雪の妖精とウィームの主人
エーダリアはその日、遅い新年のお祝いとして、様々な料理を持ってウィームにある飛び地の森の中に住む雪のシーを訪ねていた。
今回は特別に塩の魔物が魔術の道を整えてくれるそうで、二時間程遅れてヒルドもこちらに来られるのだそうだ。
そんなところでも得られる魔術の恩恵を思い、エーダリアは珍しく気持ちが浮き立っていた。
思うように会える相手ではないからこそ、そうして三人で会えるのは何と有難いことだろう。
「やあ、よく来たな。待ち侘びたぞ。……いや、料理を待ち侘びている者達も多いが、俺はそなたの元気な顔を見られるのが一番だ」
そう言って微笑んでくれる美しい雪のシーは、かつてこのウィームに最も恩恵をもたらした一族の最後の一人である。
少し前から新しい雪の妖精達が生まれているのは知っているが、まだシーを輩出する程に年輪を重ねてはいないようだ。
だからやはり、エーダリアにとってはこのディートリンデが、唯一の雪のシーだった。
「ディートリンデ、新年の挨拶も遅れてしまってすまない。ヒルドから連絡はしたと思うのだが……」
「ああ。勿論貰っているさ。そなたとも話せたしな。だがやはり、俺の大事なウィームの子がこうして顔を見せてくれなくては」
その言葉に胸が熱くなり、そしてここで最後のシーとして暮らしている彼の孤独を思うと胸が苦しくなった。
勿論彼は自分で納得してここに入ったのだし、決して一人ではないことも知っている。
けれどもそう理解しているのと、納得して心が揺らがないのとはまた別の問題なのだ。
「…………私も、会いたかった」
そう言えば何だか気恥ずかしく、おかしな片言の言葉になってしまう。
一瞬きょとんとしたディートリンデだったが、頬が熱くなって視線を彷徨わせたエーダリアに、盛大に大笑いしてくれた。
「………笑わないでくれ。どう言うべきか悩んだのだが、………その、ネアがだな、そういう言葉は出来るだけ簡単でありのままに伝えるのが一番強いのだと、そう言うからな」
「そうかそうか、あのウィームの愛し子がそう言ったのか。であれば俺は、ネアに感謝しなければいけないな。妖精は大事に思う者にそう言われるのが何より好きなのだ」
「…………そうか」
ふっと相好を崩して心から嬉しそうに言われ、また胸が温かくなる。
かなり気恥ずかしいものではあったが、先程の言葉を選んで良かったということは、そんなディートリンデの顔を見ればよく分る。
「今年の料理もこんなにたくさんあるのか。先に出してしまってもいいのか?森の生き物達が、ヒルドが来る前に食べ尽くしてしまうぞ」
「ヒルドは、ネアから託された菓子などを持って来てくれるらしい。酒に合うような料理も少し持ってくると話していたから、少しだけ残しておけばいいだろう」
「それなら、……………おや、俺の仲間達はもう我慢が出来ないようだ。はは、そうかそうか。………お前達はもう、そんな顔なのか」
雪原のあちこちに広がる森からは、様々な生き物達が姿を現していた。
その中にはエーダリアがもう外の世界では絶滅してしまったと聞き及んでいる妖精や、見たこともない精霊などもたくさんいる。
そんな生き物達の殆どが、ディートリンデの言うように美味しそうな匂いに口元が緩み目を輝かせている。
魔術を振るってこの森にある陽光を織り上げれば、淡い金色の水晶のような材質の丸テーブルが幾つも雪の森の中に並んだ。
革のトランクの形をした料理の運搬などに使う為の特殊な魔術金庫を開き、全てのテーブルに湯気の立つウィームの名店の料理を出してゆく。
あっという間に静かだった森の中は、ありとあらゆる生き物達の嬉しそうな声で満たされた。
そうして、総べる生き物達が嬉しそうにはしゃぐ様子を、ディートリンデは愛情深い眼差しで眺めている。
「ああ、嬉しそうだな。なんと豊かで、なんと穏やかなことか。毎年素晴らしい料理を有難うな、エーダリア」
そうして、この飛び地の森の中でも新年のお祝いが始まった。
あちこちのテーブルで弾んだり歓声をあげたりする生き物達の大騒ぎが続き、エーダリアとディートリンデは一つのテーブルについてそんな森の様子を眺めていた。
「あの店でも、今年はこんなものが出たのか。うむ、これは美味いな。……ほお、これは中にマスタードクリームがはいっているのだな。………エーダリア!これは、三層になってるぞ?」
