夜の時間石とザハの常連客 1
その日のネアは、何となく気分的には懐かしくなってしまうザハを訪れていた。
新年のお祝いが出来なくなっている精霊失踪事件の調査で、事情聴取に伺いがてら、小狡い人間は美味しいザハのケーキを食べようとしていたのだ。
しかし出てきてくれたザハの料理人は、諸事情から同行したアルテアを見るなり、ご機嫌で試作品のパイを出してくれた。
いつもの素敵なおじさま給仕さんはいないかなとネアはきょろきょろしたが、残念ながら本日は姿が見えないのでお休みの日なのだろうか。
ディノが荒ぶるといけないので隠しているが、ネアはその給仕をご贔屓にしている。
「試作品ですので、どうか忌憚のない感想をいただけますと助かります」
「むぐふ!至高のパイなのです。さくさくのパイ生地は、じゅわっとバターの味がして仄かな甘みが堪りません。中に入っているシチューは果物の甘さが癖になる美味しいやつです」
「南国系の果実が好まれる煮込み料理の隠し味ですが、今回は貴腐葡萄を使っております」
「…………中に入っているのは、すりおろした梨か?」
「ええ!シチューの中にも、隠し味でまだ熟れていない梨を使っております」
この料理人は端正な顔立ちの男性で、なんとなくいいお父さんめいても見えるが、実はお忍びで来ている大貴族という雰囲気もする、ミステリアスで魅力的な容貌だ。
人間らしい深みのある魅力なのだが、こちらで生活してきた知見から、ネアはこういう人間はとても人外者に人気があるのだと知っていた。
(それに、この方は確か………!!)
ネアは、確かこの方はザハの料理長様ではと目を瞠る。
そんな料理長は、パイに目がないと聞いているとネアの感想を喜んで聞いてくれ、そしてなぜかアルテアの言葉に敏感だ。
(………美味しい。パイの部分が、さくさくでぼろぼろになるのではなくて、さくさくしているのに、その裏側がしっとりもっちりしている感じで素敵………)
ネアはすっかりむふんとパイシチューに酔いしれてしまい、本日もなぜか一緒にいてくれるウィリアムも、思わぬ贅沢な昼食が摂れたと嬉しそうだ。
パイは普通だが、シチュー系に目がないディノは、先程からもくもくと無心で食べている。
「…………これは何だろう?」
「細長いやつですか?それもパイ生地のようですね」
「余ったパイ生地に、チーズとスパイスを練り込み揚げたものになります。冬ですからシチューを多めにしておりますので、こちらを浸していただくと、少し味が変わりますよ」
「……………むむ!こっちもとても美味しいです!!」
「交換するかい?」
「ふふ。これは一つしかないものなので、ディノも同じものを楽しんで下さいね。その代り、この葉っぱを差し上げます」
「ご主人様!」
付け合せのサラダの葉っぱ一枚で喜んでしまうのだから、何とも可愛い魔物である。
そしてそんなネア達を、ザハのお客の一部がじっと見ていた。
メニューにはないものを食べているので羨ましいのかなと、ネアは何だか申し訳ない気持ちになる。
その間にも、ザハの料理長とアルテアは、専門的な話を幾つもしていた。
「…………ネア様?」
そこに、思わぬお客がやって来た。
霧雨のシーである、イーザだ。
雲の魔物のヨシュアの相談役で、ネアは何かとお世話になっている素敵な妖精である。
彼の弟とヒルドは文通をしており、アルテアはかつて妹のルイザと何やら関係があったらしい。
「まぁ、イーザさん。偶然ですね。待ち合わせをされているのですか?」
「ええ。………友人達と。ネア様は、その御様子ですとお仕事でしょうか?」
「はい。実は困った精霊さんが行方不明で、こちらの料理長さんに、その精霊さんのお話を伺いにきています」
「……………おや、その精霊は、ネア様に何かをしたのでしょうか?」
