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太初の鯨
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アイリは『太初の鯨』の中でこのような記述を発見した。
何かが、そこにある。そう気がつくときに私たちには何が起こっているのでしょうか。それとも、そこにある何かが私たちに何かを訴えているのでしょうか。受容体としての私。見出すものとしての私。そもそも区別する必要があるのか。ただ、言えるのはそこに「出会い」があるということ。あるものを、あるものが見る。それはどちらが原因だとか、主体だとか言えるものではない。ただ、その現象そのものがあるというだけのこと。少し、書いていて自信がないので、そこにあるMacBookについて考えてみよう。
私は、今MacBookでこの文章を書いている。そうした、事実を前にして私に何が起こっているのか。言葉を考えている。キーボードを叩いて文字を打ち込んでいる。打ち込まれた文字がちゃんと画面に出ているかを確認している。それぞれに、「何かが、そこにある。」という実感が伴っている。ちなみに、その何か、は自分自身のことでもある。自分の手が動いてキーボードを叩いているのだから、MacBookのキーボードがそこにあると実感する前に自分の手がそこにある、実感している。いや、それでいいのだろうか。今まさに、私がキーボードを叩いているが、自分の手のことは忘れている。実感という言葉が信用できなくなったので、感じているという限りにしよう。私は、キーボードを叩いているときに自分の手を感じなくなる時がある。また、私はこの宇宙に住んでいるはずなのに、この宇宙のことを忘れてただ文章を書いている時がある。
話がずれた。この脱線でわかったことがある。私たちは的外れな議論をしてしまいがちだ、ということだ。もしかしたら、人間には手の及ばないことなのかもしれない。私は人間だから、そう言える。もし、別の生命体のようなもの、例えば論理や数学、その他もろもろの考え事をする生物で人間より少し頭が良ければ、すっぱりと解ける問題であるかもしれない。
話がずれた。この脱線でわかったことがある。私たちは的外れな議論をしてしまいがちだ、ということだ。もう一つわかったことがある。問題には、それ相応の存在意義があるから問題として私たちの目の前に立ち現れてくるものがあるということだ。例えば、いろいろな哲学者が頭を悩ますのも、それに何か意味があると感じているからではなかろうか。もし、意味がなければ、多大な労力を費やして本を書いたりしないのではなかろうか。あるいは、本という形、言葉という形で私たちの前に問題や議題が立ち現れるときに、それは何らかの意味を私たちに提示している。何らかの意味を感じ取ることを私たちに強いている。人間より頭のいい宇宙人にも数学はできる。しかし、彼らにとっても解くことのできない難問、は存在するだろう。
私は、よく考えたいと思っている。何か、考えることが楽しいことであったりしてほしいと思っている。あわよくば、この考えについての記述も楽しいものであってほしいと思っている。ただ問題を解くだけの考えはくだらない。なぜならどこかの頭のいい宇宙人がとっくのとうに答えを見つけてしまっているかもしれないから。私は、どんなに頭のいい知性を仮定したとしても答えられない問題を考えたい。そんな問題がどこかにないか考えているが、探しても見つかりそうにない。数学の未解決問題ではダメなのだ。
最高の知性というものを仮定してみよう。その知性を持ってしても解けない問題とは何か。その問題がどんなものかを少し想像してみることはできる。例えば、そもそも答えがない問題。これなら、私たちの世界にもありふれている。答えのない問題を考えるのも良さそうだ。もう一つ、知性では解けない問題。問題を解く「カギ」が知性ではなかったという話だ。私は考えたいのだが、考えでは解けない問題もある。例えば、体を使って解く問題とか。落ちてくる雨を使って解く問題とか。それじゃあ、きりがないな。私は、最高の体を使っても解けない問題、どんな雨を使っても解けない問題を解きたいと思うはずだから。じゃあ、問題と、それを解くためにある知性や、体力やその他もろもろの方法を対応づけるのをやめちゃおう。問題というのを、一つ仮定してその問題を解こうとするものすべてを後から問題へのアプローチだと一括して考えよう。だとしたら、もう一度考えるべきテーマを言い直すべきだよね。
