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122. これまでの財産があります(本編)



真夜中も回ったところで、月明かりのチューリップ畑はえもいわれぬ色彩に包まれていた。


色とりどりの花は、柔らかな夜の風に揺れ整然と波打っている。

花の形は様々で、八重咲きの華やかなものも多い。

ネアの足のすぐ横で、淡いピンク色に艶やかな赤紫のグラデーションの入った可憐なチューリップの蕾がちょうどほころびかけていた。


鮮やかな赤紫に赤と白のもの、淡い黄色に、薄水色と葉翠のもの。

ウィーム好みらしく八重咲きのチューリップがどこまでも続くので、一般的なチューリップがそこに混ざると、淑女達のドレスの間に少女が混じるようで可愛らしい。


一番手前の列の花は陽が当たるのか既に満開になっていて、チューリップの散り際の特徴でもある、花びらの色が抜けて硝子細工の花のように見える一番美しい頃合いであった。

シルクのような光沢を帯びて、月の光を透過すると儚く光る。


「ネア、宣言しよう」

「はい。ではゼノ、いきますね」


ここでネアは、効率的な収穫の為にすっと息を吸い込んでから声を張り上げた。

気分的なもので、両手も上げてみる。


「私は、失せ物探しの祝福の結晶を収穫に来ました!良い収穫を信じています!」


言い切って振り返ると、ゼノーシュが頷き、魔術の発動にその白混じりの水色の髪がふわりと光った。

檸檬色の瞳はどこまでも透明で、限りなく清浄で天使のような容貌である。

貴族の子弟のような服装だが、こんな真夜中のチューリップ畑に佇んでいると、叡智を備えた高位の人外者であると一目で感じるのは、美貌の温度だろうか。


「見付けたよ。ネア、僕が指差すからね」

「はい!宜しくお願いします」

「うん。………まずはこれ」

「足元にいきなりありました」


ゼノーシュが指差したチューリップは、淡い黄色の小ぶりなもので花びらを剥いてしまうのが躊躇われるが、今回は収穫であるので容赦してやれない。

ネアは心を鬼にしてえいやっと玉ねぎを解体するように綺麗な花びらを開いた。

花びらが千切れないように気を遣ったつもりだが、やはり一枚はらりと落ちてしまう。


「…………やはり、綺麗ですね」


思わずそう呟いてしまったのは、中から出て来た結晶が、丁寧にカットされたダイヤモンドのような宝石だったからだ。

カットの面ごとに月を映してきらきらと光る。


「次はね、これ!」

「お隣のチューリップですね………」

「この列は全部あるよ。やっぱり、ネアが持ってる収穫の祝福が凄いんだね」

「今迄のリズモ狩りの成果ですね!今夜の収穫の祝福は果ての薔薇で使ってしまったので、これまでのものだけの筈なのですが、まだこんなに残っているのが驚きです」


それは、いつだっか、ヒルドがぽつりと言っていたことに起因する。

ネアがやたら収穫物にも恵まれるのは、収穫や豊穣の祝福をたくさん身に宿しているからではないかと。


それを思い出したネアは、今朝こっそりリーエンベルクの花壇を襲って試してみたのだ。

そしてその結果、剥いたチューリップの全てから結晶を貰えるという素晴らしい成果を上げている。

勿論、緊急時であるので庭師にはエーダリア経由で断りを入れてあった。


つまり、ネアはその手の運もべらぼうに良いらしいのだ。



「僕、ネアが竜とか拾ってくるのもそれかなと思う」

「あら、それなら役に立つ竜さんはやはり飼いたいですね」

「ディノが駄目だと思う」

「まぁ、新しく使い魔も雇いましたしね」

「使い魔は、ケーキ奢ってくれるかな」

「任せて下さい。それと、今の内にやってしまいますね」

「うん。ネアの祝福もあるし、それだけあれば充分だと思うよ」


ここでネアはひとまず邪魔者が現れる前にと、足首に移設した腕輪からリーエンベルクの花壇でお試し収穫をしていたものも取り出し、手にした七個と合わせた二十五個の祝福の結晶石を握りしめて、祈るようなポーズでその効果を使う。


