五日目(2)
ペドロの言葉を聞き、松橋は怯えきった表情でうんうん頷いた。苦痛で顔を歪めながらも、必死で口を閉じ猿ぐつわを噛み締める。
「さてと……哲也くん、俺はふと思いついたんだ。松橋くんは君に対し罪を犯した。しかしだ、自らを弁護する機会を与えてあげてもいいのではないだろうか。君はどう思う?」
ペドロの問いに、僕は頷くことしか出来なかった。目の前で行なわれた暴力……それは、あまりにも無造作なものだった。ペドロはサンドイッチと缶コーヒーを持った状態で、松橋の肩を軽く蹴っただけだ。にも関わらず、松橋は悲鳴を上げ苦痛に顔をゆがめていた……。
しかし、僕にはわかる。かつて肩を外された経験から、それがどれほどの苦痛をもたらすか……わかる人にしかわからないだろう。それは耐えることの出来ない激痛なのだ。
わかりたくもないことだったが、僕はその痛みを既に経験済みだった。肩を外された後、彼らは無理やり僕の肩を動かしたのだ。僕は触れられただけで悲鳴を上げた。泣きながら許しを乞うたりもした……。
だが彼らは、やめなかったのだ。それどころか、僕の反応をリアクションだと言って笑っていた。
「お前さ、リアクション芸人目指せよ! 才能あるぜ!」
彼らは僕に、そう言ったのだ……その時の彼らの楽しそうな顔は、今も忘れられない。
「構わないね、哲也くん」
「は、はい……」
その時のことを思い出しながらも、僕はペドロに頷いて見せる。
その時、僕は気づいた。ペドロが他人に暴力を振るう場面を初めて見たことに……いや、暴力と呼べるほどのものではないかもしれない。しかし、ペドロが松橋にもたらしたものは間違いなく苦痛だ。
もっとも、ペドロにそれを楽しんでいる様子はなかった。映画やドラマなどに登場する殺人鬼は、人に苦痛を与えて喜んでいる様が描かれていたりするが……ペドロには、そんな雰囲気が微塵も感じられない。
「では松橋くん……今から、君に自らの行為に対する釈明と弁護の時間を与えよう。哲也くんと俺を納得させられれば、命だけは助ける。今から猿ぐつわを外すから、存分に語るんだ」
そう言うと、ペドロは手を伸ばし松橋の猿ぐつわを外す。
その途端、松橋は喋り出した。
「お願いです……助けてください……何でもしますから……」
松橋は顔を上げ、怯えきった表情で呟く……僕の記憶の中の松橋からは、想像もつかない姿だった。僕は何も言えないまま、じっと床で蠢く松橋を見ていた。
その時、ペドロが大げさなため息をつく。
「松橋くん……俺はさっき、君に何と言ったか忘れたのかい? 君に自らの悪行に対する釈明と弁護の時間を与えよう、と言ったんだよ。助けてだの、許してくださいだのといった言葉は……釈明とも弁護とも違うな。ただの命乞いだ」
そう言った後、ペドロは僕を指差す。
「ところで松橋くん……ここにいる哲也くんを覚えているかな?」
ペドロの言葉を聞き、松橋は怯えきった表情で首だけを動かし、僕を見つめるが――
「て、哲也さん……ですか……ぼ、僕はこんな人……知りません……」
僕はその時、初めて怒りを感じた。
松橋の、その言葉は予想していたのだ。大抵の場合、加害者は被害者のことを忘れている。知識として知ってはいた。
だが、知識として知っているのと、実際にそのような状況に遭遇するのは話が別だった。
「松橋くん……君は忘れたのかい? 小岩哲也くんだよ。中学生の時、同級生だったはずだ。さあ、よく見るんだ」
そう言うと、ペドロは松橋の髪の毛を掴んだ。そして、片手で軽々と引き上げる。
ペドロに髪の毛を掴まれた松橋の顔が、僕のすぐ目の前まで引き寄せられた。
僕の目の前、鼻と鼻が触れ合わんばかりの位置で、僕と松橋は見つめ合った……松橋の目が、一瞬ではあるが大きく開かれる。僕が何者であるかを理解したのだ。
しかし……。
「し、知りません……俺はこんな人は知りません……人違いです……俺はこんな人と、会ったこともありません……」
怯えながらも、デタラメを言い続ける松橋……僕は怒りよりも、当惑のようなものを感じた。このような状況でありながら、嘘をつき続けられる神経は普通ではない。もともと頭がおかしいのだろうか。それとも……自分の身に危険が迫れば、人間は皆こうなるのだろうか?
