表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ピンズレの絵  作者: かい さとし
1/1

第1回 ピンズレ、絵を描くことに目覚める



ピンズレの絵



今は昔、遙か昔。二万年ほど前。凍てつき乾いた夜空にケフェウス座の星が北極星として冴えた光を瞬かせていた頃。

 今から二万年前といえば、地球は最後の氷期を迎えている。

気温も今より低い。地球全体で平均気温が五℃ほど低かった。ヨーロッパ北部の大地には氷床がのしかかり、雪と氷の帳に包まれた地域周辺では十二~十四℃も低かったらしい。

 氷と雪を纏った冬将軍からかろうじて支配を免れたずっと南の地域ではさすがにそれほど寒くはない。それでも日中の気温もせいぜい二三度ほどだ。時には氷点下にもなることもある。

 なだらかな丘はイネ科の草に覆われていた。木はあっても背丈は低い。もっぱら針葉樹で渓谷沿いにその姿を認めることができた。

 草原にはオオツノシカの群れが渡り、オーロックスが角を振り立て、ウマが静かに草を食んでいた。草食動物を狙う肉食動物のホラアナライオンが獲物に歯を立てているその周りではホラアナハイエナの群れがうろうろし、時折独占者に近づき過ぎて追い払われていた。

 当時の人々、クロマニヨン人たちは大型動物を狩り、毛皮の服に身を包んで寒さの中を生きていた。





 手に槍を持ったひとりのクロマニヨンの少年が、川沿いの崖下にある小径をもたもたと駆けている。

今にも泣きべそをかきそう顔つきで、まるで溺れかけているかのように腕を振り短い足を懸命に繰り出し、息を切らして駆けている。

 年の頃は十歳といったところか。

 手に持った槍の穂先はなんとも頼りなく傾いでいる。石器を柄に止めている革紐が緩んでしまっているのだ。

 背丈の低い針葉樹の森を抜けると視界が開けた。眩しい陽の下に、柔らかい緑に覆われたのっぺりとした丘がいくつもうねり遙か向こうまで続いている。空は乾いて蒼く、雲ひとつない。

 なんとなく立ち止まり、しばらく景色を見渡したくなるが、少年には今、そんな余裕は持ち合わせていない。

 彼の視線の先には一番高い丘の中腹を一列になって頂を目指す毛皮に身を包んだ六人の背中がある。

 同じ集落の若者たちだ。

 少年と同じくやはり手に槍を持っている。これから狩りへゆくのだ。

 小さな起伏がある道になった。ちょっとした窪みをえいっとばかりに飛び越えたそのとき、少年は足をもつれさせ、なにかから見放されたように大の字で顔を泥の中につっこんでしまった。

 間が悪いというべきか。

 殿から前を追っていた若者がふと立ち止まって後ろを振り返ったのはまさにそのときだった。

 彼は少年が泥の中に倒れ込むのを認めると、先ゆく仲間を口笛吹いて呼び止め、ぶざまにのびている少年を指さした。

 少年が呻きながら泥だらけになった顔を持ち上げると、丘の上から嘲笑の雨が降ってきた。目を凝らすと、若者たちが槍の柄に手を打ち付けたり、槍を上げてはやし立てているのが目に入った。

 ああ、またやっちゃたよ・・・。まずいところを見られちゃったな。また、からかわれる。いやだなあ。

 情けなさと悔しさが交錯して少年の顔を歪ませる。

 うーっ。

 思いを断ち切るようにひとつ呻いて立ち上がると、顔に張り付いた泥も払わず再びとてとて走り始めた。走りながら少年は嘆く。

 ああ、いやなものは、いやだ。狩りなんて、行きたくない。パムは狩りを間近で見て覚えろというけれど・・・。


 仲間たちは草の上に座り込んで彼が駆け登ってくるのをにやにや笑いながら見物していた。

 ふうふう言いながら少年がようやっと近づくと、背丈の低い若者が立ち上がり、彼をからからかい始めた。

 ようよう、ピンズレ。今日はめかしこんだなあ! もう、一人前になったつもりか。

 ピンズレは立ち停まるときょとんとした。

 彼らの集落では子供がある年齢になると、大人になった証しとして顔や身体にオークの赤い顔料を塗り化粧することが許される。例外もあり、年齢前に、男の子であれば一人で獲物を仕留めたとき、女の子であれば初めて股から血を流したときなどは特別に許される。化粧する顔料の色も決められており、この場合は特別に黄色の顔料を使うことができた。そうでない場合は黄色の顔料を生涯使うことは許されない。