その清廉で美麗な容姿から想像がつかないくらい、ディートリンデは食べ物に目がない。
ネアの情報によれば甘い菓子にもかなりの拘りがあるようで、尋ねてみたところチョコレートか、アーモンドの香りのする焼き菓子が好きなのだそうだ。
それについては後からヒルドが持ち込んでくれるので、きっと喜んでくれるだろう。
カチャカチャと銀器が動く音に、グラスに注がれる酒の音。
二人の話や小さな笑い声に、他の生き物達の声が混ざる。
様々なことを話し、ディートリンデの話を聞き、一息ついたところでのことだ。
さあっと森を抜けていった気持ちのいい風に目を細めて長い髪を揺らしたディートリンデを見ていると、眉を持ち上げてこちらを振り返る。
「エーダリア、俺に何か言いたいことがあるな?」
「……………ディートリンデには何も隠せないな」
「それはそうだ。俺はそなたとは契約を交わせる程のものは残していないが、それでも、この上なく大事な子供のお前の庇護者ではあるつもりなのだからな」
その言葉に、エーダリアは思わず返す言葉を失ってしまった。
エーダリアが呆然としていると、声を上げて笑ったディートリンデが、思ったことをそのまま言葉にしてみたのだと悪戯っぽく教えてくれる。
「…………ああ。お前は私の大事な庇護者の一人だ」
初めて出会った頃、エーダリアは敬意を込めてディートリンデの名前を呼んでいたが、その時に彼に言われたことがある。
それは領主としてウィームを治めるのであれば、それ相応に振舞うこと。
その資格がある者だと皆が承知しているので、治めるべき者には良き王のように振る舞えばいいと言われて、まだ新任の領主であったエーダリアは驚いた。
その代わり、ウィームを自分の治める国として愛し、責任を負うようにとも言われた。
力を借りるべき隣人とは、ウィームの主人として話をすること。
ウィームに住む人外者達が求めているのは、そうしてこの土地を治め責任を負う者なのだと言われ、エーダリアは覚悟を新たにして頷いた。
だから、俺には敬称などつけるなと言われ、どれだけ誇らしかっただろう。
この妖精に認められるだけで、どんなことでも出来そうな気がした。
「はは。そうだな、そう思っていてくれ。今の私の、日常のささやかなものとは違う特別な喜びの殆どは、そなたやヒルド達が齎してくれるのだ。大事なものがあるという生き方は、この上なく豊かなことだ」
「…………ディートリンデ、………その、そう言われてしまうと、いささか話難いところもある話なのだ。………上手く言えないのだが、私がそなたに話そうとしているのは、過去のウィームの話なのだ」
おずおずと切り出したエーダリアに、ディートリンデは目を瞠る。
「過去のウィーム………。何かが、………そうか、先程話していた、ネアが落ちたという悪夢はまさか、ウィームの過去に纏わるものか?」
「……………ああ。ネアが落ちたのは、統一戦争最後の夜のリーエンベルクだ」
噛み殺したような、深く乱れた吐息が落ちた。
ディートリンデの淡い水色の瞳が水面のように揺らぎ、片手で目元を覆うとまた深い息を吐いた。
「…………ああ、そうではない。私のもう一人の大事な子供が、私が考えうる中でも最も酷い思いをしたと聞いたのだ。………どれだけ恐ろしく悲しかったのかと思ってな」
ディートリンデが項垂れてしまったので、慌ててすり寄ってきた翼のある獅子を撫でてやり、彼はひどく悲しげだった。
こんな顔をさせてしまうなら話さなくても良かったと思いかけ、けれどももうなかったことには出来ないのだ。
「…………そこでネアは、その中にいたお前とお前の友人に出会い、力を貸して貰ったと話していた」
こちらを見ているディートリンデの瞳がまた揺れた。
「…………それは、妖精であっただろうか」
「ああ、灯台の妖精で、名をエドモンと言うのだそうだ。リーエンベルクやウィームにその名前の残る、騎士団長の伴侶であった者なのだろう」
「…………そうか。………そうだな、かつて、私にとっての友と言えば、やはり彼であった。今の私にはそなたやヒルドがいるし、アーヘムも良い友人になった。だが、困ったことに死者というものは、古き良き思い出が何とも色鮮やかでな。…………エドモンは、死しても尚、私の特別な友人なのだ」