私は、どんな手を使っても解けない問題に取り組みたい。少し、もやもやした言い方になってしまった。それはどんな問題だろう。さっきと同じで、答えのない問題が挙げられる。また、テーマを考え直す時の議論で少し思いついたのだけど、答えのない問題というのにも色々種類がある。それは答える手段がない問題が一つ。もう一つは、最初から答えがない問題。似ているけれど違うと言える。答える手段がない問題はテーマの「どんな手を使っても解けない問題」からは自然と除外されているように思える。なぜなら、答える手段がない問題なんて、入り口のない部屋のようじゃないか。それは周りから見ればただの壁で、そもそも問題として捉えられないかもしれない。でもそうじゃない、答える手段のない問題にも「答え」があるかもしれない。入り口のない部屋、だけれども出口がある。私たちは、出口から出てくる何かをみて、それを問題だと認識することができる。そう考えると答える手段のない問題というのはとても教訓的なものを示してくれている。問題を解くことができなくても、答えを知ることができる時があると言えること。また、問題を解くということは、問題の答えをただ知るということではないということ。
長くなっちゃったから、段落を変えるね。さっきの段落では、答える手段のない問題について考えていた。この段落では、そもそも答えのない問題の方について考えてみよう。そっちの方は、例えるなら、入り口があるのに出口がない部屋のようだ。問題について考えだすことはできても、答えを見つけることは決してできない。そもそも答えがない。もしかしたら、その部屋の中で頭にいい宇宙人がいっぱいうろうろしているかもしれない。さっきの例と逆の構造をした部屋だ。でも言ってしまえばよく似ている。問題という部屋があって、部屋と外をつなぐドアが一つしかない。部屋の形は同じだね。さっきの段落と組み合わせて考えると面白いことがわかる。どんな手を使っても解けない問題は、どんな「形」をしているか。それは、入口と出口の片方しかない問題だ、と言える。じゃあ、入口と出口のどっちもない問題はどうなるのか、考えてみたくなるけれど少し我慢してみよう。とりあえず今まで考えてきたことをおさらいするね。
どんな人にでも答えることのできない凄い問題を解きたい。
その問題はどんな問題だろう。
答える手段がない問題と、答えがない問題
ここまで考えてきて、問題そのものに対する理解が深まった。じゃあ、最後の答えられない問題の部屋の形について考えよう。入口も出口もない部屋のことだ。私たちは、問題に対する認識を改めなくてはいけない。具体的に思い浮かべることは難しいけれど、そんな問題もあるのだろうと考えられる。ある、と実証したわけではないね。しかし、実証できるかどうかは後に回そう。問題がこの世界にある、とはどういうことかという議論も待っているからね。入口と出口のない問題。それは考えることのできない問題だということだ。そして、その答えも存在しない問題だということだ。現に、いま私は「入口も出口もない問題」について論じているが、それはその問題そのものについて考えていることではない。問題について考えるということはその問題の部屋の中に足を踏み入れるということである。私たちにできるのは、「入口も出口もない問題」の外周をくるくる回っているだけである。外からは、それが問題の形をしているがその問題について考えることはできない。その問題から出てくる答えらしきものも見えてこない。
もっと面白い考え方をしよう。その閉じた空間に風穴をあけるのだ。入り口がないなら作ればいい。出口がないなら作ればいい。そうすれば、問題は解ける。問題とは、ただ迷路のような部屋に入ってそこから脱出することではないのだと言える。手のつけようのない問題もあって、それに対する手段を新しく作ることで部屋の風通しをよくする営みも問題への取り組みと言える。難しい、問題とは壁の硬さも備えていなければならないだろう。壁は、この世界のどんなものよりも硬く、入口も出口もない。そんな問題を探しに行こう。それでいいのではないだろうか。もし、その入口も出口もない問題を探すことが、できなかったとしてもいい退屈しのぎになるだろう。その「難問」は、あるかないかの二択なのだ。そう、言い忘れたことがある。どんな人にも解けない問題の中に「そもそも、存在しない問題」というのもある。あ、でもダメか。だって「難問」があるかないか、問うことがそもそも問題だから、まずそれを考えなくてはいけない。
考えるのが怖くなってきたよ。
アイリは『太初の鯨』からこのような記述を見つけた。