「春告げの舞踏会で貰った、私のチケットをこの手に戻して下さい」


その言葉と共に、手の中の美しい宝石達はぺかりと光ると粉々になって風に散らばってしまった。

一瞬、新年の星屑の思い出が蘇って失敗かと思ったネアであったが、いつの間にか手の中にはディノに預けていた春告げの舞踏会で貰ったチケットがある。


「…………うむ。取り戻しました!」

「良かったね。すぐに隠して!」

「しっかり隠して、次の収穫に向かいますね!」


何しろこの列のチューリップの全てに祝福の結晶があるのなら、まだかなりの収穫が見込める筈である。

残虐な微笑みを深めたネアは、罪のないチューリップ達に襲いかかっていった。


(何だろう、この作業癖になりそう)


そんなふうに考えてしまうのは、単純作業かつ、転がり出てくる結晶石がとても美しいからだ。

すっかり気を良くして職人のようにチューリップを剥いていたネアに、ゼノーシュがあっと小さく声を上げた。


「………ネア。来るみたい」

「………やっぱりですね。収穫した石は隠しましたので、用心しま…………ほわ?!」



ざわりと、チューリップ畑が揺れた。



全ての蕾が淡く光ったと思ったら、次の瞬間にはもうその輝きは消えている。

その代わり、先程まで蕾であったチューリップの全てが綺麗に花を開いてしまっていた。


「…………おのれ、許すまじ」


ネアがそう呟いたのは、祝福の結晶は蕾のチューリップからしか採れないからである。

つまりもう、この畑のものは結晶石を生み出さないのだ。



「成る程、失せ物探しの祝福か。夜雲雀はやめたのか?」


そんな弄うような美しい声が降って来て、ネアはそちらを振り返る。

チューリップ畑を囲む防風林の代わりとなっていた楓の木の枝の上に、漆黒のスリーピース姿の魔物の姿があった。

出かけていたというのは本当らしく、燕尾服姿で帽子とステッキを持った華やかな盛装だ。


こちらを見て眇められた瞳の鮮やかさに、魔物らしい愉悦が浮かんだのは、木の上から見たチューリップ畑が全てが咲ききってしまったことを確認したからだろう。

対するネアが剥ききった花の数はまだ一列にも満たない。


「…………アルテアさん」

「この畑を全部探すつもりだったのか?ゼノーシュを連れて来たなら、一個ぐらいは見付けたんだろう?」

「チューリップを咲かせてしまった悪人が何の用でしょう?」

「俺を呼べと言っただろう」


そう告げる声は甘くて鋭い。

誘惑に長けた魔物らしい毒を孕んだ声音の美しさに、思わず息を止めてしまいそうになる。


「今夜は打ち上げからの、酔っ払い気分で先取りの会です。ディノも酔い潰れて寝てますしちょっと来てみただけですよ?」

「シルハーンに邪魔されないよう、俺の助けが必要なんだろう?」

「ええ。でもそれは、明日お願いする予定でした」

「……………成る程、そういうことか」


こちらをじっと見下ろしたアルテアが、そう呟いてから獰猛な微笑みを深めた。


「お前、最初からこのつもりだったな?夜雲雀を探すつもりはなかったんだな」

「仰っている意味がわかりません」

「どうせ、あのチケットを取り戻そうとしてるんだろうが、失せもの探しの祝福の結晶を使っても、シルハーンの領域のものに手を出すのは容易じゃないぞ」

「あら、そうでしょうか。何事もやってみないとわかりませんよ?」

「それも時間をかけるつもりか?夜雲雀よりは早いだろうが、ある程度の時間がかかるぞ」

「…………む。ある程度かかるのですか?」

「失せもの探しの祝福だけで、万象の手元に隠されたものを取り出すんだからな」


(…………ということはやはり、この作業自体にも収穫の祝福が生きたのだろうか)


ネアは少し考え込んだ。

良く考えてみれば、良縁の祝福だってディノの記憶を取り戻すことには生かせるかもしれないし、財運の祝福もディノという生涯の相棒である財産を確固たるものにする為に作用するかもしれない。