少しだけ微笑んでそう言うと、ディートリンデは手を伸ばしてエーダリアの頭を撫でてくれた。
今も昔も、こうしてエーダリアを甘やかそうとするのは彼だけだ。
共にウィームを担うからこそヒルドやダリルには出来ないことを、この雪の妖精はしてくれる。
だからエーダリアは、気を引き締めてネアから聞いた灯台の妖精のことを語った。
きちんと持ち帰り伝えてくれた台詞を損なわないよう、丁寧に丁寧に。
無言で頷きながらその話を聞いてくれたディートリンデは、エーダリアの話が終わると深く頷き、目尻の涙を拭う。
そうして、懸念していたように過去への思いに眼差しを曇らせるのではなく、晴れ晴れと笑った。
「ディートリンデ…………」
「エドモンはもうこの世にはいないというのに、また新たに、生きている友人の話を聞けたのだ。これほどに嬉しいことはない。…………誇らしいことだな。彼は、ネアまで救ってくれたのか。そしてネアは、悪夢の中の友人と俺に救いを齎してくれたのだな」
そう微笑んだディートリンデの姿に、エーダリアは安堵と悦びを噛み締めて小さく頷く。
そうして、大切にここまで持ってきた宝石箱を金庫魔術の中から取り出すと、その中にしまってあった赤子用のショールをそっと広げてみせた。
「これに見覚えがないだろうか。…………ネアが、悪夢の中から拾ってきてくれたものだ。私の、母のものなのだそうだ」
するとそのショールを見た雪のシーは、瞳を大きく瞠ってから一度閉じ、深く深く息を吐いた。
羽がざあっと細やかに光り、そうしてその光が失われた後、ばさりと振るう。
「………………俺の妹のものだ。妹は俺が契約の妖精になることを喜んでいてな。あの子が生まれるとすぐに、そのショールを編んでくれた。死の唱歌で紡いであるもので、それがある限りあの子供は自分を傷付ける者達を退けることが出来た筈だ。…………だが、ヴェルリアの者達はどこかにそれを捨ててしまったらしいと、ヴェルリアに潜伏していた系譜の妖精に教えて貰った。………俺がそれを見るのは、…………一体どれぐらいぶりだろう」
震える指先がエーダリアの差し出したショールに触れ、そして淡く透明な微笑みが零れた。
涙を浮かべた瞳を揺らしているディートリンデを見て、エーダリアはこのショールをネアが無理矢理持ち帰ってきてくれたことに心から感謝する。
ヒルドのかけがえのなさや、代理妖精としてのダリルの存在感や頼もしさとはまた違う。
この雪のシーもまた、エーダリアにとってはこの上なく大切な存在であった。
それは、まるで失われていた家族を見付けたような慕わしさなのだ。
「ネアが、ディノに頼んで持ち帰ってくれたのだ。本来は悪夢の中のものを持ち帰ることなど出来ない。そのショールに編み込まれていた魔術は剥がれてしまったそうだが、私はそれでも嬉しかった」
「……………ああ、俺もだ。………ここが見えるか?少しだけ編み目が狭くなっているだろう。妹がそなたの祖母と話をしており、ついついきつく編み過ぎてしまったとこぼしていた。だが、それはとても素晴らしい時間だったので、その時間の喜びを残す為に、あえてそのままにしたのだそうだ」
「……………私の、祖母と……………」
そこはきっとあのリーエンベルクの中だったのだろう。
まだ多くの雪の妖精達がいた時代、雪のシーは十五人おり、美しい者達ばかりだったと言う。
その殆どがウィームの王族や王家の血を引く誰かと契約を交わしており、ディートリンデだけは誰とも契約せずにいた。
それは、かつてディートリンデが若かった頃に、その当時のウィームの王との間に生じた不和によるものが影響しており、彼は随分と長く誰とも結ばないシーだったのだ。
「妹は、そなたの祖母と契約をしていた。史実に残る最後のウィーム王の名前を持つその子供のことを、まるで自分の姉妹のように溺愛していたのだ」
「…………祖母は、女性としての名前を公には使えずにいたと伺っているが、……その」
「………そうだな、そろそろ、そなたにもその話をしよう」
ウィームの残された数少ない王家の書物を読むと、いつもそこにはどこか奇妙で回りくどい表記がある。
汝その名を語るべからずと記されたその黒く塗りつぶされた下に、本当は一人の王女の名前が記されていたのだと教えてくれたのはダリルだ。