 若者たちはすでに様々な文様の化粧を顔や身体に施しているけれども、ピンズレはまだその年になっていなかったし、ひとりで獲物を捕らえたことはない。

 声を掛けた若者は腰につけた皮袋から礫を取り出すと、ピンズレに向かってぽうんと放り投げた。礫は、きょとんとしているピンズレの足元に落ちて転がった。

 それが呼び水となったようで、他の若者もならってピンズレに向かって礫を放り投げ始めた。 

 ピンズレは若者の言った意味がうまく飲み込めない上に、なぜ礫が自分に降ってくる事態になったのか訳が分からず、その場から逃げれば良いのに、ただ腕で礫を防ぐばかりだ。

 と、一つの礫がきれいな弧を描いて脳天に、こっと当たってしまった。

 あいたあっ!

 ピンズレが両手で頭を押さえると、今度はすっかり留守になった鼻の頭に礫がこつんと当たる。じんと鼻に痛みが走り、ピンズレは鼻を手で押さえてしゃがみこんでしまった。

 その様をみて、また笑い声が起きる。

 ピンズは今にも涙がこぼれ落ちそうになるのをこらえる表情で口をへの字に曲げ、下唇を突き出した。

 しかし目には涙は浮かんでいない。間近でみれば、怒りと諦めにも似た光が目に帯びているのがわかっただろう。


 ピンズレは、どうも不器用である。手先の不器用さだけでなく、やることなすこと生き方全般が不器用かつ間が悪い。

 実際手先は不器用で、石で叩いて石器の歯を整えようとすると自分の指を石で叩いてしまうし、うまく叩けたとしても力を入れ過ぎて、石器をぽっかりふたつに折ってしまう。そのうち慣れるだろうと周囲のものは見守っていたがいつまでたっても上達しない。

 仲間と槍の投げ比べをすると、ピンズレが投げた槍は彼の手から離れるのが名残惜しいらしく、一番手前に落ちる。彼より年下の子供の方が遠くに飛ばすことが出来た。

 駆けっこすれば、足をもつれさせてすっ転ぶ。仲間とじゃれて取っ組み合いをするといつもねじ伏せられて地面にせっぷんする羽目になる。

 見るに見かねて父親のバムが、石器の叩き方、槍の投げ方、その他生きてゆくのに必要術を教え込んでみるが飲み込みが悪い。なかなか上達しないし、うまくいっても頗る時間が掛かる。

 もちろんピンズレだって懸命だ。一心不乱に取り組むけれど、どうにもうまくいかない。持っている能力を邪魔する何かが体に宿っているかのようだ。

 そのたびピンズレは情けなくて悲しくなる。懸命な分だけ余計に悲しい。

 要はするにピンズレは、なによりこの時代生き抜くための力が弱いということになる。となると仲間からが低くみられ、小馬鹿にされ、からかい、嘲りの対象になってしまうということだ。

 そのたびピンズレは悲しくて情けなくて顔をくしゃくしゃにさせ、今にも泣き出しそうな表情になる。 それでも泣かない。下唇を突き出してじっと嵐が過ぎるのをひたすら待つ。

 やめてくれ、とも言わない。突っ掛かってもいかない。言っても相手はかえって喜んでさらにからかうだろうし、突っ掛かってくるピンズレを押し倒して満足するだけだ。

 下唇を突き出すのは、ピンズレのささやかな抵抗なのだ。

 そして嵐が過ぎ去ったあと、いつか見返してやると思っている。

 それでは何で見返す? 