ゼノーシュが大丈夫そうだと話したのは、案外そういうものを含めての試算であるかも知れなかった。


ネアが黙ったのを何ととらえたのか、アルテアが呆れたように微笑みを深めた。

ひたりと滲んだ悪意の鮮やかさに、心のどこかでやはり彼はこのまま自由であるべきだと思わなくもない。


「そんなことも考えてなかったのか」


そして、そう言われてしまうと若干申し訳なくなってきた。

ネアには幸いにも今までの財産の祝福があるので、百発百中で失せもの探しの祝福結晶を入手しており、既にあのチケットは取り戻し済なのだ。


「うむ。アルテアさんの肩を、そっと叩いてあげたくなりました」

「何でだよ」

「それと、ちらちらゼノを視線で威嚇しないで下さい。うちのクッキーモンスターに何かあれば、アルテアさんを丸刈りにしますよ!」

「するだろうさ。お前はもう、俺の領域のもののくせに、他の魔物といるんだからな。どうせお前は意識してないだろうが、契約の魔物はその主に力を貸すものだ。下僕じゃないからこそ、対価が必要なんだぞ?」

「むぅ、存じておりますよ」

「だからこそ、お前も差し出すものが必要になる。今回は仕置きだな……」


ぶわりと風が巻き起こったような気がして咄嗟に目を瞑ってしまうと、いつの間にか正面に下り立ったアルテアに腰に手を回されるのがわかった。

拘束自体はするりと滑り込むように為されたが、振り解こうにもそのしなやかな腕はぴくりとも動かない。


巻き上がった風に咲き切ったチューリップの花びらが散り、着地の目くらましにされた風が落ち着くのと同時にふわりと舞い落ちてくる。

ぱらぱらと落ちてゆく色とりどりの花びらの中で、ネアは慌てて背後のゼノーシュを振り返った。


「ゼノ!」

「大丈夫だよ、ネア。でも壁を作られちゃった」

「……………怪我はないですね?」

「うん。追い出されちゃっただけ」


安堵のあまり深い息を吐いた。

先程の位置に立っているゼノーシュの前には、真っ白なステッキが地面に刺さっている。

どうやらこれが壁にされているらしく、ゼノーシュはこちらに来られないようだ。


「傷付けてないだろ」

「しかし、仲間外れにしました」

「ゼノーシュは関係ないからな。俺が叱るのはお前だけでいい」

「私の愛する無花果を悪用した魔物さんに、お仕置きされる筋合いはありません!」

「あれも守護の一環だ。お前はもう黙れ」


正面からぴったりと抱き寄せられ、ぐっと覗き込まれるのをネアは仰け反って顔を逸らしている。

もしアルテアが手を離せば地面にばたりと倒れてしまう角度なので、もう少し離れて欲しいが、決して手は離さないで欲しいという複雑なところだ。

地面に転がるのはかまわないが、足元にあるまだ無事なチューリップを潰したくない。


「むぐ、なぜ背中に手をあてたのですか。後ろを押さえるなら、せめてもう少し離れて下さい」

「…………ああ、少し守護を深めてやろうと思ってな」


睫の影も見えそうな距離で麗しい魔物が嗤う。


「因みにシルハーンは来ないぞ。お前が狩りの邪魔はされたくないと言ったからな」

「…………っ、先程の会話を曲解して悪用しましたね」

「お前が迂闊なんだろうな。魔術というものは、そういうものだ」

「つまりこれは、私が自力で叩きのめすしかないと」

「魔術可動域六の人間が、か?」


最後の問いかけは酷く甘やかだった。

ネアは、途切れた余韻の声音の甘さに目を瞠り、しかしその直後、はっとしたように息を飲むアルテアを見る。



「…………っ?!」


咄嗟にアルテアに胸の中に抱き込まれてしまったせいで、巻き込まれたネアはくしゃくしゃにされた。

足元で潰れて折れたチューリップが可哀想で、ネアはたいそうな渋面になる。


「私をチューリップ大量殺人犯に仕立てないで下さい!離し給え!」

「……………おい、俺はお前を守ったんだぞ?」

「攻撃はアルテアさん向けであって、私は巻き込まれた一般人ですよ!」

「…………あのなぁ」

「はい、ネアはこっちにおいで」


もがもがと暴れたネアの為に、アルテアに背後から制裁の一撃を加えた魔物が素早く手を貸してくれる。

べりりっと引き剥がされて持ち上げられると、小さく唸っているネアのおでこを労わるように撫でてくれた。


「ノア、アルテアさんにチューリップ殺人の共犯にされました」