統一戦争時には、アクス商会と手を結び中立の立場を取って図書館を閉じたダリルだが、そうして守られた書物の中には、統一戦争から手を引くという体裁で託された貴重な書が何冊もあった。
あの書架妖精もまた、ディートリンデとは違う立場で、守るべきものを残す為に、身を引かざるを得なかった一人である。
(名前を語ることが許されない、私の祖母…………)
エーダリアにとっての祖父母にあたる世代の時、その代のウィーム王家には三人の子供がいた。
王子が二人で王女が一人。
けれども彼等は、とある隣国の陰謀に巻き込まれた叔父の手で、殺されてしまったのだそうだ。
手を下した叔父は、当時のウィーム王とは政策上での意見の相違による確執があったものの、決して望んで甥や姪を殺そうとした訳ではない。
隣国の王弟の策に落ち、よからぬ呪いを受けて正気を失くしてしまったのだそうだ。
(だが、勿論それは公にはされていない。そのヴェルリアの王弟がやがて、自分の兄を殺して王に成り代わり、統一戦争を引き起こしてウィームを制圧したのだということも…………)
「名前を呼んではいけないそなたの祖母は、………そうだな代わりに、リリィと呼ぼうか。私の妹はそなたの祖母をそう呼んでいたのだ。………リリィには二人の兄がいた。けれどもその子供達は、リリィにとっては叔父にあたる人物に、母親諸共暗殺されてしまったのだ。リリィも呪いを受けたが、そなたにとって曾祖父にあたるエーヴァルトが、自分が代わりに呪いを引き受けて守った。彼は二十年もの間その呪いで目を覚まさずにいたが、その間はリリィが兄の身代わりとなって、よく凌いだ」
「生き残ったのは、王子であったということにしたのだな?」
そのような策を講じるのは、決して王家の中では珍しいことではない。
跡継ぎの者が失われた場合、そうしなければ守れないものがどれだけ大きいことか。
「ああ。当時のウィームでは、先代の王と王妃、それに王子が一人と王女が亡くなったということになっていた。まだ年若い王子が一人残されたとなると隣国も黙っていないと思うだろうが、当時のヴェルリアの国王は、リリィの父親の親友であったのだ。彼の友人であった火竜の王もまた、エーヴァルトの友人だった。だから、リリィが実は王女であることは公然の秘密として、隣国の彼等の手でも守られていたのだ」
「その時代は、宰相もかなりの切れ者であったと記されていたが………」
「ああ、ヒルドに似ていると言えば分りやすいか。優秀な男で、彼が契約をしていた魔物も優秀だったよ。高位の者ではなかったが、…………そうだな、こちらは女性で、どこかダリルに似ていたな」
そう呟いたディートリンデに、エーダリアは小さく微笑んだ。
ヒルドとダリルの二人であれば、どれだけ優秀だったことだろう。
「リリィの名前を封じたのは、エーヴァルトだ。彼は王だったが優秀な魔術師でもあってな。………娘の名前を永劫に封じる代わりに、身代わりの魔術を使ったことを周囲に知られないようにしたのだ。その代りにその魔術を動かす場に多くの信頼出来る者達を立ち会わせ、彼等にも秘密を共有した。王妃と息子たちの死を看取り、自分の弟の懺悔を聞きその死を看取り、生き残った娘を救うために名前封じの身代わり魔術を展開し、自分がその死の呪いを引き受けた。………そなたの曾祖父は、偉大な王だったのだ」
ディートリンデの声はとても静かだ。
そんなウィーム最後の王の末路を知っているからか、その時代に失われた自分の大切な者達のことを思うからか。
この隔離地の森は静かな雪の中にあり、静謐な古き良きウィームの森はどこまでも美しい。
この白く輝く森を、祖母にあたるリリィや、曾祖父にあたるエーヴァルトも見たのだろうか。
「…………だが、曾祖父は生き延びたのだろう?」
「彼がその身に引き受けた呪いを解いたのは、彼の友人であった魔物だとも、かつてこのウィームを守護していた統括の魔物だとも、或いは眠る彼に心を奪われた雪の精霊だとも言われている。………ともかく彼は目を覚まし、父親が不在の間に娘が一人で背負いきった重責をすぐさま引き取った。その夜に、どれだけリリィが泣いただろう。あの娘が声を上げて泣いたのは、兄達や母親を亡くした日以来だったのではないだろうか」
(…………やっと危機を脱したと、誰もがそう思ったことだろう)
