六日目(2)
「は、はい?」
ペドロが何を言っているのか、僕にはさっぱり分からなかった。この部屋のどこかに、児玉が隠れているというのだろうか?
そんなことを考えながら、僕は部屋を見回した。この部屋は居間のはずだが、異様に物が多い。使われていないであろう鍋や電気ポットや扇風機、そして巨大なブラウン管のテレビなどが無造作に放置され、さらにはゴミの詰め込まれたレジ袋があちこちに転がっている。もっとも、テレビなどで見かけるようなゴミ屋敷ほどひどくはない。この家は、しばらく前までは誰かが来て手入れをしてくれていたのだろう。
だが、児玉の隠れられるようなスペースは見当たらなかった。
「哲也くん、わからないのかい……この部屋のどこかに、児玉くんが隠れているんだ。もし見つけ出せたら、何かご褒美をあげるとしよう。どうかな?」
そう言って、ペドロはいかにも楽しそうに笑う。だが、僕には見当もつかなかった。この部屋には、タンスのような大型の家具がない。成人男子が隠れられるようなスペースなど、どこにも見当たらないのだ。
待てよ。
まさかと思うが……。
僕はその場にしゃがみこむと、床板を叩いてみた。もしかして、どこかが空洞になっているかもしれないと思ったのだ。しかし、それらしい場所はない。
ふと、僕は馬鹿馬鹿しくなってきた。何故、こんな下らない遊びをしなくてはならないのか……こんなことをしている間に、松橋と藤岡の遺体が誰かに見つかってしまったら?
「あ、あの……わかりません……」
僕はそう言うしかなかった。正直、児玉がどうなろうと知ったことではない。あんな奴のことなど放っておいて、一刻も早く松橋たちの死体を片付けたかったのだ。
しかし……そんな僕の思いなど、ペドロは全く意に介していなかった。
「哲也くん……君は真面目に探す気があるのかい?」
そう言うペドロの顔からは、表情が消えていた。能面のような顔つきで、僕を見つめている。と同時に、僕は部屋の空気の変化を感じた。室内の空気が、どんどん変化している。重苦しく、濃厚なものに……あまりにも濃密で、重苦しい何かが部屋を支配していた。それらは全て、ペドロが発生させたものだ。僕のような人間にも、はっきりと分かるくらいに……これが殺気、なのだろうか。
その時、僕は悟った。これはゲームなのだ……ただし命懸けの。この状況では、僕を生かすも殺すもペドロ次第だ。
だからこそ、僕は必死で探さなくてはならない。
「哲也くん、君は分かっていないようだね。遊びというものこそ、真剣にやらなくては意味がない。いいかい、このような状況においても、それを楽しむことが出来る……それは素晴らしい能力だ。たとえ両手両足を縛られ、独房の中に監禁されていたとしても……その環境を楽しむことが出来れば、もはや恐れるものなど何もないんだよ」
「は、はあ……」
僕には、ペドロが何を言っているのか理解できていなかった。楽しむ? こんな奇怪な状況を楽しめるわけがない。
すると、ペドロは笑みを浮かべた。
「いいかい哲也くん、人はなぜ苦しむのか? それは結局のところ、苦しいと感じるから苦しいのさ。つまり、全ては当人の感じ方しだいだ。となれば、いかなる状況をも楽しめる人間……それこそが、実は無敵なんじゃないかな」
「は、はあ……」
「そこでだ、君も今の状況を楽しんでみたまえ……いや、楽しみ方を探してみたまえ。まあ、無理かもしれないが」
そんなこと、僕には無理だ……出来るはずがない。こんな状況を、どうやって楽しめというんだ?
