204. 黒い狼が多過ぎます(本編)
送り火の魔物が失踪した。
その情報は、驚きをもってリーエンベルクに受け入れられた。
なぜならば、送り火の魔物ことグレイシアは昨年すっかりネアの舎弟になり、ヒルドに至っては決して逆らってはいけないがあまり、目が合うと震えてしまうくらい怖い存在として位置づけられていた筈だからだった。
今年からはもう脱走することはないだろうと誰もが考えていた中、グレイシアは先週の夜明けに住処としている大聖堂の屋根裏部屋に併設された空間にある、彼の屋敷から逃げ出しているのが発見された。
毎回律儀に書置きを残していってくれているので、教会勤めな妖精が発見し、すぐさま教会関係者での捜索が行われたが見つからず、そこでようやくリーエンベルクにも一報が入って事態が発覚したのだ。
信仰の魔物であるレイラの意向により、今年は出来るだけ関係者だけで事態を収拾しようと頑張ってしまったらしい。
お休み明けで美味しいお昼ご飯をたらふく食べた直後のネアは、そんな送り火の魔物捜索の為に、まずは一度、経由地とする街に戻ってきていた。
街の広場では大きな飾り木が飾られており、イブメリアを待つ人々の昂揚感が伝わってくる。
この街はあたたかなオレンジ色の飾りつけを主にするようで、ふくよかな緑と品のいいオレンジ色の対比がなんとも美しい。
楽しげな音楽が聞こえてくるが、街角でバイオリンを演奏している者がいるようだ。
こんな風に祝祭の訪れを楽しむ人々にとって、送り火の魔物の失踪は毎年のこととは言え困った事態であった。
「困った舎弟ですね。今年はどんな理由で逃げてしまったのでしょう。またしても、大きくて恰好のいいままの姿でいたいという理由であれば、捕まえた後はお尻を叩いて叱るしかないのです」
「…………浮気」
「お説教と浮気は違いますよ?それとディノ、いつの間にか肩の上に狐さんが登場していますが、どこから合流してきたのでしょう?」
ネアがそう尋ねると、ディノの肩の上で銀狐が尻尾をふりふりする。
「ノアベルトは、彼とは果たさなければならない再戦があるのだそうだ。捜索を始める時には一緒に連れてゆくよう、前から頼まれていたんだよ」
「何となく想像がつくのですが、既に大きさでは敵わないのでは…………」
以前、イブメリアの季節が遠のきすっかりちび狼になったグレイシアと、銀狐が良きライバルであった時期があった。
しかし、その頃のグレイシアが子犬サイズだったとしたら、今はもう仔馬サイズになってしまっている筈なので到底敵わないのではと思わずにはいられない。
足でばしっとやられたら、銀狐は吹き飛んでしまうだろう。
どう考えても結果は一目瞭然であるのに、敵わないと言われた銀狐は尻尾をけばけばにして涙目になった。
昨日はヒルドと狐温泉に行ってきたようで、何ともふかふか艶々ないい匂いの毛皮になっている。
「そして、前日に狐温泉で磨き上げてくるという念の入れようです」
ネアがそう言えば胸を張ってふさふさの胸毛のアピールをしてくるので、美しさでも負けたくないと頑張っているようだ。
「ゼノーシュの話では、このフエビエの街の外れの森の方ではないかということだよ」
「去年はホラーハウスでしたが、今年は森なのですね!」
「ウィーム領の最北端に近い土地だ。君の好きそうな、絵付けの陶器などが有名らしい」
「むむむ。ささっと舎弟を捕獲して、陶器のお店を冷やかすくらいの余裕があることを祈ります」
ネアはそのお店はどこなのだときょろきょろしてから、はっとして気を引き締めると、旅行気分を一掃して仕事に意識を引き戻す。
正午過ぎのこれからゆっくりと陽が落ちてゆくので、森の捜索をするのならば少しでも早く出立した方がいい。
(それでも、前の世界とは違って、こちらの世界の魔術が潤沢な土地では、夜でも森が明るいのがほとんどだけれど……)
特にこの祝祭の近い季節の森は、人ならざる者達がはしゃいでいて明るいのだ。
