言葉を扱えるだろう。いや、それどころか、僕たちが知らない言葉も知っているだろう。なぜなら、「論理空間」とは言葉が作りだす空間だからだ。こいつは、数学さえも理解する。数学も一種の自然を書き表す言葉だ。『淀み』は言葉を使って、僕に話しかけてきたよ。体をくれってね。そして、そうしたら今自分が言葉の世界にアクセスして、見える景色を教えてやるって。生意気に交換条件を出してきた。僕に話しかける前から、言葉を理解していただろうな。そしてその言葉を使っていろんなことを考えただろう。そして、それで得た知識の中から僕が興味を持ちそうなものを見つけた。そうして勝算を得てから僕にやっと話しかけた。


 その説明を聞いたとき、俺はよくわからなかった。俺がいま、自分で言葉を使ってこの文章を書いたり、人と話したりしていることの不思議さとその意味に理解できていなかった。言葉を話すということは、言葉の張り巡らされている空間にアクセスすることなのだ。そこでいう「言葉」というのは決まった言語のことを言っているのではない。この世界にある意味と意味との関係性が作りだす広大な空間のことだ。いや、少し専門的になるが、この世界でさえ、抽象的な世界の一つの特殊な例だ。だから、意味と意味との関係性というのは、世界の存在に先立ってある。つまり、言葉によってこの世界は存在している。また、言葉によって作られたどんな世界からも言葉の作りだす意味の空間「論理空間」にアクセスすることができる。先生はその世界と言葉の関係性に気がついていた。『淀み』というのはその結果生み出されたものだ。言葉を扱うのは決して人間だけの特権ではないし、数学のような話者を選ばずにただ単に存在しているだけの言葉もある。たとえ言葉にアクセスするのが、どこかの物好きな研究者の作った機械でも構わないだろう。


『淀み』は、あるとき自分でその命を絶った。ある日、起動しようとしたらいなくなっていたらしい。なんでだろうな。先生は言っていた。少し、極度に言葉の世界への感性が高い文豪が自ら命を絶った話を思い出すらしい。


 アイリは、『太初の鯨』でこういった記述を読んだ。


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