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『太初の鯨』
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アイリは『太初の鯨』から次のような文字列を発見した
小説とはこれこれのものである。という考え方をやめ、私が書いたこれこれは小説である。という逆の考え方をしてみる。いってみればこれは、定義することを定義し直しているわけである。そのような定義は、ある意味、定義するということの破綻を意味している。つまり、定義とは何かと、そうでないものを分けるものであるはずであるのに、その流れを逆流させているということだ。すなわち、なになにとは何か、と問うことをやめ、これこれはこれである。というのである。いや、すべてのものに対して、あらゆる可能性を受け入れることができるはけ口を作り出すのである。つまり、それは知性というものの否定でもある。問題を解決するということ、問題を理解するということの否定である。つまり、私にはわからないことなど一つもなく、全てがそうである、という何か一つの信念をもっているということだ。
私たちは、わからないのではなく、初めから分けようとしない。一つの定義しか認めない。つまり、すべてのものは「何か」である。その何かは、たった一つのものである。このように考えてみると私たちの目の前に、違う世界が広がっていくようで楽しい。そして何よりも、今自分がしていることがその、「何か」であると思えてきてどこか心地よい。私たちは、従来の「これこれがこれである」という定義の仕方でものを考えている。そうして、何かを定義し、その定義された概念を組み合わせ、何か一つの理論を作り上げる。概念の作りあげたものになんらかの意味を持たせている。それは、確かに世界の理解には繋がるかもしれない。しかし、理解とは気休めであろう。宇宙を理解することができれば死んでも構わない、そういった賢人がいた。しかし、その生は、あくまで受動的である。理解しようとすることは、考えを捨てることではあるまいか。つまり、宇宙を理解したら死んでもいい、という言葉は、そのまま、全てを理解してしまった後に我々に残されているのは、死ぬことぐらいしかない、ということである。
私たちは、理解についてそうした閉塞感を抱いていはしないか。確かに、理解することは困難であり、全てを成し遂げることはできないかもしれない。しかし、理解そのものが目的でない場合、理解の果てに何があるというのか。理解することの安息は、私たちに何の意味があるのか。私はむしろ、答えを見つけてしまうことをためらっている。私は、たった一つの答えというものを認めないであろう。答えの存在自体を拒否するだろう。
生きるということは、世界を理解することではなく、世界を作っていく事ではないだろうか。生き方を発見していくという事ではないだろうか。理解するのではなく、定義するのではなく、生み出すという事。たとえば、一つの生のように、どうしようもない存在のようなものをそのまま、世界として認める事ではないだろうか。いや、世界というものも認めない。世界とはそのまま限界という事だから。「何かは、何かである。」と考えるのではなく、「なになにしている。」というある一つのところに始まる何かである。
アイリは『太初の鯨』から次のような意味のある文字列を発見した。