 稚い頭でぼんやり考えても、いつもそこで止まって先に進まない。その繰り返しだ。そしてそのうちにけろりと忘れてしまう。

 けろりと忘れて脳天気でいられることはとても大切な能力に違いない。が、反面、覚えなければならないこと、大事なことまですっかり忘れてしまうのだから、ピンズレはぼんやりした子供なのである。

 それでもいやなこと、悲しい思いが胸に一杯になることがある。そんなときは、ピンズレはひとり、丘の上に座りこんで空を見上げ、雲が姿を変え湧き消えてゆく様を、ぽけっと眺める。

あるいは身を伏せ草の陰から“突っ掛かってくる奴”(オーロックス=原牛)の草を食む音に耳を澄ませ、鼻をひくつかせている様をこっそり眺める。

 あるときなど、いつまで経っても集落に戻ってこないので大騒ぎなったが、翌日けろりとして戻ってきた。どうしたかと聞かれれば、“天を支えるもの”(オオツノシカ)の群れの後を夢中になって追いかけていたと自慢げに話し、集落の人々を呆れさせた。

 どちらかと言えば、ピンズレはこうして動物を見ていたり、空を眺めていることの方が性に合っている。

 

 若者たちの笑い声が下火になると、一番山寄りに座り顔を顰めてピンズレの表情を盗み見ていた若者が立ち上がった。狩りを率いるドムだ。彼は引き締まった顔には黄色の顔料でジグザグ模様を描いている。

 さあ、もういいだろう。行くぞっ。

 と声を張り上げると、颯っと背を向けて斜面を登り始めた。

 ほい、ほい。

 さてさて。

 口々に言いながら他の者も立ち上がり、今一度小馬鹿にした視線や薄ら笑いをピンズレに投げるとドムの後を追い始めた。

 ピンズレはその場でまだ口をへの字にしたまま、彼らを睨んでいる。

 と、先ゆくドムがふっと立ち止まった。そして振り返るや、

 ピンズレッ!

 と叱りつけると、ピンズレはようやく渋々と足を動かした。やがて、こなくそ、こなくそと言わんばかりに大股で登り始めた。

 ドムはピンズレが登り始めたのを見届けると、誰にも気取られぬようにケッと吐き捨てた。

 まったく、まったく、厄介な奴だ。


 ドムはいったいピンズレのことが嫌いだ。

 彼はピンズレとはまったく対極的な人間で、常に賞賛とを浴びることで自らを輝かしていた。

 何をやらせてもそつなくこなすし、なにより、狩りついては彼の右にでるものはいない。“丸耳”(ホラアナライオン)のように獲物に忍びより、一撃で急所を刺し貫いて獲物を倒す。獲物が死んだことに気が付いていないのではないかと噂されるほど早業だ。外すこともあるがそんなときは槍を振るって獲物に恐れも知らず立ち向かう。あるときなど、ひとりではなかなか手の出せない“突っ掛かってくる奴”の集団と天のかがり火が昇る頃から沈むまで延々とやりあい、うち三頭を仕留めるという離れ業を演じたという。

 狩りは共同で行うことの方が多い。そんなときは彼の統率力がものをいう。他の狩人を巧みに右へ左へ操り、叱咤し、獲物たちを崖縁に追いたて、谷底に落としてゆく。

 この時代、狩りの能力が高いものの地位が高いのは当然である。集落の老長(おさ)、ポムも彼が次の老長として集落を率いてくれることを望んでいる。が、そのことが彼の鼻を高くさせていたのは否めない。

 弱いものは鼻で笑い、役に立たないものは見下し、従わないものは腕力で従わせることも厭わない。まともに狩りなどできないピンズレなぞ蔑視の対象でしかないのだが、ピンズレが無言で唇を突き出し耐えている様を見ながらにやにや笑っていても、なぜか心の底で得体のしれぬものを感じている。

 それが狩りではついぞ感じたことのない恐れと解ったとき、まさかっ、とドムは狼狽すると同時に、なぜあんなぼんやりした奴に、と自尊心をいたく傷つけられた。

 ピンズレを恐れているなど、仲間には話せるものではないし、また気取られてもいけない。そうして内心怒りの炎を立ち上らせ、恐れをひれ伏させようと益々ピンズレをいたぶるようになったが、恐れは泥のように心にこびりついて消えないばかりが、雪だるまのように大きくなってゆく。