そもそも、どうすれば一人の人間を、この部屋に隠せるというのだろう。児玉は小柄ではあったが、一応は成人男子だ。その成人男子を隠せるスペースなど、あるはずがない。
いや、あるじゃないか……。
僕の目に止まったもの、それはソファーだった。先ほどまで、老婆とペドロが座っていたソファーだ。人間一人を隠すくらいのことは出来るだろう。
僕はソファーに近づく。そして、下から覗きこんだ……明らかに不自然な形で布が貼られ、下のスペースが見えないようになっている。僕は思わず苦笑した。まるで子供の工作のようだ……。
「やれやれ……やっと見つけたのか。正解だよ。児玉くんは、そこにいる」
ペドロの声が聞こえてきた。僕はこらえきれず、くすくす笑い出す。あの悪魔的な殺人鬼のペドロが、子供の工作のようなしょうもない作業をしている……その場面を想像しただけで、おかしくなってしまったのだ。しかし――
「何がおかしいんだい?」
いつの間にか、ペドロが僕のすぐそばに来ていた。そして僕の顔を覗きこむ……僕の表情は凍りついた。思考を見透かされてしまったのだろうか。ペドロの姿を想像し笑ってしまった僕……彼を怒らせてしまったのだろうか?
一方、ペドロは無表情のままだった。僕をじっと見つめている。しかし次の瞬間、笑みを浮かべた。
「それでいいんだ。いかなる状況であっても、楽しめるような神経……そうすれば、君にとって恐れるものなど何もない。覚えておきたまえ」
そう言うと、ペドロはソファーのクッションを掴み、力任せに引き剥がす。
あまりにも簡単に剥がれたクッション……その下に、縛られた男がうつ伏せになっていた。ツナギのようなだぶだぶの服を着せられ、後ろ手に縛られている。
ペドロは男の首根っこを掴み、ひょいと持ち上げた……まるで、子猫を捕まえているかのように軽々と、僕の目の前に突き出す。その男の目にはアイマスクが付けられており、視界は完全に塞がれている。また口の中は、複数の穴が空けられたピンポン玉の付いたマスクが装着されており、喋ることはおろか口を閉じることも出来ない状態だ。さらに、耳と鼻には何かスポンジのような物が入れられている。ぐったりした様子で、何も反応できないようだ。
正直、これが本当に児玉なのかどうか……僕にはそれすらわからなかった。
だが次の瞬間、ペドロは男を放り投げる。男は立つことが出来ないのか、呆気なく倒れて床に転がった。
そしてペドロはしゃがみこむと、アイマスクを外した。さらに猿ぐつわも外して放り投げ、鼻や耳に詰め込まれていたスポンジのようなものも取り去る。
露になったその顔は、児玉智也だった。 ただ、その中身は恐ろしく変化してしまった……少なくとも、僕の目にはそう見える。表情の消え失せた顔、どろりと濁った瞳、そして脱力しきった体。僕の記憶の中にある児玉とは、別人にも思える。明らかに、普通ではない状態だ。
「やれやれ、彼は壊れてしまっていたか。ちょっと早い……いや、早すぎるな」
ペドロは呆れたような口調で言ったが、児玉は全く反応を示さない。生きてはいるが……まるで死体のようだ。
「見たまえ哲也くん、この脆さを。いくら肉体を鍛えあげようとも、心が壊れてしまってはおしまいだ。もっとも児玉くんは、肉体も心に劣らないくらい脆弱であったが」
「こ、心が壊れた?」
僕が聞き返すと、ペドロは表情の消え失せた顔で頷いた。
「そう、心が壊れたんだ……いいかい哲也くん、理由もわからないまま見知らぬ環境に放り出され、脱出手段もない。さらに救助される望みもない。そうなった場合、肉体よりも先に心理的に参ってしまう。しかも児玉くんの場合、視覚、聴覚、嗅覚が塞がれていた。その上、ここに連れてきた直後……俺は麻酔薬を射ったんだよ」
「麻酔薬……」
「そう、麻酔薬だ。効き目は数時間だが……その数時間、彼の五感すべては外界から遮断された。究極の孤独だよ。児玉くんの心は、その孤独に耐えきれなくなり壊れることを選んだ。まあ想定内ではあるが、やはり早すぎる」
そう言うと、ペドロはやれやれとでも言いたげな様子で首を振る。もっとも、その顔には表情がなかったが……。
そして僕は途方に暮れていた。児玉は確かに生きている。だが、その瞳は濁っている。死んだ魚のような目、という表現があるが、死んだ魚の目には生気がない。だが、児玉の目には生気があるのだ。にもかかわらず死んでいる。生きているはずなのに、心が死んでいる児玉……。