「ごめんね、ゼノーシュが呼んでくれたんだけど、向こうは向こうでちょっと立て込んでて。ヒルドに引き継いだから、…………シルもすぐに来るよ」


そう微笑んだノアの目は、いい事があったのか嬉しそうに笑っている。

その綺麗な矢車色の瞳を見返して、ネアは期待に胸が膨らんだ。

幸せな予感に思わず緩んでしまった唇に、ネアの表情が喜びに輝いたことに気付いた塩の魔物が、いっそうに微笑みを深めてくれる。


「………………ノアベルト」


後頭部を押さえながら、剣呑な眼差しで立ち上がったのはアルテアだ。

面白がるような静かな声だが、瞳は欠片も笑っていない。


「やあ、アルテア。どうしてこんなところで、通りすがりの僕が頭にくるようなことをしてるんだい?」

「まさか、ここでお前が出てくるとはな。……………ったく、またお前はろくでもない奴に捕まりやがって」

「どの口が言うのでしょうか。ノアの方が百倍安全です。しかしながら、ノアに蹴り飛ばされた時に私を庇おうとしてくれたので、実はちょっと打撃部分が心配ですという言葉を残してゆきますね」


ノアの持ち上げは安定度が高いと気付いたばかりなので、すっかり寛いだ様子のネアに、アルテアが目を見開くのがわかった。

蹴られた箇所を押さえていた左手の手袋が微かに赤くなったので、ノアは頭を割る勢いで蹴り飛ばしたようだ。

呆然としているアルテアから一度視線を外し、ネアは救出班になってくれたノアにめっと厳しい目を向ける。


「さては、力いっぱい蹴りましたね。あの首が捥げてしまうと、私の美味しいご飯というひと財産がなくなってしまうので次回からは少し手加減して下さいね」

「ありゃ、ネアは心配性だなぁ。あの程度の損傷、手袋が汚れただけだよ。昔の僕なんか心臓取られたけど、普通に歩いて帰ったしね」

「むぅ、ますます心臓の存在意義に疑問を持ってしまいました」

「それにね、とりあえず蹴り飛ばして来いって激励して貰ったからね」

「…………どなたが言ったのかわかったような気がします」


恐らくそんな言葉を言うのは、ダリルかヒルドくらいのものだ。

そうなると、消去法でその場にいたヒルドのような気がする。

きっととてもいい笑顔でそう送り出したのだろうと思えば、ネアはさもあらんと頷いた。



「……………あの後も接触していたのか」


そこで、ぽつりとそう呟いたアルテアの声が聞こえ、ネアは視線を正面に戻した。

アルテアはもう危険なしと判断したのか、よいしょと言いながらノアはネアを地面に下してくれ、何やら手元で魔術を調整した後、いとも簡単にゼノーシュの前に刺さっていたステッキを引き抜いた。


「今も昔も僕達は仲良しだよ。ほら、忘れ物だ。この様子だともう失せもの探しの結晶は収穫出来ないだろうから、ステッキを失くさないようにした方がいい」

「今も昔もと言われてしまうと語弊があると言わざるを得ませんが、今は仲良しですね。…………そして、今のアルテアさんを見ていると、なぜか無性にぎゅっと抱きしめたくなります」

「………ネア、僕も少し胸が痛くなったけど、それはやめてね」


ここまできても、よもや自分の屋敷で手料理を振る舞った銀狐がノアだとは考えないアルテアに、ネアは母親のような気持で抱き締めてあげたくなる。

或いは、まさかあの狐が高位の魔物であるとは、決して認めないように脳が自衛しているのかも知れない。


「少しばかり不憫で愛おしくなってきたので、せめて撫でてあげましょうか……」

「ネア、ディノが怒ると思うよ」


そう窘めてくれたのは、壁を取り払ってもらったゼノーシュだ。

とことこと歩いてきて、さっきは守ってあげられなくてごめんねと言うので、ネアは明日にでもリノアールに走っていって、贈答用の可愛いクッキー缶を購入しようと心に誓う。

可愛いだけで充分なのに、こんな風に優しい生き物が存在していいのだろうか。

アルテアが不憫可愛いような気もしなくはなかったが、ネアの心は一気に上書きされてしまい、愛くるしいクッキーモンスターの虜になってしまった。


「さっき、不意の攻撃で君を守ったのは僕も感動したけど、やっぱりアルテアを甘やかすのは却下かなぁ………あ、」



ふわりと、懐かしい香りがした。



(ううん、…………ついさっきまで、隣にいた筈なのに)