そんな楽しげな光が飛び交う夜の森も好きだが、グレイシアは黒い狼なので、出来るだけ明るい時間の方が捜索はし易いだろう。
「では行こうか。まずは転移で森の中に入ろう。森の入り口は、この季節は混み合っているからね」
「季節によって違うのですか?」
「祝祭の準備に惹かれて、森の入り口に小さな生き物達が集まるようだ。特にイブメリアは祝祭の期間が長いから、多くの生き物達が集まりやすい」
「きっと、楽しそうで楽しくなってしまうのでしょう。そんな気持ちは分る気がします」
そこで、ネア達はまずは森の中に入ることにした。
一瞬で視界の色合いが変わり、賑やかな街中からしんと静かな深い森の中に下り立つ。
まだ深い雪に包まれてはいなかったが、さくさくと踏む雪の薄さにも確かな冬の訪れを感じた。
今年は早めにグレイシアが逃げ出したので、冬の訪れが少し緩やかなのだそうだ。
この辺りはいつもであれば、冬告げの舞踏会の終わった後ともなれば、もっとずっしりと雪が降り積もっているのが常なのだとか。
「冬の森ではありますが、イブメリアかというとまだ物足りない感じですよね」
「グレイシアが逃げて来てるなら、この辺りの雪はもっと深くても良さそうだけれど、来たばかりなのかもしれないね」
「銀狐さん、黒ふわ尻尾を見付けたら報告して下さいね」
森は深く豊かであった。
たくさんの大きな木が生えているが、ウィーム中央寄りの森に比べると、その深い緑の色合いは黄色寄りで、やはり土地によって育つ木々の枝葉の色が違うようだ。
見慣れた森の色は白緑や青みがかった緑が多いが、この森の色合いは赤みがかった緑や黄色がかった緑が多く、今歩いているこの辺りは黄色みがかった木々が多く生い茂っている。
ディノに尋ねてみると、その土地の属性や守護、土地に流れている魔術の質によってそのような色は変わるらしい。
見たことのないもさもさした塊が木の上にあったり、中には鮮やかな赤い葉っぱの大きな木があったりして目にも楽しい。
「ディノ、この赤い葉っぱの木は綺麗ですね」
「火集めの木だね。葉や枝が美しいからと家に持ち帰ると、その家から失火すると言われている」
「なぬ。火を熾してしまう木なのですか?」
「火の気を集める木なんだ。この森の色合いに赤が多いのは、火の守護や系譜の者が多い土地なのだろう。だから、土地にある他の要素を弱らせないように、このように余分な火の気を集める植物はとても貴重なんだよ」
「頑張り屋さんの木なのですね」
「ネアが木に浮気する…………」
「むむぅ。幹のところを手で触っただけではないですか」
「撫でてる………」
「この程度で荒ぶっていては…………むぅ。三つ編みが手の中に設置されました」
火集めの木を離れ、ネア達は更に森の深くにまで分け入った。
見たことのないキノコに出会い、ネアは怖々とそのキノコを迂回する。
じわじわっと首を捻るように体の向きを変えるキノコで、まるでこちらを監視しているような気配にぞくりとしたのだ。
「ディノの影に隠れます……」
「キノコが怖いのかい?」
「まるでこっちを見ているようでぞわりとするので、あやつは苦手です………」
「大丈夫だよ。そのような意識がある生き物ではない筈だから」
「むぎゅう」
「しがみついてる。可愛い…………」
「むぎゃ!盾なのですから、体勢を変えてはいけません!」
魔物の盾の影からそっと顔を出したネアは、そんなキノコの向こう側にある大きな木に、奇妙なものが引っかかっているのを見付けてしまった。
風にかさかさという微かな音が混ざり、ディノも眉を持ち上げる。
そして次の瞬間、悲しい事故が起きた。
「ほわ?!ぶっ?!」
ひときわ強い風が吹き、その物体がぶわりと吹き飛ばされてきたのだ。
風向きが悪く、ネア達にがさがさっと覆い被さってきた包装紙めいた塊は、ディノが排除するよりも早くネアがばりっと足で踏みどかした。