 できればピンズレを狩りの仲間に加えたくなかった。が、ピンズレの父親パムに拝み倒されて渋々承諾したのだ。

 ピンズレめが・・・。

 斜面を登りながら、ドムは呪いの言葉を心の内で吐いている。


 いくつか丘を登り下りして、若者たちはある丘の上に立った。時折乾いた風が吹き上がってきて背の低い草を靡かせた。

 若者たちは息を入れながらも声を立てずに辺りを見回し獲物の姿を求めている。

 と、一番目端が利く小男のテレが何かを見つけドムの脇腹を肘で突いて指差した。丘の麓の地面が剥き出しになった窪みに黒いものが見えている。緑一色にそこだけ穴が開いているかのように見えるが、穴でないことにそれは盛り上がっており、四つの黒い棒のようなものも見えている。

 “突っ掛かってくる奴”に違いない。

 結構大物だ。しばらく様子を伺ったが横たわったままで動く気配はない。

 他の若者たちもドムとテレに様子に気が付き寄り固まって様子を伺う。

 テレが小首を傾げてドムを見た。ドムも怪訝な顔でテレを見返した。

 泥浴びをしている様にも見えたがそれにしても動きがない。寝ているという訳でもなさそうだ。

 やがてドムはひとり肯くと、下を見ながら鳥の羽ばたきに似た動きで手首を左右で振った。それを見た若者たちはドムを中心に左右に散った。

 ドムが左手で行くぞと合図する。

 ピンズレが荒い息でようやく丘の上へたどりついたとき、ドムたちは、はや中腹まで下っていた。息を整える間もなく、ピンズレはうんざり顔で今度は転がるように若者たちの後を追いかけてゆく。

 横たわっている“突っ掛かってくる奴”の手前まで来ると、みな槍を構え姿勢を低くして忍び足になった。

 うまい具合に風は弱い向かい風である。

 “突っ掛かってくる奴”は動かない。黒い毛並みが陽の光を浴びて鈍く光っている。

 ドムは左右に拡がった若者たちを人差し指で“突っ掛かってくる奴”を半円状に徐々に取り囲むよう合図する。

 毛並みがはっきり判るところまで近づくと、ドムは膝を突いて止まれの合図を送った。

 ドム以外のみなは片膝を突いた姿勢のまま、槍の柄を強く握り締めたり緩めることを繰り返し、唇をしきりに舐め額の汗を何度も拭ったりと、緊張も露わに様子を伺っている。

 風で草の葉が擦れる微かな音ばかりが耳につく。

 “突っ掛かってくる奴”は目を閉じてうっすらと口を開けていた。

 どうも妙である。

 ドムは背後に控えているテレの腰につけている皮袋を指差し、“突っ掛かってくる奴”へ礫を投げつけてみろと身振りで伝えた。    

 テレが強張った顔でひとつ肯き皮袋にそろりと手を伸ばしかけたそのときだ。

 くっしゅっ!

 一発のくさめが、静寂を破った。

 若者たちは心の臓が口から飛び出したかのような表情になり、一斉にくさめがした方を振り向いた。

 テレの後ろで、槍をついたピンズレがあいた腕で鼻をごしごしと擦っている。少し前にようやく追いついたのだ。

 今更ながらピンズレが狩りに参加していたことをドムたちは思い出したが、そんなことはどうでもいいとばかりに、今度は慌てて目を剥き“突っ掛かってくる奴”の方を見た。

 “突っ掛かってくる奴”は横たわったままだ。

 みな安堵して腰を抜かしてへたり込んだり、草の上に突っ伏した。

 ドムだけは違った。

 今や憤怒で顔を赤く膨らませ、おかしそうな顔をしているピンズレを今にも噛み殺しそうな目で睨みつけた。そしてひっくり返って目を白黒させているテレを跨いで、大股でピンズレへ近づいてゆく。


 ピンズレはぽつねんとひとり、膝を抱えてほんやり空を見上げていた。

 ドムたちの姿はない。

 傍らには“突っ掛かってくる奴”が四肢を突っ張らして横たわっている。

 ピンズレは草の上に転がりうつ伏せになった。まだ火照が残っている頬に草の冷たさが心地良い。

 ピンズレにしてみれば、追いついたときのドムたちの行動が不思議に思えた。遠目に見ても“突っ掛かってくる奴”はすでに天にいることが判ったから。

 なんだい、大げさだなあと笑いそうになり、慌てて口を押さえたとき、手に付いていた小さな枯れ草の破片を鼻から吸い込んでしまったのだ。うっと思ったときには、たまらずくさめが出ていた。