でも違うのだ。

やっと帰ってきてくれた。

そう思ってしまう。



ぱっと振り返ったネアの目に、水紺の瞳をきらきらさせた、息が止まりそうなくらいに美しい魔物の姿が映る。

アルテアが施した意地悪な排除指定がノアの攻撃で解けたようで、慌てて転移でここに来たものか、こちらを見て綺麗な綺麗な目を安堵に緩ませてほわりと微笑む。

月の光に淡く光る真珠色の髪はまだ一本結びのままなので、風になびいた夜を切り取るその色彩が鮮やかだ。

これだけに特等の白い魔物が集まっても、やはり抜群の抜け感を持つ透明度の高いえもいわれぬ白の色。

そんな色彩の全てが、ただ安堵のままに愛おしいのはどれくらいぶりだろう。



「ディノ!」



思わず喜びの声を上げ、ぱっと駆け出そうとしたネアはぎくりと体を強張らせた。



(こ、これはまさか…………)



月の光に瞳がきらきらしているというよりは、寧ろ。



「………………ネア」


打ちひしがれたような悲しげな声には、ようやくご主人様に再会出来た犬の喜びと、叱られて尾っぽを巻いてしまった時のような罪悪感に溢れた眼差しがある。

その結果、魔物は心の何かの容量が決壊してしまったようだ。


「な、泣いてしまったのですか?!」


慌てて駆け寄って抱き締めてやれば、ぎゅうっと体を摺り寄せるようにしてへばりつかれた。

ぎゅうぎゅうとやられて鼻がへしゃげそうになるが、今回ばかりは厭わない。

こんな風に抱き着いてくるのが、ネアの大事な魔物だという感じがした。

じわりと目の奥が熱くなって目尻に涙が滲むくらいに嬉しかったが、残念ながらネアが泣く余裕はなさそうで、今泣いてしまっているのは魔物の方なのだ。


そちらを泣き止ませないことには、事件の解決にはなるまい。

はわはわしながら、一生懸命に背中を撫でてやったが泣き止む気配はなく、伏せた睫の下からぽろぽろと澄明な涙が零れ落ちる。

頭を撫でてやりたいのだが、抱き締められているので手が届かない。


「ディノ、泣かないで下さい。記憶を取り戻してくれたのですよね?」

「……………ネア、ごめん。すぐに戻ると言ったのに、君にとても怖い思いをさせてしまった」

「……………………むぐ」


その声に滲んだ、心をほわほわにしてくれるお湯のような愛情の温度に、ネアも何かの容量が決壊してしまって、ばすんとディノの胸に顔を埋めた。

頭の上で魔物がおろおろしているのもわかるし、頭皮に落ちて染みる魔物の涙の温度もわかる。

それでも顔を暫く上げられないくらい、ネアは大事な魔物の懐かしい安心感に充分に甘えた。


「ぷは!……………これで欠乏分を補いました。安心して、アルテアさんのお仕置きに戻れます!」

「ネア、……………ずるい」

「記憶が戻って早々に、ずるいの使い方が行方不明ですね。それと、あらあら、まだ涙が止まらないんですね。どうしましょう」

「泣いてたはずなのに、見せてくれなかった。ずるい…………」

「……………こんなディノが大好きな筈なのに、今この一瞬だけどこか遠くに行きたくなりました」


虚ろな目で振り返ったネアに、ノアとゼノーシュが不憫そうに頷いてくれる。

感動の再会のところで、まず最初に強請られるものの様子がおかしいのは間違いない。

しかしながら、こういうことを言わなくなってしまったディノはとても心に刺さったので、何だか嬉しくなってしまったネアは、またぎゅうぎゅうと魔物を抱き締める。


「ごめんね、ネア。もうこんな怖いことは起こらないよ。戻り時の妖精はもういなくなったからね」

「………………む?」


空耳でなければ、今とても恐ろしい言葉が聞こえた気がした。


ネアはさっと振り返って同じ言葉が聞こえていた筈の外野を振り返ったが、ゼノーシュは不憫そうにこちらを見てくれていたし、アルテアは現在、いつの間にか記憶を取り戻して駆けつけたディノを見たダメージが大きかったのか、激しく集中力を欠いているようだ。