ディノの結界のようなものがあるのか直接体に触れはしなかったが、森で風に飛ばされてきた謎の巨大包装紙に包まれるのは、あまりいい気分ではない。
「……ぷは!驚きましたね!!森にこんな大きな包み紙を捨ててはいけません!」
「…………また狩ってる。踏んでる。ずるい………」
「なぬ」
ネアが慌てて見下ろすと、そこには茶色い包装紙的な生き物がぴくぴくしながら踏み潰されていた。
そーっと足を持ち上げたネアの下から、そんな生き物はすぐさまディノがどこかにぽいしてくれる。
「………思い出しました。今のかさかさは、梟の魔物さんだったのでしょうか?」
「困ったご主人様だね。梟は爵位のある魔物だから、あのように端を踏んだくらいでは死なないだろうし、妙なことで気に入られてしまう可能性もある。不用意に魔物を籠絡してはいけないよ?」
「解せぬ。邪魔な包装紙をどかしただけなのです」
「君はすぐに魔物を捕まえてしまうんだ」
「かさかさ包装紙に用はありません!」
ネアがそう言うと、ディノの肩に乗った銀狐もムギーと鳴いて、かさかさ包装紙は用無しであるという宣言をした。
尻尾をけばけばにしているので、いきなり覆い被さってきて案外怖かったのかもしれない。
ディノ曰く、先程の梟の魔物はご挨拶に来たところで足を滑らせ、風に乗って飛んで来てしまったらしい。
すぐさま排除しようとしたが、驚いた銀狐が振り回した尻尾が顔面にもふっと当たって視界を遮られた一瞬のうちに、もうネアが踏みつけていたのだそうだ。
その後もネア達は森を歩いたが、探しているグレイシアの気配はなかった。
森には様々な生き物がいて、魔術が複雑に絡み合っているので、ディノにもその全てを見通すことは出来ないらしい。
勿論、他の人外者達に比べれば格段に認識範囲は広いとは言え、ある程度は地道に歩いて探すしかないのだ。
「水の匂いがしますね。水辺が近いのでしょうか?」
「風の気配もあるようだ。属性の傾向が変わったね」
少し歩くと、森がすり鉢状に深くなっている場所に出る。
そこには深緑の艶々した葉っぱを茂らせる大きな木々が立ち並んでいて、薄らと積もった雪は先程のどこまでよりも厚い。
大きな木を見上げれば、小さな百合のような黄色い花が満開に咲いていた。
木々の間を覗いてみると、少し離れたところに小川が流れており、落ちた黄色い花が浮かんでいる。
さらさらと流れてゆく部分と、流れがカーブして少し水が溜まっている部分があるので、森の生き物達が水を飲むのに良さそうな場所に見えた。
「何やら、爽やかでいい匂いのする木ですね」
「水の木だね。これは水の気を集めるものの一つだよ。この森は、中央とその外周で、属性の違う者達がそれぞれの領域を定めているのかもしれない」
「だからこちらには、あまり赤い植物や葉っぱが見当たらないのですね………狐さん?」
「…………ノアベルト?」
そこでディノは、おやっと目を瞠った。
ディノの肩からしゅたっと飛び降りた銀狐が、一本の木の根元にずぼっと顔を突っ込んだのだ。
しかし、ネアはその直後、はっとしたように息を詰めた。
背後に不穏な気配を感じ、鋭く目を細めて振り返れば、愚かにもネアを木か何かと勘違いしたものか、へばりつくぜと言わんばかりに飛んできてしまった生き物が、背中にまとわりついてきているではないか。
「ネア?」
「ディノ、ちょっとだけ動かないでいて下さいね。………てりゃ!」
「………何か狩ってる………」
「ふぅ。思わぬ場所で、収穫に恵まれました」
ネアがばしりと叩き落したのはぺらぺらリボン生物こと、カワセミだ。
今日の収穫では水色の個体とオレンジ色の個体がおり、綺麗な状態で手に入れたので鷲掴みにして狩りの余韻に浸る。
「ご主人様…………」
「べ、別に、私は遊んでいませんよ!捜索の邪魔をする悪いやつを排除しただけなのです」
ディノがどこか責めるような眼差しでこちらを見るので、ネアはカワセミを鷲掴みにした手をささっと背中の後ろに隠した。
「ネア………」