目の前の危険に怯えた挙げ句に判断力が低下し……子供も騙せないような下らない嘘で、その場を逃れようとするのだろうか。
「ほう……松橋くん、君は哲也くんには見覚えがないと言うんだね……そうかそうか」
そう言うと、ペドロは上着を脱ぎ捨てるかのように、松橋を放り出した。
その場に倒れ、うめき声を洩らす松橋……一方、ペドロはタバコを口にくわえ、火を点ける。
そして僕は……目の前にいる松橋を殴りたい気持ちを必死でこらえていた。ひょっとしたら、さっきまでは本当に忘れていたのかもしれない。
しかし、この男は僕の顔を間近で見て、僕が誰かを思い出したはずだ。あの、一瞬ではあるが目を大きく見開いた表情……あれは間違いなく、何かに気づいた時の反応だ。
松橋はあの時、僕が誰であるかを悟ったのだ。
「お、俺は何もしてません……これは人違いです。あなたたちは、誰かと俺を間違えてるんですよ……」
僕の思いをよそに、松橋は哀れな声を出した……ペドロの方を向いて。僕の方は見ようともしない。松橋は、どうにか誤魔化そうとしているのだろう。しらを切り、デタラメを言ってペドロを騙す。ペドロさえ丸めこめれば、僕などどうにでもなる……それが松橋の計算なのだ。
ただ、松橋は何もわかっていない。
ペドロを丸めこむことが出来る人間など、そういない。仮にそんな人間がいるのなら、そいつは地獄の閻魔大王さえ騙せるだろう。松橋のような単なる嘘つきには……絶対に無理だ。しかも、ペドロはつまらない嘘を吐かれるのを嫌う。 松橋の命運は、もはや尽きてしまったのだ。
「松橋くん、一つ聞きたいんだが……俺は何を間違えているんだい?」
不意にペドロが尋ねる……すると、松橋は慌てた様子で口を開く。
「そ……それは……と、とにかく、俺はあなたたちとは会ったこともありません……」
外された関節が痛むのだろうか……松橋は顔をしかめながら、懸命に声を絞り出す。
「いや、俺はそんなことを聞いているんじゃない。君はさっき言ったね、人違いだと。人違い、というからには……我々は誰と誰を間違えているのかな?」
ペドロはなおも言葉を続ける……まるで、鼠をいたぶる猫のように。
「そ、それは――」
「君の持っていた、この原付の免許証によれば……君は松橋修一郎くんのはずなのだがね。俺が探しているのは、紛れもなく松橋修一郎くんだよ。つまり、俺は何ら間違いをしていない。君は何をもって、人違いだと言ったのかな?」
淡々とした口調で、松橋を追い込むペドロ……松橋は顔を歪めた。
「ち、違います……そんなつもりじゃ――」
「君がどんなつもりかなど、俺は知らない。俺は君に言ったね……釈明と弁護の機会を与える、と。君のつまらない嘘で、俺の貴重な時間を空費する気はないんだよ。君のつまらない嘘に付き合っている間にも、俺の寿命は少しずつ減っている……人生とは、何と不条理なものなのだろうね」
言いながら、ペドロは首を振る。仕草こそコミカルであったが、顔は無表情だった。まるで仮面のように表情のないペドロの顔……それは、松橋にさらなる恐怖をもたらしたようだ。
そして恐怖は、彼に新たな嘘を思い付かせた。
「お、お願いです……助けてください……嘘をついたのは謝りますから……俺は何もしてないんです……」
言いながら、松橋は卑屈に頭を下げ続ける……彼の体で今、動かせる部分は頭と首くらいしかないのだ。その部分をフル活用し、何とか窮地を逃れようとしているのだ。
松橋は、なおも言葉を続ける……喋ることで、命を永らえようとしているかのように。
「お願いです……助けてください……俺は何もしてないんです……」
その言葉を聞き、僕は唖然となった。この期に及んで、松橋はまだ嘘を吐くつもりなのだ。嘘を吐き、どうにかこの場を逃れるつもりでいる……。
人は恐怖や苦痛を与えると、そこから逃れるために何でもする。嘘を吐いてでも、苦痛から解放されようとする。それは当然のことだ。