その時、児玉が動いた。顔を上げ、僕の顔を見る……だが、すぐに目を逸らした。僕が誰だか、分かっていないのだろうか。
(心が壊れてしまったんだよ)
先ほど、ペドロはそう言った。確かに、児玉の心は壊れているらしい。児玉の瞳からは、感情や思考の動きがいっさい読み取れなかった。虚ろな表情のまま、じっと下を向いている。自由になれたというのに、動こうともしないのだ……。
すると、児玉はまたしても動いた。首を曲げ、僕を見つめる。何を考えているのか、全くわからないその瞳……僕の心を、形容の出来ない恐怖が走った。体はガタガタ震えだす。
僕は我慢できなくなり、児玉から目を逸らした。これ以上、この男と同じ部屋に居たくない。全く理解できず、また理解し合うことさえ出来ない存在なのだ。そんな存在が、間近に居る恐怖は想像を絶するものだった……。
考えてみれば、ペドロもまた理解できない存在ではある。だが、まだ会話はできるし、どうにか意思の疎通を図れる。しかし児玉の場合、それがまるきり出来ないのだ……。
その時、ペドロが口を開いた。
「哲也くん……人間はね、強いようでいて脆い。特に精神は、ほんのちょっとしたことですぐに壊れてしまう。俺はメキシコの刑務所で、心が壊れてしまった人間を大勢見てきた。彼らは結局、苦痛に対し……堪え忍ぶ以外の対処方法を知らないのだと思うね」
「え……他に対処方法があるんですか?」
僕が尋ねると、ペドロは頷く。
「ああ。苦痛に対し、ただただ堪え忍ぶだけでは、いつか心は壊れてしまう。だが、苦痛が苦痛たりえなければ問題はない。その鍵を握るのは、心の使い方だ」
「使い方、ですか」
「そうさ……かつて、人間にとって最大の敵は己自身である……と言った人がいた。だが、最大の味方も己自身の中にいるんだよ。前にも言ったが、俺はメキシコの刑務所に居た時、炎天下の中、屋外に設置された箱に入れられたんだ。満足に手足を伸ばすことさえ出来ない、狭い箱にね……大抵の人間は、そんな環境には耐えられない。数日で音を上げるんだ……俺はその時、どうしたと思う?」
ペドロは、僕の顔を覗きこむようにしながら聞いてきた。だが、僕にわかるはずもない。
「い、いえ……」
「俺はね、その箱の中でずっと思索を巡らせたんだ。出所してからやりたい事を考えたり、家の何処に何があったかを思い出したり、自分独自の殺し方を考えたり……そうそう、物語を考えたりもしたな。いずれ、きちんとした形で書き上げて自費出版してみたいものだね」
静かな口調で語るペドロ……だが、僕は拍子抜けしていた。そんなことくらいで、気も狂うほどの苦しみから逃れられるのだろうか?
すると、ペドロは笑みを浮かべる。
「君は今、そんなことくらいで苦痛から逃れられるのだろうか……と思っているね、哲也くん」
ペドロの言葉に、僕はドキリとさせられた。この怪物は、相も変わらず正確に僕の心を読み取るのだ。僕は何も言えずに、目を逸らしてうつむいた。 だが、僕が視線を逸らせた先にいた者、それは児玉だった。児玉の虚ろな表情も恐ろしく、僕は目のやり場に困り下を向いた……。
「哲也くん、さっきの黒川由美さんだが……彼女は完全に、自分だけの世界で生きている。外でどのようなことがあろうとも、彼女の心を傷つけることは出来ない。何故なら、彼女の中では、それはなかったことになっているからさ。黒川さんは、外界から受ける刺激を全て遮断している……そして、彼女にしか見えない世界の中で生きている」
ペドロは、そこで言葉を止めた。そして児玉に視線を移す。
「児玉くんを見たまえ……彼もまた同じだ。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……数時間ではあったが、五感の機能のほとんどを奪われた。その何も感じられない極限の孤独が、児玉くんを責め苛み……結果、彼の精神は崩壊してしまった。こうなってしまっては、我々の言葉は何の意味も持たない」
そう言うと、ペドロは笑みを浮かべた。
「哲也くん、古の時代の賢者たちは……絶え間ない心の修行を繰り返した結果、ついには我々の想像を遥かに超えるような領域に達した者もいたといわれているんだよ。常人なら、発狂してしまうほどのLSDを投与されても動じないような……まあ、俺はそんな修行は御免だがね」