相変わらず優しい霧雨の妖精は、自分には関係のない事であるのに、そんな風に親身に尋ねてくれる。
とある夜の系譜の精霊が、夜明けを調整する為の夜の時間石を持って行方を眩ませていることは公表されていたので、ネアは、イーザに今回の精霊探しの事情を説明した。
「……そういう訳で、そやつめが夜の時間石を持って逃げてしまったのです。そやつが発見出来ないと、新年のお祝いが出来なくて、色々なお店の美味しいお料理が食べられません…………」
悲しくなってふにゅりとそう言えば、なぜかイーザは店内を振り返った。
誰かががたっと立ち上がり、ウィリアムが不思議そうにそちらを見る。
「あ、ウィームでは現在夜が来なくなってしまっているので、これは公表されていることなんですよ。お店の他のお客様に聞こえてしまったかどうか、イーザさんにご心配をおかけしてしまいましたね」
夜明けを調整する時間石は、夜の領域の各時間を司るものだ。
滅多に地上には持ち込まれないが、主に祝祭などでの時間調整や、特定の時間を司る人外者達の補助として使われる。
ただし、地上に持ち込まれると力が強すぎ、それが出しっ放しになっている間の夜を夜明けにしてしまう。
ウィームは現在、夜の領域の時間は夜明けになってしまうという不思議な状況だった。
「いえ、…………ええ、そうでしたか。それは許し難いことですね」
「はい!季節の儀式を順当にこなしていかないと、ボラボラがずっと出っ放しにもなってしまうので、困った精霊さんは早く捕まえなければなりません」
その直後なぜか、店内にいたお客が複数名同時に帰り支度を始めると、ささっと会計を済ませて店を出てゆく。
仕事の話をしてしまったので気を使ってくれたのかなと、ネアはまたしても申し訳なくなる。
或いは全員がそこそこの食いしん坊達で、ネアの言葉を聞いて、自宅の庭先など、件の精霊が潜んでいないか捜索して、一刻も早く新年のお料理を食べたいと奮い立ったのかもしれない。
「そいつは、海産物を使った料理は好まないそうだ。食い道楽なら、ヴェルリアの方は探さなくていいだろうな」
「む。アルテアさんがいつの間にか有力情報を手に入れています!」
「お前は食ってるばかりだろうが」
「なぬ。美味しく素晴らしいお料理は、きちんと専念して食べてこそなのです。この素敵なパイを食べ終わってから、お仕事に戻ろうと思っていたのですよ?」
「やれやれ、アルテアは意地悪だな。叱っておくから安心していい」
「なんでだよ」
「むむぅ。しかしながら使い魔さんは、良い情報を入手してくれたので、褒めて差し上げるべきでは……」
すると今度は、残っていたお客達がざわざわした。
ネアは、お仕事で動いているので特に音の壁を展開していなかったことを後悔する。
ご主人様と呼んでくる魔物に使い魔まで従えているので、あまりの恐れ多さに怯えさせてしまったのかもしれない。
狩り以外のところで人々に畏怖されるのは、決して望んでいないのだ。
その後ネアは、ご友人らしき男性とテーブルについていたイーザに会釈をして店を出た。料理長から他にも幾つか有力な情報を得たが、あれやこれやと新作のお菓子も出して貰いすっかり長引いてしまった。
食通のその精霊は、料理に拘るのと同時に、湿度や寝具など様々なものに凝るのだそうだ。
会話の中で聞いたことしか知らないと言うものの、そのような生活の嗜好は料理の好みにも反映される為、お祝い料理などで予約を受けた際の為に覚えておいたのだとか。
ザハの料理長ともなれば、その料理にご執心の者達もかなりの数になるようだが、中々に記憶力のいい料理長だ。
「その条件であれば、滞在地は幾つか絞れるな」
ザハを出てそう言ったアルテアは、帽子をかぶり直している。