どんな手段を用いてディノに記憶が戻ったのか、そこの解析を自分会議でやっているようなので放っておこう。

最後に目が合ったノアは、かなり気まずそうにそっと目を逸らした。

顔色が宜しくないので、もしや、立て込んでいてここに来るのが遅れた理由というのはこのことなのだろうか。


「…………………ディノ、戻り時の妖精さんは、…………ええと、いなくなってしまったのですか?」

「そのままなくしてしまっても良かったけれど、君はそういうのは嫌だろう?だから、この国には入れないようにしたからね」

「……………良かったです。一瞬、種族的に壊滅させられたのかと震え上がりました」

「個別に選別するのも手間がかかるから、国内のものは駆除してしまった。全体数も減ったから、もう滅多に遭遇することもないだろう。残っているものが気になるようだったら、それもなくしてあげようか?」

「し、種の保存はとても大事なことです!絶滅させてはいけません!」


詳細が報告されると結果やはり震え上がるしかなかったので、ネアは慌てて絶滅幇助を阻止した。

おずおずとノアが補足してくれたことによると、ディノの記憶が戻ったことに安堵したヒルドが、今回の事件により、戻り時の妖精そのものを擬態させたりするという行為が可能であることが判明したので、今後の事故を防ぐ為に、毒の効果を強めたりすることが出来ないかどうかも調査をしていると言ってしまったらしい。


その結果、ご主人様を大いに悲しませたことを理解していた魔物は、今後の事故の可能性ごと排除する方針を決定し、戻り時の妖精の弾圧に乗り出してしまったようだ。

ヴェルクレア国内では戻り時の妖精が生きていけないというような、大変残虐な条件付けをしてしまったのだ。

個体では階位も低く、尚且つ、害を為しその害を克服されたという経緯がある場合、魔術的には相手側に報復が赦される条件とされる。

その規則をがっつりと悪用して、ディノはその報復を種族的に適応してしまったのだそうだ。

更に恣意的なことに、戻り時の妖精の主な生息域はヴェルクレア周辺であると理解した上での所業だった。


(つまりもう、生息域の外で繁殖していた個体ぐらいしかこの世界に生き残ってない……)


戻り時の妖精は魔術の潤沢な土地にしか住めないので、ヴェルクレアが駄目だとなるとその他に生息域として確認されている土地は随分と遠いそうだ。

ネア達が遭遇することは、もうなさそうである。


「……………とても怖いです。というか、今のディノに言うのは間違っているような、間違っていないような不思議な気持ちですが、あえて記憶が戻らないようにしていたのは、ディノ自身なのでは………?」


ネアがそう指摘すれば、まだ泣き止めない魔物は、明らかにぎこちなく首を振った。


「…………ごめんね、ネア。どうしてそうなったのかは、あまりよく覚えていないんだ」

「視線でばればれですよ!記憶が戻ってくれて嬉しいので大事にしようの気持ちでいっぱいだったのですが、忘れたふりをしてご主人様を騙そうとした悪い魔物なので、お仕置きをせざるを得ません」

「ご主人様……………」


動物病院に連れて行かれてしまう犬のように慄きつつ、ディノは綺麗な目を悲しげに瞠って、ふるふると首を振った。

まだ泣いているせいでとても心を締め付ける姿なのだが、ここで甘やかすことは出来ない。


「お仕置きとして、新たに使い魔を捕まえてしまったことを許して下さいね」


微笑んだネアが確信犯的にそう言えば、ディノは呆然と固まった。

暫く沈黙を挟んだ後、ショックを受けて固まってしまったディノではなく、ようやく回復した方の魔物がやけに低い声で割り込んでくる。


「…………おい、使い魔なんてもの、どこで捕まえてきたんだ。まさか…………」


はっとしたようにノアを見たが、青紫の瞳を細めて塩の魔物は悠然と微笑み首を振った。

その微笑みに何の予兆を感じたものか、アルテアが困惑したように顔色を悪くする。


「ネア、使い魔なんてどうして捕まえてしまったんだい?すぐに捨ててきてあげるから、呼び出してごらん」


正気に戻ったディノに慌てて説得にかかられて、ネアは少し体を捻って、妙に具合の悪そうな顔をして立ち尽くしている一人の魔物を指し示す。



「あら、ここにいますよ?……………アルテアさんです!」

「……………アルテア?」

「ええ。アルテアさんです。実は今回ひと企みしてたので、悪さが出来ないように罠にかけて使い魔にしてしまいました」



おろおろと視線を彷徨わせたディノは、ノアとゼノーシュが共犯者の顔でこくりと頷くのを見て声を失った。

絶句したディノの視線の先では、選択の魔物が両手で顔を覆ってしまっている。


















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