 みんなの目がまん丸くなっていて可笑しかったなあ。あんな顔、見たことないや。

 顔を草に埋めながらピンズレはほくそ笑んだ。頬が少し、痛んだ。

 あの後怒り心頭のドムから平手打ちを一発、喰らった。偶然にも頬に平手が打ち付けられる瞬間、平手と同じ方向へよろけたためいつもより頬に感じた衝撃は弱かったが、それでも草原を転がるほどだ。もうひとつ来ると、咄嗟に腕で顔を防いだが、どういうわけかそれだけで済んだ。そればかりか、ドムはいきり立って乱暴しようとしている他の若者を押しとどめた。そして、“うろちょろ”(ホラアナハイエナ)や”丸耳”(ホラアナライオン)に食い散らかせないよう見張っていろと、おっかない顔でピンズレに命じたのである。

 正直一寸いやな気がした。いやらしい牙を持った “うろちょろ”や、ときに人を襲う”丸耳”が怖かったからだ。が、苦手な狩りとドムたちから解放されることのうれしさが優った。 

 ピンズレは頬の痛みをこらえながら、一方で晴れ晴れとしたものを覚えながらコクリと肯いた。

 そのときドムが口元になんともいやな薄ら笑いを浮かばせることで、いきりたつ若者たちを心得させたことにピンズレは気が付かなかった。

 ピンズレが狩りの邪魔になるばかりか、うっかりすると自分たちの命も危険にさらされるから置いてゆくという判断に違いないが、穿った見方をすれば、あわよくば”丸耳”にでも喰われちまえっという乱暴な願いがあったのかもしれない。 

 そうしてドムたちは新たな獲物を探しに行ってしまった。

 それからだいぶ時が経っている。

 おもむろにピンズレは起き上がり、座りこんで毛皮についた“白い粒々”(シラミ)を潰し始めた。しばらくその仕事に熱中していたが、はっとして立ち上がり、大急ぎで辺りを見回した。

びょうびょうと風が吹き渡る草原に、動く影はない。

 胸を撫で下ろすと、今度は再び大の字になって寝転がりそのまま目を閉じた。瞼に天のかがり火の温かさを感じ、心が拡がる思いがした。

 しばらく温かさを堪能していたが、そのうち別に痒いわけでもないのに尻をもぞもぞさせて、目を見開いてしまった。

 ああ・・・。

 ピンズレは伸びをしながらあくびする。

 暇だ、退屈だなあ・・・。

 暇と感じることは心に余裕があるということになる。

 心に余裕を持つのは大切なことだ。ヒトの精神活動を活発にさせる。暇にまかせてふと思い浮かんだことが起点となり、新たな価値、例えば娯楽、有用な技術や文化が生まれることもあるのだ。

 ピンズレは上半身を起こしてみた。ふと横を見ると、手を伸ばして届くところに自分のくたびれた槍が放り捨ててあるのが目に止まった。なんとはなしに槍を引き寄せると、柄を手の平に乗せて槍を立たせてみる。槍はすぐにピンズレの方に倒れてきてしまった。意外と難しいなと思い、いまやピンズレは立ち上がり、どのくらい長く槍を手の平に立たせることができるかに熱心になった。

 あっちへふらふら、槍が倒れる。こっちへふらふらふら、おっと倒れる。

 腕を伸ばしたり、縮めたりバランスをとってみるけれど、なかなかどうして長く槍を立たせたままにするのは難しい。槍の石刃が曲がっているからなおさらだ。だったら石刃をまっすぐに直せば良いのだがそれはしない。難しい方がより楽しいに決まっている。

 槍ばかり見ているので足元の注意が疎かになっている。いやもっと不味いことに周囲への注意を怠っている。ある意味ドムがピンズレを置いて行ったことはまさに正しい判断といえるかもしれない。

 果して。

 丘の上に“うろちょろ”の群れが現れた。“突っ掛かってくる奴”の死臭を嗅ぎ取り、丘の上まで辿ってきたのだ。

 ピンズレは槍を手の平に乗せて酔ったように踊り、“うろちょろ”たちにまったく気が付いていない。

 ピンズレが幸運だったのは風上にいたことだ。

 丘の上で”うろちょろ”たちは鼻をひくつかせながら文字通りうろうろとしていた。吹き上げてくる風の中に、二本足の匂いを嗅ぎ取り動揺したのだ。

 二本足の強い匂いはひとつだけだが薄れかかったいくつかの匂いが嗅ぎ取れた。その匂いの中に“うろちょろ”たちをとりわけ困惑させる酷い匂いがあった。いく種類もの生き物の血と汗の匂いが折り重なり二本足の体臭とまざった悪臭である。