先程の料理長とは今度レシピ交換をするそうで、連絡先を渡されていたようだ。
ネアはザハの料理長に悪さをしたらちびふわをプールの藻屑にすると脅しておき、料理長の連絡先がとても羨ましいという心を必死に押し隠した。
「ふむ。我儘な精霊さんであることが仇になりましたね。さくさく捕まえて、お祝い料理をたらふく食べるのです」
「だが、ゼノーシュの追跡を振り切ったのが、少し気になるところだね」
そう言ったのはディノだ。
悪夢の件からとても慎重になっており、ネアの手を握って離さない。
三つ編みではなく手を繋いでくれるので、ネアは少しだけうきうきしていた。
当初、リーエンベルクを出るときには腰紐との二択であったので、ネアは勿論こちらを選択したのだ。
「夜の系譜の精霊は、曖昧な姿になることが出来ますからね。そうなってしまうと、知覚が難しくなる」
「ダナエさんのような感じなのでしょうか?」
「そうだね。ダナエも春闇になることが出来るが、今回の精霊も夜靄だから、そのようなことが出来るのだろう」
「同じ系譜の者か、似たような資質の者がいれば捕獲は容易なんですが………」
ウィリアムがそう教えてくれ、ネアは似たような資質というところに着目する。
そうなると、気体化出来たりするような人外者がいれば、隠れている夜靄の精霊を発見出来るのだろうか。
(でも、頭のいい精霊さんのような気がする………)
昨晩ゼノーシュは、その精霊に囮を掴まされたと渋面で帰ってきた。
同系譜の夜靄の妖精が袋詰めにされて駅に放置されていたようで、そんな妖精を詰めてあった袋が今回の犯人の気配を纏ったものだったのだ。
追いつかれそうになった時の為にそのような囮を用意してあったことに、報告を受けたダリルも渋面になってしまったのだとか。
(ダリルさん曰く、感情的になることにかけては随一の精霊さんが意固地になっていることで起きた事件なので、かなり苦戦するかもしれないということだったし………)
いかなる手段を用いても、その精霊は捕まりたくないのだろう。
御贔屓の料理人に自分が疎かにされたという恨みが鎮まるまで、ウィームに戻るつもりはないようだ。
「…………む。あれは………」
ふと見えてしまったものに、ネアはさっと表情を曇らせると、ディノに向かって手を差し出した。
今朝がた、あの血の結晶は回収されてしまったので、今のネアはディノの婚約者に戻っている。
それは二人で約束したことを丁寧に進めたいネアには良いことだったのだが、ボラボラ対策にはあまり好都合とは言えないようだ。
そんな宿敵の姿を遠くの歩道に見かけ、慌てて魔物に持ち上げて貰おうとしたのである。
「ネア?」
「遠くに、ボラボラめが見えました!」
「可哀想に、ほら、もう大丈夫だよ」
「…………………くそ、何で近くに精霊がいないんだ」
そうぼやくアルテアの言葉は、精霊にとってはボラボラが季節の珍味になるからだった。
美味しいボラボラ鍋にされてしまうそうで、縦横無尽に街中を闊歩するボラボラにとって、唯一の天敵である。
なお、竜はボラボラにかぶれてしまい大惨事になるので、今回はそういう理由から、残念ながら夜靄の精霊を探すのに長けているらしいダナエを頼ることは出来なさそうだ。
新年のお祝いがずれているせいか、見かけるボラボラの数は随分と多い。
ノアは他の毛皮にエーダリアが攫われたら困ると言って、しばらくはウィーム領主の襟巻に徹するそうだ。
なぜかボラボラだけは、異様に敵視してしまう謎の銀狐である。
「それにしても……………ん?」
何かを言いかけたウィリアムが、眉を持ち上げる。
その視線を辿ったネアは、思わず絶句した。
路地裏にいたらしいボラボラが、誰かに引き摺られて消えてゆく。
これは多分、精霊に狩られてゆくところなのだろう。