そして確かにその後五十年程度は、ウィームにとっては穏やかな時代が続いた。
自身の息子のふりをした前王が王位に纏わるものを全て引き継ぎ、彼は、娘や孫達と共に愛する祖国を治めていた。
ヴェルリアの王であった友人や火竜の王とも、秘密裏に再会を喜んでいたようだ。
それを教えてくれたのはドリーで、エーダリアの曾祖父の友人であった当時の火竜の王は、ドリーの兄であったらしい。
それは、エーヴァルトの弟を罠にかけ、ウィームの王妃と王子達の死の要因を作ったヴェルリアの王弟が、自身の兄を殺して王座を手に入れてから、四国の統一を宣言するまでの短い時間。
(恐らく、ウィーム王家のその血族は誰一人として残さないという決断をしたのは、かつてたった一人生き残った王子を、その血族や彼等の契約の人外者達が支えきったのをその目で見たからだ。脅威として熟知していたからこそ、滅ぼさねばならなかった………)
当時のウィームの重臣には、王家の血を引く者が多かったという。
高い魔術可動域を誇る王家の血を引く者が有能であったということもあるのだろうが、逆に言えば、どんな婚姻であれ許す寛大な国風があり、やはり近しい者達と結ばれることが多いのか、臣下に嫁いだ姫や、臣下を娶って継承権を放棄する王子達が多かったからだ。
その結果代々に渡り、王家に仕える者達に王族の血が受け継がれるようになった。
そしてそんな王宮の結束力の高さを過去の事件で知った敵国の王は、その血族ごと葬り去らねばウィームは落ちないと考えたのだろう。
もし、そこまでの徹底した血族の粛清が行われなければ、この広いウィームのどこかにエーダリアの遠い親族がいたかもしれないのだ。
そう思うと胸が痛まないこともなかったが、代わりに今、エーダリアは血の繋がりのまるでない、不思議な家族のようなものに囲まれている。
「…………ディートリンデ、こうして初めて言葉にして私の一族のことを語ってくれたのは、………私がもう、一人ではなくなったからだろうか」
「そうだな。俺は今迄、そなたにウィーム王家のことは語れど、そなたに近しい者達のことをここまで話したことはなかったな。そなたも、必要以上に私にその頃の事を尋ねはしなかった」
「…………思い出したくないのだろうかと、考えていたのだ」
「はは、優しい子だ。………そなたの言うように、今のこの場所に心の住処を決めない限り、過去は甘く悲しく魅力的なものだ。我らとは違い、人の子の一生は短い。その幼さで心を過去に曇らせるのは酷なことだろう。…………だが、もう大丈夫だと、そのショールを取り出してみせた時の表情を見て、俺にも分った」
ディートリンデに微笑んでそう言われ、エーダリアは頷いた。
勿論過去を振り返れば軋む心もあるが、妙に気恥ずかしい気分でもある。
膝の上には毛玉のような生き物が這い上がり、エーダリアの皿にある料理をじっと見つめている。
その温もりに、ノアベルトが狐の時に膝に乗るあたたかさを思った。
魔術的な縁が生まれてしまうので、エーダリアは、その毛玉のような生き物にテーブルの上の籠を手に取り見せてやる。
するとその生き物は、大喜びでその中から小さな一口パイを両手で抱えると、ものすごい速さで近くにある木の上に駆け登っていった。
「あと、もう一つ今だから言うべきなのだろうことがある。…………冬告げの舞踏会でネアと彼が一緒に居るのを見て、やっとそなたに言えるのだろうかと考えたのだ」
「ディートリンデ?」
「そなたの曾祖父にあたる、エーヴァルトとアルテアは親しくしていた。あの魔物にはもしかしたらそこまで深入りしていた自覚はないのか、或いはそれすらも興味本位の一環であった可能性もあるが、多い時には月に三回くらいは飲みに出かけていたのではないか?」
「……………アルテアが、………?」
その言葉に驚き、そして思い出したのはネアの何気ない一言だ。
いつだったかネアが、アルテアに気に入られているのではないかと言ってきたことがあったのだ。
その時は、それはネアを気に入っているからだろうと考えて苦笑するにとどめていたが、もしそれが、かつて気に入っていた人間の最後の血族でもあるからだとすれば。
(……………そうして残り、繋がるものがあるのだとすれば)