しかし松橋の場合、そういった一般的な反応とも違っていた気がする。松橋はこれまでの人生において、嘘を吐くことで窮地を凌いできたのだろう。困ったことがあったなら……誤魔化し、丸め込む。これまでは、そのやり方で何とかなってきたのだろう。
だが、今回だけは……そのやり方は通じない。
今、松橋の目の前にいるのは、本物の怪物なのだから。
「何もしていない、というのかい……ほう、それは面白いな。君は非常に物忘れが激しいようだ。若年性の痴呆症なのかもしれないね。ちなみに、俺は初めて人を殺した時のことを、今も鮮明に覚えている。あれは、十歳の時だった……」
突然、ペドロの表情が変わった。昔を懐かしむかのように、どこか温かみのある目で遠くを見る……ペドロの感情が発露した、数少ない瞬間だ。あるいは、ただの演技だったのかもしれないが。
「俺は十歳の時、自分で作った秘密基地の中で知人のモラレスを殺したんだよ。今も忘れられないな……彼は三十歳で体重が二百ポンドあったからね。メキシカンとしては大柄だ。しかも体力もあり、なかなか死なないんだ。隙を付いて後ろから飛び付いて、ナイフで喉を切ったんだが、あいつは喉からゴボゴボ血を流しながら暴れてね……俺も殺されるかと思ったよ。でも結局、死んだのはモラレスの方だった」
そう言った後、ペドロは隅の方を指差す。そこには藤岡の死体が転がっていた……。
「モラレスは死体となり、やがて蟲たちに食われていった……ちょうど、あそこで永遠の眠りについている藤岡くんのようにね。その様を、俺はじっと見ていたよ。我が秘密基地には酷い匂いが充満していたが……その匂いに対する不快さなど、遥かに上回るほどの興味深いものだったよ。一人の人間が死体と化し、そして蟲たちによって分解されていく光景は……本当に貴重なものだったね」
そこで、ペドロは言葉を止めた。そして松橋に視線を移す。
「松橋くん……君は、ここにいる哲也くんに酷いことをしたらしいね。たかが数年前の行為が、綺麗さっぱり記憶から抜けている……それは妙だな。俺は四十年以上前の初めての殺人を、今も鮮明に覚えている。なのに君の頭は、たかだか数年前の記憶すら、忘却の空へと消し去ってしまったというのかい……実に奇妙な話だな」
「ち、違うんです……俺は本当に何もしてないんですよ……やったのは俺じゃないんです……やったのは、赤羽と児玉なんですよ……俺は本当に何もしてないんです……」
哀れみを誘うような、惨めな声を出す松橋。だが、彼の言葉は嘘だった。確かに、赤羽や児玉に比べれば松橋の罪は軽いかもしれない。だが、あくまでも二人に比べれば……の話だ。
松橋は僕に暴力を振るった……何度も何度も。
そして暴力に飽きると、彼は僕に罰ゲームじゃんけんなる遊びを強要するようになったのだ。じゃんけんで負けると、僕は罰ゲームと称した何かをやらされる……だが、勝ったら勝ったでゲームをやらされる。
その内容は、思い出したくもないものだった。全裸で表を走らされたり、万引きをさせられたり、当たり屋の真似をさせられたり、訳のわからない薬を大量に飲まされたり……冷静に考えてみれば、生きているのが不思議なくらいだ。
そう、当時の僕は、彼らの気晴らしのためだけに存在していたのだ。
だが、僕は怒りを感じることさえ出来なかった。ペドロがいきなり喋り出したのだ。
「うーん……松橋くん、君は本当に頭が悪いな。ここで君がとれる手段は他にも色々ある。まあ、俺が君の立場なら、己を生かしておくことがいかに相手の利益となるか……そこのところを主張するね。このような状況で、善悪など何の意味も持たない。君が正しく、哲也くんが間違っていたとしても……そこには何の意味もない。何故なら、今の君は自分の正しさを証明できないからだ。しかし、利益となれば話は別だよ。利益は欲望を生み、欲望は心の隙を生み出す。だが、そんなことは今さらどうでもいい。君はつまらん。俺はもう飽きてしまったよ」
そう言うと、ペドロはしゃがみこむ。
そして火の点いたままのタバコを、松橋の眼球に押し付けた。