「ほわ、…………お鍋に」
「季節の味覚だから仕方ないな」
「アルテアさんが露骨にほっとしています。祭り上げられるだけなのですから、いっそたくさん触れ合って慣れてみるのも…むが!」
頬っぺたを引っ張り不細工にする拷問を受け、ネアはすぐさまウィリアムの袖を引っ張った。
「アルテア、横からと縦からのどっちにしますか?」
「言っておくが、大人しく刺されるとでも…」
アルテアの言葉は、しゅんと途切れてしまう。
すぐ横の建物の陰から、五体程のボラボラがアルテアを熱い眼差しで見つめていたのだ。
そしてその直後、ボラボラ達は地面に平伏してアルテアを崇め始める。
「…………む。なぜ私が盾なのだ。解せぬ」
「お前、あの絵を持ってるな?」
「殲滅してもきりがありませんよ。寧ろ今私がそんなことをしたら、アルテアさんを独り占めする悪いやつとして目をつけられてしまいます」
「使い魔に対価を支払うのも、主人の責任の内だからな」
「まぁ、………そんなに辛かったのですね」
若干必死になりかけていたアルテアは、さすがに可哀想なのかなと手を差し伸べたネアの姿にはっとしたのか、そろりとネアの影から出てくると元いた位置にしれっと戻った。
いじましい努力を目の当たりにしてしまい、ネアは胸が痛くなる。
「ちびふわになって、ポケットに入りますか?」
「やめろ」
「ネア、これでも第三席なんだ。自分で解決させるようにしないとだぞ」
「………確かに、ずっと守っていける訳ではないので、訓練しないとですね」
「するか。放っておけ」
「ですが、…………むぎゃ?!」
ここでネアは、後ろから颯爽と通行人を装って歩いてきたボラボラにぶつかりそうになり、慌てて魔物の乗り物にへばりつく。
首飾りから引っ張り出したきりんの絵をばっと広げると、そのボラボラは真横にばたんと倒れた。
「うむ。いけます」
「ご主人様………」
「あら、ディノには見えないようにしたつもりでしたが、少し見えてしまいました?」
「ネア、その紙はやめた方がいい。裏から少し、輪郭が透けるんだ………」
「ウィリアムさんまで…………!」
「描き直すなら、それは俺が捨てておいてやる」
「普通に差し上げたいところですが、ダリルさんから、アルテアさんにはきりんさんを授与しないようにと釘を刺されているのです。きっと悪用するに違いないと」
「…………ほお?あの妖精とは、そろそろ話をしておいた方が良さそうだな」
「なお、ダリルさんにはきりん箱の開発をお願いしてますので、あまり逆らわない方が身の為なのです」
「ネア、そう言えばその話を聞いた時から気になっていたんだが、……シルハーンはともかく、ダリルはその絵を見ても大丈夫なのか?」
「ダリルさんは書架妖精さんなので、絵を図として認識する特殊な魔術をお持ちのようです。一時的に、生き物として認識しないように出来るのだとか」
そんな抜け道があることを聞き、ウィリアムとアルテアはどこか遠い目になった。
それは書に連なる系譜にしか出来ない魔術であるらしく、二人には無理なのだそうだ。
「ということは、書の系譜の方を滅ぼす時は、生きている人面魚さんがいいのでしょうか。今度、そちらの方向の悪い方がいたら、実験してみたいですね」
「ネア、頼むから危ないことはしないでくれ。いいな?」
「むむぅ」
そこでネアは、乗り物になった魔物が先程から無言であることに気付いて首を傾げた。
「ディノ………?」
「……………これは何だろう?」
「アルテアさん、貢物が来ましたよ。しかも、ディノに仲介させようとする気遣いっぷりです」
ディノは、後ろにいたボラボラからアルテアに献上する手芸品を手渡されそうになって、ずっと困惑していたようだ。