「むぐ。狩りの獲物など隠し持っていませんよ!…………狐さん?」
そこで、落ち葉の中に顔を突っ込んで何かを探っていた銀狐が、しゅばっと顔を上げて戦利品を持ち上げた。
「………ボール」
「…………ボールだね」
「狐さん、そのボールは、どなたかの落し物です。勝手に持ち帰ってはいけません」
ネアがそう言うと、銀狐は誇らしげな表情から一転、足踏みをしてムギムギ鳴いている。
そしてひとしきり鳴き終えると、ボールを咥えたままじりじりと後退していくではないか。
分りやすく、そーっと下がってゆくので、ネアは腰に手を当てて怖い顔をしてみせた。
握り締めたままのカワセミがぺらりとしたので、慌ててそちらの手は背中に隠す。
「こらっ!それは他のどなたかの落し物のボールです。勝手に持ち帰ってはいけませんよ!」
ムギーと鳴いてうっかりぽとりとボールを落してしまってから、慌ててまた咥え直し、銀狐は頑固に首を振っている。
足踏みをする度に狐温泉で綺麗にしたばかりのお尻がふりふりされて、ネアは可愛さに負けそうになる心と戦った。
自分一人では負けてしまいそうなふかふかお尻なので、ネアは慌ててディノに言いつける。
「ディノ、狐さんが森の落し物のボールを着服しようとします!」
「ノアベルト、それは他の誰かの使ったボールだろう?」
ディノにも窘められてしまい、銀狐は尻尾をけばけばにしていっそう大きく首を振った。
しかし、森に落ちていたボールとなると、他人様のものだったということもあるが、どんな良くない要素や危ない要素を持っているかもわからず、持ち帰らせるのはやはり良くない。
咥えているということはお口に入れてしまっているということなので、ネアはそのことも心配であった。
しかしその不安に眉を顰めていると、ディノはその隙に、心配そうにネアが背中に隠し持った獲物を覗き込んでいた。
そのことに気付いてぎくりとしたが、もう見られてしまったようなので、大雑把な人間は開き直ることにする。
仕事中に副業で狩りの女王になっていたとは言え、売ってケーキの足しにしようと思っていることはさすがに気付かれまい。
「…………ネア、その手の中のものは何だろう?」
「ぺらぺらリボン生物ですね!川辺にぺらぺら飛んでいて、邪魔な感じにまとわりついてきたので、手ではたき落としました!これをアイザックさんに売り捌き、ディノと美味しいケーキを食べられそうです」
「どうして君は、目を離すとすぐに狩りをしてしまうんだろう。ほら、カワセミは金庫にしまおうか」
「むぐぅ」
うまく誤魔化すどころかうっかり本音を零してしまったネアはがくりと肩を落とし、カワセミを金庫にしまわれながら、この獲物は、ディノと一緒にザハのイブメリアシーズン限定のケーキセットを食べる為の財源にするのだと告白する。
すると魔物は、ネアの手を綺麗なハンカチで拭いてくれながら、悲しげに瞳を煌めかせた。
「それくらい、好きなだけ食べさせてあげるのに」
「私だって時々は、今日はご主人様の奢りですよとはしゃぎたいのです。でも、お仕事中に副業をしてしまったことを少し反省しました。ごめんなさい、ディノ」
「……ネア?」
そう謝ればディノが不思議そうにするので、ネアはおやっと首を傾げた。
「不真面目だと思って、困った顔をしていたのではないのですか?」
「君は、最近あまり叩いてくれないだろう?それなのに、カワセミは叩くんだ」
「…………ぞわりとしました」
「それと、君はさっきも梟の魔物を斃したばかりだろう?危ないからこれを持っておいで」
ディノは相次ぐ狩りにすっかり心配になってしまったらしく、ネアの手にまたしても三つ編みを投げ込んできた。
すぽんと手のひらに収まるような絶妙な投げ方に、ネアはいつも反射的に握ってしまう。
あまりにも見事な投げ技に、銀狐もおおーと目で追ってしまっていた。
「 む。なぜに三つ編みなのでしょう。こういう時は、手を繋ぐべきだと思います」
「…………ネアが大胆過ぎる」