そうするとなぜか、今更ではあるが、やはり自分はここに暮らしたウィームの王族達の末裔であるのだという感慨が胸に沁みいる。
魔物は気紛れで、特にあの魔物は、ネア以外の誰かにそこまで心を砕きはしないだろうと思っていた。
だがもし、この身に残る何かを少しでも彼が汲み上げるのであれば、それはあの魔物がいかにも魔物らしいが故にどれだけこの心を助けるか。
(もしかしたらそれは、私の身に流れる血など何の関係もないことなのかもしれないが……)
それでも、そんな些細なことがなぜか、エーダリアには大きな承認のように思えたのだ。
「…………私は、かつて一つの国家であった頃のウィームを知らないのだ」
「そうだな。そなたはその頃のこの土地を知らない」
「だが、母でさえも知らずに焦がれ続けたこの土地を、いつかこの血の起源のある土地に戻ると願ったこのウィームを、私は何よりも愛しているのだろう。………だからこそ、この体に流れるヴェルリア王家の血を憎んだこともあった」
その告白をする時、エーダリアは自分がもっと冷静ではいられないのだろうと考えていた。
けれども言葉は静かに穏やかに滑り落ち、エーダリアはそんな自分へと進み歩めたことに安堵した。
「だが、…………幸いにも、私は今の父上を、ヴェルリアの王族であるということ以外の部分で、憎いと思ったことはない。それに、…………兄上のことも、………その、感謝している」
「そう言う場合は、兄上のことは割と好きだと言っておくのがいいだろう」
「…………す、好きなのだろう。…………そして、私をウィームのものとして認識し、何かを齎してくれる者達が居る限り、私は自身をウィームの人間として誇れるのだと思う」
上手くまとめられないままに思いの丈をそう言葉にすれば、ディートリンデがゆったりと微笑んだ。
大きな雪を纏う木の下で、どこまでも続く雪原を背景にして六枚羽を広げた雪の妖精は、この上なく美しく、そしてウィームそのものだという感じがして目を奪われる。
そんな妖精の羽が淡く輝いていることから、エーダリアはこの雪のシーが喜んでいるのだと分って嬉しくなった。
「そうか、そうか。そなたが幸福であれば、平安であり、愉快であれば、俺はこの上なく幸福だ」
「…………ディートリンデ……………」
「あの悲しい出来事の先に、このような安寧が生まれて何よりだ。そうそう、実はこの前、冬告げの舞踏会でネアからこれを貰ってな」
「…………これは」
差し出されたそれは、ネアがよく使っている特殊な魔術通信のカードであった。
早々手を出せる値段でもないのだが、ネアはなぜか、それが容易く購入出来るような獲物をよく狩ってくる。
「……………もう、手持ちのものはなかった筈なのだが」
「冬告げの舞踏会に俺がいると聞いて、用意して持ってきたのだと話していた。もし、俺が望むのであれば、これをそなたかヒルドかと分け合うようにと言ってな」
「………………まったく、出来過ぎた部下だな。…………いや、新しい家族のようなものだ」
「ああ、良い家族を得たな、エーダリア。これをお前が持っていてくれ。もう、そなたにこれを預けても大丈夫だろう」
その言葉にエーダリアは、自分の心が安定し揺るがなくなるまで、ディートリンデが一定の距離を保って待っていてくれたのだと分かった。
確かに、魔術通信などは不安定ながら通るのだから、もっと密に連絡を取れる手段もあった筈なのだ。
けれども彼は、自身とこの森を過去の一欠片として距離を置いていてくれた。
それは多分、エーダリアが過去に足を取られて動けなくならないように。
「………ここに、食べたいものをたくさん書いてくれ。特別なことも、何でもないことも」
「ああ、そうしよう。だがそなたは、ダリルの悪口は書いてくれるなよ?俺もあれには敵わん」
「…………恐ろしくて書くことも出来ないな」
「はは、それはそうだろう。ところで、ヒルドが来たようだぞ」
甘い香りのする菓子箱を持ってヒルドがやって来ると、森はまた大騒ぎになった。
ヒルドに向けるディートリンデの気の合う友人めいた表情を少しだけ羨ましく思いながら、エーダリアもこちらだと手を振る。
その夜は、思っていたよりも長く飛び地の森にいたようだ。
しっかりとリーエンベルクの留守を守っていてくれる家族達に感謝しつつ、美しい冬の森で楽しい時間を過ごした。