しかしアルテアは暗い目をするばかりで動こうとしないので、ウィリアムがそんなアルテアを押しやって受け取らせてくれる。
手芸品をアルテアに渡して欲しいとお願いしてくるボラボラがいなくなり、ディノはほっとしたように持ち上げているネアを抱き締めた。
「いなくなったね…………」
「困ってしまいましたよね。あの通り、ボラボラ達は、手芸品の袋や小物をアルテアさんに献上したくて堪らないのです」
「そうなんだね。どうやってあの小さな刺繍をするのだろう?」
「あのもさもさの手で刺繍を刺すのですから、かなりの器用さんなのでは……」
ネアはそこで、可愛い蝶の刺繍とチューリップのアップリケのある巾着を持ったまま固まってしまっているアルテアが不憫になった。
心配してそっと窺えば、やはりあの惨劇を共に過ごした仲間が恋しいのか、ネアの側にすすっと寄ってくる。
これはかなりの重症かもしれず、今日はもう、アルテアは戦力にならない気がした。
「ディノ、アルテアさんが弱ってしまったので、一度リーエンベルクに置いてきた方が良さそうです。何と言うか、…………もう心がかき乱されてしまっているようですから………」
「案外、打たれ弱いところがあるんですね。………いや、俺に渡されてもいりませんよ」
アルテアに無言で巾着を押し付けられ、ウィリアムも困惑の表情になる。
その巾着をどうしていいのか分らず、アルテアに返却しようとしたがさっと離れてしまったので持ったまま途方に暮れている。
このままでは魔物達が全員弱ってしまうと考えたネアは、ひとまずアルテアはリーエンベルクにお留守番して貰うことにして、その巾着は大喜びするであろうエーダリアに渡せばいいのではないかと提案した。
「きっと、アルテアさんがいるからボラボラ達も寄ってきてしまうんです。ここは、私達でその夜靄の精さんを探しますので、リーエンベルクで待機していて下さいね」
「…………アルテアにも苦手なものがあるんだね」
「うーん、自分の系譜の者が苦手というのも、なかなか厄介ですね。さっきまでは普通だったから、ここにアルテアがいることを広めた個体がいるのかな……」
しかし、アルテアを預ける為に一度リーエンベルクに帰ったネア達は、思いがけない一報に愕然とする羽目になる。
「なぬ!捕まったのですか?!」
捜索にあたる筈だった夜靄の精霊が、この短い時間で誰かに捕縛されたらしい。
匿名でリーエンベルクの門を守る騎士に預けられ、早々にグラスト達が対処にあたっているらしい。
夜の時間石も、無事に同族の精霊の手であるべき場所に戻されたそうだ。
迎えてくれてそう教えてくれたヒルドに、ネア達は顔を見合わせた。
どことなく安堵しているアルテアは、ふらふらと借りている客間に戻ってゆく。
「各店舗の代表者や観光協会の者達、離れた土地の地方伯などとも話を進めておりまして、当初の予定通り明後日に新年の振る舞いを出来そうです。なお、当日はボラボラが多く出てきますと混乱するので、一時的にボラボラは街から掃き出すことにしました」
「………ボラボラめは、掃き出せるのですね?」
「ネア様のお持ちの戸外の箒のようなものが、このウィームにもありまして。少し効果が落ちるので相手によっては難しいのですが、ボラボラであればある程度は排除出来ますからね。勿論、一時的な措置ですが、その間に新年の儀式を終えてしまえますので今回はそうすることになりました」
匿名の貢献者からその脱走精霊を受け取ったのは、エドモンなのだそうだ。
彼は祖父の血を引いていることから物事をあるべきところへという資質を持っており、彼がたまたま門の警備を他の騎士と代わって貰ったその時の犯人逮捕に、騎士達は仲間の持つ力が何か幸いを齎したのではと考えているようだ。
「その精霊さんは、まだ荒ぶっているのですか?懲らしめるのなら、きりんさんを提供出来ますよ?」