「解せぬ」
更に困ったことに、銀狐は自分もと思ったようだ。
落し物のボールを頑固に咥えたまま、首元の綺麗な銀灰色の首輪を見せつける。
この首輪はお出かけ用につけるもので、行った先がペットを単独行動させてはいけないところだったり、銀狐が暴走した時などに、ここにリードを付ける為のものだ。
どうやら銀狐は、リードを持たせることでネアを繋いでおこうと思ったらしい。
しかしネアは、まずはボールを置くことが先だと言って銀狐をけばけばにさせた。
「ふと考えたのですが、グレイシアさんも、ボール遊びをしたりするのでしょうか?」
「………するのかな?」
「いざという時は、チーズボールを投げてみたら、立ち止まるかもしれませんね」
「………うん。アルテアも追いかけていたから、グレイシアも追いかけるかもしれないね」
「そう言えば、少し前に白もふ用に首輪を買ったのです。綺麗な赤紫色の首輪をリノアールで見付けたんです!」
「アルテアは喜ばないんじゃないかな………」
「最近の使い魔さんはより懐き度が上がりましたので、また明後日も林檎のタルトを献上しに来るのです。その時に一度差し上げてみますね」
白けものは撫で回すと途中で逃げてしまうので、ネアは一度リードをつけた上で繋いだままの撫で回しをやってみたかった。
特にお尻と耳元はあまり撫でさせてくれないので、逃げられないようにしてから撫でる必要があるのだ。
そんなことを話していたら、リーエンベルクいちのもふもふは自分であると荒ぶった銀狐が、ぽとりとボールを口から落としてディノの腕のところに駆け上がってきた。
そしてその高さから、ネアに向かって何やらムギムギと訴えている。
その隙にネアは、気付かれないようにボールを足でひょいっとディノの方に蹴り寄せると、手を伸ばして銀狐を抱っこしてやる。
「狐さんは家族なので、荒ぶらなくてもいいんですよ?白もふは、どれだけ魔性のもふもふであれ、やはり嗜好品ですからね」
銀狐がネアに撫でて貰っている間に、ディノは落し物なボールをどこかにやってくれたようだ。
はっとした銀狐が周囲を見回した時にはもう、ボールは影も形もない。
涙目で震えている銀狐はディノの肩に設置し、さてグレイシアの捜索に戻ろうかなとネアが振り返った時だった。
がさりと落ち葉が鳴り、はっとしてそちらに目を凝らす。
そして見えたのは、さっと駆け出してゆく見事な黒い尻尾だった。
「ディノ!見付けました!!」
そう言うなり駆け出したネアは、素晴らしい早さで茂みに飛び込むと、もふりと翻ったその尻尾を鷲掴みにする。
「キャフン?!」
いきなり尻尾を鷲掴みにされた獣が悲鳴を上げ、ネアは艶々している見事な漆黒の毛皮の手触りを堪能した。
「ネア!いきなり走ったら危ないよ………」
「ディノ、舎弟を捕まえたのですが、グレイシアさんは少しだけ小さくなったような気がします。それと、瞳の色が変わったような。…………む。違う」
「ネア、その獣はグレイシアではないと思うよ。信仰の系譜の気配がしないし、普通の森の獣ではないのかな」
「むむぅ。しかし、素晴らしい黒つやもふもふです!狼さん違いとは言え、逃すのが惜しくなってきました」
「…………随分と、特徴的な瞳だね」
「ディノ?」
ふと、ディノが困惑したような呟きを漏らした。
なぜか、ネアが尻尾を鷲掴みにした狼の瞳をじっと覗き込む。
すると狼も狼で、だらだらと冷や汗でも流していそうな酷く狼狽した目をするのだ。
「……あ!逃げました!!」
どうしたのだろうと考え手が緩んでしまったのか、次の瞬間、その黒い狼はするりとネアの手から尻尾を引き抜き、全力疾走で走り去った。
ネアは素敵な黒つやもふもふを捕らえるべく慌てて追いかけたが、なぜか命からがらといった様子で物凄い早さで森を疾走してゆく狼には敵わず、後ろからふわりとディノに拘束されて荒い息を吐く。
「おのれ!私の黒つやもふもふが!!」
