《海馬の女王》
ある日、海馬のヌゥが船潰しをして遊んでいると、先程まで眩しいくらいであった空が真っ白く覆われた。
「嫌だね、雨でも降るのかね」
ヌゥは唯一の楽しみを邪魔する者に顔を顰めた。雨が大嫌いなのだ。ついで言えば、空すらも大嫌いであった。己の色を真似する空へ幼い頃は何度も波をかけてやろうとした。その度に弟のアスに馬鹿にされたのだが、八つ当たりで世界のそこらかしこに数多あった彼の口先を殆ど呑み込んでやった。今では下僕と日がな一日喋り通していると風の噂で聞くが――
見渡す限りを覆い尽くす雲を見ると、それを思い出す。あの空の下で生きているのかという悔しさ、こびり付いたアスの笑い声がヌゥをいきり立たせ、ついつい後ろ足で海面を蹴らせるのだ。
「私もまだまだだな……」
ヌゥはそんな己が嫌で駆け出した。
目指すはうんと寒い北の海。そこには何故か雲がやって来ず、生意気な空の息子が居座るだけだ。……いや、一度だけ、そいつがやって来たときに雲は空を覆ったが、やはり何か意味があったのだ――そう考えて、ヌゥは途端に楽しくなって来た。あの息子にびゅーっと吹かれて凍るのもいいが、それ以上に面白そうな予感を感じて脚を一層動かした。本当ならば、海に潜れば一瞬で辿り着くのだけれど、どちらが速いか試したくなった。
「おい!」と氷の檻へ先に声を掛けたのはヌゥだった。漣で揺れるたてがみを存分に光で輝かせ、隠れた氷の檻をひっくり返した。
すると、透明な檻の壁に額と両手をついた空の息子が怒鳴った。
「何をする!何人も私に触れることはならんのだ!」
息子は、ヌゥへ向けて息を吐いた。けれども、ヌゥの素早さには敵うまい。怒りはさっと避けられて、虚しく海底の岩に刺さった。
ヌゥはそれを横目にふんと潮を噴くと、荒波を立てて言った。
「嫌だね、私の腹ん中に勝手に居座ったくせして!よくそんな態度をとれる!いいかい?私が引っくり返さなくたって、お前はきっと終わりさぁ、だってお前の母親がここへ血相変えて飛んでくるもの。大方、あの事がばれちまったのさ」
ヌゥが言い終えると、息子は青い顔を更に青くさせて「何故、貴女様が知っておいでなのですか?」と問うた。
ヌゥは得意げに答えた。
「そりゃあ、簡単さ。口先ばっかりの弟ならいざ知らず、私は全てを持っているんだ。たとえお前の母親が空の奴らに隠し事をしたって、世界の半分以上手に入れた私には及ばない」
ヌゥはざぶん、ざぶんっと波を叩きつけては檻を揺らした。海底深くに沈めることなどお手のものだ。それに、本当に身を隠したかったのであれば、己に遊ばれるようなところにいるわけがない――「それじゃあ、ただの世間知らずさ。ここへ来る途中で母親の腹へ戻っただろう、何故だ!」と大嫌いな空の一族の企みを白状させようと檻をもっともっと揺らし、尖った先を光でチカチカ点滅させた。
これには堪らず息子は泣き叫んだ。
「止めてくれ、止めてくれ、ここにいるのが知られてしまう!ただ兄さん達を死なせたくないだけなんだ!私は、どうなっても構わなから――」
ヌゥは凍っていく海面にニヤリと笑みをこぼした。
「なら、この海馬の女王の私が何とかしてやろう。ちょうどお前の母親も来たところだ。なあに…虹の衣を使って楽しいことをしようじゃないか」
息子は母親の胸から垂れた罪の輝きに目を見張り、後ろ足で波を蹴るヌゥへ聞いた。
「一体、何をするのです?」
「小癪な弟に会いに行くのさ。面白くはないが、それが私達の常と言うものだ!」
ヌゥは高く嘶くと、虹の衣を咥えて走り出した。背後で雲の叫びと酷い熱さを身体へ受けても、ヌゥは振り返ることはなかった。