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『太初の鯨』  作者: 大塚
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太初の鯨


 あるところに、ある種の存在を感じた。アイリはそれを、何気ない環境で見つけた。本当に何気ない瞬間だった。たわいのない淡さを持って、しかしそれは確実にそこにあるものだった。アイリはそれに触れようとした。どうやって触れるのか、初めはわからなかった。しかし、その質感に到達することはできた。なんとなく自分がそれに触れることができていると自覚してからは、触れようと意識したときに、触れることができた。自分の体で触れることは決してできない。自分の形而上的な手によってそれに触れている。しかし、しばらくその感触に戯れているとそれが、なかなか精神の集中が必要な作業だと気がついた。それほど難しいことではないが、ずっと没頭していることはできそうにない。初め、たわいのない質感を得たときには想像のつかない空間が広がっていることに気がついた。そこにあるものを掴むようにはいかない。自分が触れることができるときに、その一部に触れることができる。しかし、全体を掴むにはそうはいかない。ひょっとしたら、自分の持てる全精力を果たしても難しいことかもしれない。自分の持てる全ての時間を費やしても、それは難しいことかもしれない。

 いや、それは絶えず無限に膨張しているかのようにすら思える。それと同時にある一つの物体、あえて言うなら生命体のように確かなものでもある。アイリにはそれと似たものを思いつくことができなかった。似ているものが少しでも頭の中で思い浮かべば、それと次々に相違点、共通点が発覚してゆき、似ていると思った最初の考えが変わってしまう。似ているもの、と思っていたら似ているどころか、それ、そのものだったりした。

 アイリは、それを『太初の鯨』と名付けることにした。名付けることの有用性が疑われるかもしれなかった。しかし、それについて考えることはアイリにとってある種の個性的な意味があると感じられた。そのささやかな気遣いとともに、そう呼ぶことにした。

 そう決めてからは、問題意識とともにそれに触れることになった。まるで、研究者のように、あるいは好奇心から。それが、もし他のものに対する感情であったなら非難にあたるものかもしれない。それが、たわいのないごくありふれたものに対する感情であったなら、アイリは自分の感じている質感を信じられなかったかもしれない。しかし『太初の鯨』はおおらかにそのアイリの感情を受け止めて黙っていた。



 ある巨大な情報源の片隅で、アイリはそれに出会った。その巨大な情報源は全世界のありとあらゆるものを記録しているものなのだが、それは海のような広大な空間にゆったりと存在していた。記述され、定義され、抽象化され、整理されてゆくことで失われてしまうはずのものを、それは備えていた。まるで海の中で鯨が泳いでいるのではなく、鯨がいることで海という広大な場を発生させているかのように。だから、アイリがそれに触れることで得られる質感は巨大な情報源に収められている情報とは少し違っているものだった。しかし、それが何か高貴なものであるとか、特別な価値があるとかは全く感じなかった。むしろ周囲の情報と同化して、あたかもそこにないように、あるいは初めからそこにあったかのように、佇んでいた。アイリはそれに触れることが、少し嬉しかったがそもそも、嬉しがるほどのことでもないように思えた。なぜなら、誰もがそれのことを知っているし、アイリと同じように触れることができるからだ。アイリは考えた。自分の触れているそれ、の一部と他の誰かが触れている一部は違っているはずだ。同時に、それの一部として共通しているはずだ。なぜならそれには部分などというものは存在しないからだ。

 アイリはそのあり方を、一見、残酷なものだと思った。まるで自分たちがはぐらかされているかのように思えたのだ。それは、見ることはできても決して全貌を表すことはない。探求することができても、到達することはできない。しかしそれは、よく考えてみればアイリの世界の日常とよく馴染むもののように思えてきた。なぜなら、アイリは自分がそれに惹かれる理由も、それに触れている時の質感も、淡く、特別な感じは何もしなかった。透明な空気を吸って吐いている。そんな感じだった。アイリはその無意味とも思える繰り返しを、繰り返そうか、やめようか考えようとした。考えた途端、その問いが終結する地点が見えてしまったので、考えが止まってしまった。問題は非常に絡まっているように見えるが、引っ張ってしまえば結び目は綺麗さっぱり無くなって一本の線になってしまう。問題は初めから無いように思えるが、問題とみなしても問題ではない。


 アイリは『太初の鯨』から、そんな情報を見つけたのだ。


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