「………ネア、あの獣は逃してあげようか」
「…………ディノ、あの獣さんを知っているのですか?」
「………いや、知らないと思う。でも、あの獣の瞳の色が、ギードの瞳にとても似ていたんだ」
ネアは目を瞠って、そう微笑んだ魔物の顔を見上げる。
困ったように淡く微笑むディノの頬を撫でてやってから、振り返って今はもう何者の気配もなくなってしまった静かな森の遠くを見た。
指先に触れたつやりとした尻尾の毛並みはシルクのようで、耳周りの毛が蝶のように広がってふさふさとした綺麗な狼だった。
「…………となると、そのギードさんだったのでは?」
「先程の生き物は狼だったろう?私にも、森の獣の気配しかしなかった。だから、魔物であるグレイシアとは違うと分かったんだ」
「でも、ディノの肩に乗っかってる狐さんも、狐さんな気配しかないのですよね?」
「……………うん」
こくりと頷くと、ディノは考え込むように森の奥を眺める。
その瞳はどこか不思議そうで、ネアはもう一度あの狼を捕まえてやれたならと考えた。
「ディノに会いたくて、こっそり顔を見にきたのか、ディノのことを心配して、少しだけ様子を見にきてくれたのかもしれませんね」
「………そうなのかな」
「きっと。………お話を聞いていると、その方はとても優しい方のようですから」
「うん…………」
「きちんとお会い出来るようになったら、私にも紹介して下さいね。黒つやもふもふ…………」
抑えきれずに欲望のままにそう呟いたネアに、銀狐はディノの肩の上で荒れ狂った。
尻尾を振り回して跳ね回るので、ネアは慌ててムギムギ荒れ狂う毛皮を抱き締める。
「あらあら、狐さんが怒る必要はありませんよ?あの方がその魔物さんであっても、ディノのお友達なので、そのよしみで黒つやもふもふを撫でられたらなというだけなのです。狐さんは家族なのですから………ディノ?」
「ネアがギードかもしれない狼に浮気する……」
「なぜに一緒に荒ぶるのだ…………」
「ご主人様…………」
「安心して下さい、ディノ。どれだけ黒つやもふもふが素晴らしくても、ディノやムグリスディノに勝ることはありません。それに、老後は白もふか、ちびふわを飼う予定なので、ギードさんを捕まえてしまったりもしませんから」
ネアのその発言に、ディノと銀狐は同じ目をした。
呆然としたように、目を瞠ってこちらを見るはので、ネアはこてんと首を傾げる。
「………アルテアか、ウィリアムを飼うのかい?」
「ふむ。私は最近、お二人は毛皮生物になっている時だと、とても寛いでいるように見えるのです。ご自身の持つ特別さを一時でも手放せるからか、ただくたくたになって甘えたり休んだりしていられるからではないかと思うので、そんな感じの気分転換として月に何度か遊びに来て貰おうと企んでいます!」
「月に何度かでいいのかい?」
「きっと狐さんとも遊べるでしょうし、体力が落ちてくる老後となると、白もふを堪能するのはそのくらいの頻度が最良な筈です!お互いにいいところだけを楽しめる、大人の関係な毛皮生物ですね!」
それでもまだ不審そうな顔をしている二人に、ネアはぴしりと指を立てて餌をちらつかせる。
「それに、ウィリアムさんな竜さんが来れば、あの素敵なふわとろ毛皮ですよ?アルテアさんだって、至高の白もふですし、擬態はお得意のようなのでお二人の好きそうな毛皮生物にもなれる筈です」
狡猾な人間にそんなことを言われた魔物達は、月に二度くらいなら致し方ないともそりと頷いた。
しかし、ディノからは、どんな毛皮生物を飼うにせよ、ムグリスディノより撫でてはいけないと約束させられ、ネアはきりりと頷く。
すっかり二人とも毛皮生物の魅力に参り始めているなとしめしめと微笑み、ネアの素敵な老後設計に同意してくれた魔物達を交互に撫でてやった。
その日は結局、森を捜索してもグレイシアは発見出来なかった。
思わぬところで発見され、悲しい事件となるのは、その翌日のこととなる。
 