「いえ。…………その、捕獲の際に随分な目に遭ったようですよ。複数名の人外者に追い込まれ、捕まったのだと、たいそう怯えた様子で夜靄の精霊の仲間達に連れ帰られました」
「…………むむぅ。美味しい新年のお料理が食べたくて、怒っていた方がたくさんいたのかもしれませんね」
「…………だといいのですが」
ヒルドはなぜかすっきりしない表情だったが、ネア達は無事に事件が解決したことを受け、安心して解散する運びとなった。
こうなると、聞き込みを口実にザハで美味しいパイを食べてきただけになってしまうが、悪夢から戻ったばかりなのでこの程度で今日の仕事が済んでほっとした部分もある。
新年の振る舞い料理とは言え、その行事はネアが公の舞台に出る数少ない行事でもある。
まだ心が完全に凪いだ訳ではないディノを、今夜はしっかり休ませてやれそうだ。
「俺は一度戻るしかなさそうだな。西方の森林地帯で戦乱の気配がある。大事に至らないようだったら、また顔を出すから、あまり無理をしないようにするんだぞ?」
そう言って頭を撫でてくれたウィリアムに、ネアはこの終焉の魔物が、ネア達を心配して今日の仕事に同行してくれたのだと分かった。
「ウィリアムさん、お忙しいのに側にいて守ってくれて、有難うございました」
ネアがそう言えば、ウィリアムは一度瞳を微かに揺らしてから、ふわりと微笑んだ。
優しい手でネアの頭を撫で、ディノの方に向き直る。
「シルハーン、もしネアに何かありましたら、構わず呼んで下さい」
「死の影やその影響を心配して、側で注視していてくれたのだね?血を与えていた時に反応を見ていたけれど、あの祝福は綺麗に作用しているようだ。もう大丈夫だろう。心配をかけたね」
「ええ、もし祝福の効果がひっくり返されると厄介でしたからね。定着したようで良かった。では、俺はこれで」
「ウィリアムさんも、どうかあまり無理はしないで下さいね」
「ああ。………それとネア、アルテアが本調子ではないようだから、外に出るときには彼と二人になるのは避けた方がいい。他にも誰かが一緒にいないと事故りそうだ」
「うむ。私もそれはとても危険な気がするので、必ずディノに側にいて貰うようにしますね」
「そうしてくれると、俺も安心だ」
もう一度ネアの頭を撫でてくれて、ウィリアムは帰っていった。
ネアは、隣で繋いだ手をそっと三つ編みに入れ替えている魔物を見上げて、ぎくりとした美しい生き物に微笑みかける。
「ディノ、晩餐まで思いがけずお時間が空いたので、何かディノがしたいことをしませんか?」
「ネア…………?」
「私がいない間に、不安な思いをさせてしまいました。また新年のお祝いの時にはたくさん人も来ますし、今日は本来であればお休みをいただいていた一日だったので、残った時間はディノがしたいことに使いたくて堪らない気分なのです。我儘を聞いてくれますか?」
「……………うん」
少しだけ口元をもぞもぞさせてから、目元を染めて嬉しそうに頷いた魔物に、ネアは笑顔になった。
ザハの美味しいパイも食べたので、元気はたっぷり補給しているのだ。
「……………君と二人で、君のくれたプールの水を見ていようかな」
「ふふ。では、プールにあるあの寝そべれる椅子で、二人でごろごろしましょう!厨房にあるエルダーフラワーのシロップで飲み物を作ってゆけば、のんびり出来ますからね」
「ご主人様!」
その日、ネア達は晩餐までの時間をのんびりと青く綺麗なプールの水を眺め、時折浮き輪で浮かんでみたりしながらゆったりと過ごした。
翌日は、ボラボラで弱ってしまった魔物が保冷庫に落ちたりもしたので、先にそういう時間を作っておけたことに、ネアは匿名の協力者達に心から感謝したのだった。