 匂いは記憶と結びつく。

 その匂いを放つ手荒な二本足に、長くて固いものに突かれて何頭もの仲間たちが倒れていることを反射的に思い出した。

 言わずと知れたドムの体臭である。

 やっかいだ、やっかいだ。

 さてさてさて、どうしたものか。

 天に鼻を向けてひくつかせ、時折座りこんでは下を覗き込み、首を振り互いを見たり、立ち上がってうろうろ回ったりと、“うろちょろ”たちは優柔不断の態となった。

 二本足の匂いの強さはなかなか変わらない。

 まだいやがる。どうする。どうする。

 ”うろちょろ”たちがじりじりしていると、不意に風向きが横風に変わった。

 ”うろちょろ”たちは俄に活気づいた。微かに新たな動物の死臭を嗅ぎ取ったのだ。

 ならば長居は無用。

 ”うろちょろ”の群れは躊躇なく新たな死臭の方向へ歩み去った。

 身に危険が迫っていたとは露知らず、ピンズレは脳天気に槍を手の平に乗せて遊んでいる。

 やはりと言うべきか。

 “突っ掛かってくる奴”の足に躓いて、あっという間もなく屍体の上に倒れ込んだ。

 ダー。

 ピンズレは起き上がって顔を顰めながら横たわっている“突っ掛かってくる奴”を見下ろした。まだ若いようで、毛並みが黒くつややかな光を放っている。右前脚の腿の一部と喉の一部が食い千切られていた。体毛がところどころ剥げ大小の引っ掻き傷ができている。どうやら”丸耳”に襲われたようだ。自慢の角を振り立て猛然と戦ったのだろう、片方の角は先端が折れ、もう片方の先端には白っぽい体毛がついた血まみれの皮膚の一片が残っている。

 ピンズレは“突っ掛かってくる奴”の解体を何度も手伝っている。そのときは食べ物として接していた。間近でじっくりと見るとなにかが違うことに気が付いた。そうして腹回り、後ろ脚から尻、背中から首へと続く曲線を目で追っていくうちに、これまでに感じたことのないものが湧いきてさわさわと波立つのをピンズレは覚えた。

 どうしてだろう。ずっと見ていると、なぜだかうっとりしてくる・・・。

 なぜそのような行動に出たかはピンズレ自身にもよくわからない。

 姿の見えないものに命じられたかのように、槍を手にとり、そして槍の柄で“突っ掛かってくる奴”の輪郭をがりがりと音を立てながらなぞり始めた。

 夢中である。何かに取り憑かれたかのように、ひたすら輪郭を地面に刻みつける。地面を引っ掻く音すら耳の聞こえていない。誰かに呼びかけられたとしてもまったく気が付かなかったろう。

 ひと周りなぞり終え、ピンズレは小さく息をつくと“突っ掛かってくる奴”を見下ろした。

 フー!

 ふわっと天に浮かび上がるような気持ちがわき上がり、毛の先から爪先まで満ちていく。

 なんだかよくわからないけど、なんだろこれ、とにかく気持ちがいいや。

 ピンズレはなぜか走り出したい気持ちになった。

 いまなら天まで走っていけるかもしれないな。

 ピンズレは上機嫌で思った。

 ふと顔を上げると、向こうに小さな黒い影を捉えた。はっとしてよっく見ると、こちらに近づいてくる。ドムたちが戻ってきたのだ。

 ダー・・・。

 良い気分はたちまち消え失せ、泥の中に突き落とされた気分になった。


 翌日、ピンズレは皮袋をくくりつけた槍を肩に担いで、丘をひとりのんびりと登っていていた。向かう先は“突っ掛かってくる奴”の倒れていた場所だ。

 あの後ピンズレはドムに加勢を呼んでくるよう命じられ集落まで走らされた。すでに天のかがり火は地平線へ向かって足を速めていた。解体した肉と毛皮、骨の大部分は夕暮れ近くに集落へ持ち込まれたが、細かな骨は残された。骨の髄はおいしい食料になるし、骨は薪にもなる、手を加えて針にもなれば、飾り物にもなる。捨てるところはない。

 要はするにピンズレは後始末に行かされた訳だ。もっともだいぶ間が経っているから骨が動物たちに持ち去られている可能性が大きい。

 いつもならドムから乱暴な口ぶりで命を下されるとぶすっとするけれども、今日は意にも介せず目を輝かせてドムの命に従った。ドムはピンズレの顔色に合点がいかったらしく、首を傾げた。

 心は晴れやかだった。

 怖いドムとその取り巻き連中が居ない分気楽である。

 それに。

 昨日の不思議な感覚の記憶は頭の片隅に埋火として残っている。それがピンズレの心を沸き立たせていた。

 やがて、丘の上に辿り着いた。ピンズレは用心深く辺りを見回した。

 うまい具合に“うろちょろ”や“丸耳”の姿は見えない。

 ピンズレは、わっと叫ぶと、一気に駆け下りてゆく。

 息を切らして解体場へ着くと、ピンズレはあっと息を飲んだ。

 奇跡的に骨がまだ残っていたからではない。

 そこに“突っ掛かってくる奴”がいたのだ。

 もちろんそれはピンズレが槍の柄で描いた輪郭だ。解体作業で荒らされ線がところどころ線が薄くなって消えてしまった箇所もあるし、頭の箇所は少しいびつだけれども、まごう事ない“突っ掛かってくる奴”の姿がそこにあった。

 風が草原を吹き渡りピンズレの頬を撫でていった。

 不意に、なんとも言えない気持ちが衝き上げピンズレは身震いした。

 すごい! すごい!

 今や、槍の柄につけた皮袋は打ち捨てられた。

 ピンズレは再び槍の柄で輪郭を夢中でなぞり始めた。

 しなやかな腹周り、丸味を帯びた尻、ごつい背中。黒光りする毛・・・。

 “突っ掛かってくる奴”の姿はまるで生きているかのように鮮明になってゆく。

 いや、生きている。

 倒れていた“突っ掛かってくる奴”は今や起き上がり、静かに草を食んでいる。ピンズレの視線に気づいたか、ふと首をもたげると、ピンズレの方に顔を向けた。

 ピンズレの小さな心の臓は高鳴った。

 “突っ掛かってくる奴”はつぶらな瞳でひとしきりじっと見つめた。

 穏やかな瞳だ。

 ”突っかかってくる奴“は何事もなかったように再び草を食み始めた。

 ピンズレは天を仰いだ。空の蒼さが目に沁みこんでくるようだ。

 こいつは面白いや!

 ピンズレは天のかがり火と仲良くなれたような気がして嬉しかった。

 それからというものの、ピンズレはこっそりと窪地へ足を向け、“突っ掛かってくる奴”の輪郭を描くことを繰り返した。描けば描くほど“突っ掛かってくる奴”は生きているように思えてくる。ほんの少し頭の輪郭を変えてみると、“突っ掛かってくる奴”はまた別の表情になってくる。それが心を躍らせ、なんとも言えず楽しくて楽しくて仕方がない。

 大地に刻み込んだ“突っ掛かってくる奴”を自分の中にも刻みつけたい。

 もっと! もっと!

 もっと、ずっと、うまく描きたい。

 もっとたくさん描きたい。

 自由自在に描きたい。

 他のものも描きたい。

 そんな想いが身体中に満ち満ちている。

 このことは、父親のパムにも母親のミレはもちろん、誰にも話してはいない。

うっかり話したら最後、二人とも大いに心配するだろう。他人にはなおさら秘密にしておかなければならない。馬鹿にするか、からかわれるか、のけ者扱いされるかいずれかに決まっているだろうから。


参考文献

「世界遺産ラスコー展」

「ヒトはなぜ絵を描くのか」中原祐介編著 フイルムアート社

「気候の文化史」ヴォルフガング・ベーリンガー 丸善プラネット

「気候文明史~世界を変えた8万年の攻防」 田家康 日本経済新聞社

「人類20万年遙かなる旅路」 アリス・ロバート 文春文庫


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