6.超絶技巧練習曲 第四番 二短調「マゼッパ」
気付けば高校生活も二年目に突入していたが、依然、私は私に纏まりをつけることが出来ずにいた。ただ進路については、担任に相談していた。
初老の彼は私の状態を鑑みた末、「親類には頼れないのか?」とだけ尋ねた。私は首を無言で横に振る。こうして国立大学向けのコースからは外れた。
前の担任もそうだが、私の成績が伸び悩み、次第に落ち込み出したのは、家族のことが関係していると考えていたようだ。事実はそれとは異なる。
だが大人たちが私を憐れむような目で見て、仕方ないさと呟くような語調で話すのは、都合が良かった。やはり人の心は見えないと、確信を強める。
また、一人暮らしをする条件の一つとして、成績は極端に下げることが出来なかったが、勉強はテストで七割の正解を得る努力にだけ留めた。
勉強は、あるレベルまでは懸けた時間と成果が比例する。だがそれ以上を狙うとなると、才能や質の高い努力が必要とされる。私はその努力を放棄した。
「おい、ノゾム。お前、大丈夫か?」
「大丈夫かって……何が?」
中学から同じ学校に進んだ友人が、心配そうに話しかけてくることもあった。相手にも愛想笑いと分かる顔で、それを受け止める。
「いや、その……」
すると相手は言葉を失った。
クラスメイトとは、それなりに上手くやっていた。適当にふざけ、適当に遊ぶ。誰も私の心を見抜けないことを、無限に嬉しくも寂しく思った。
そんな日々の中、夕方に散歩に出かけることが多くなった。暮色が深まり、闇が濃くなるにつれて、自分が漠然とした存在になっていくように感じる。
家路を急ぐ、楽しそうに声を上げる小学生。部活帰りの、ヘルメットを被って自転車に乗る中学生の姿。どこか不貞腐れたように家に帰る、年齢の近い高校生。
私にも帰る場所があるのに、その場所には私以外の誰もおらず、その事実が、私をたまらない気持ちにさせる。
『でも私、わかってることがある。ノゾムくんについて、わかってることがある!』
それと共に、何かが絶えず痛みを伴って心の中にわき起こり、どうしても鎮まろうとしない。
『ノゾムくんが、ノゾムくんが、臆病だってこと!』
彼女の言葉が杭のように、私に刺さり続けていた。
まるで私の心に、何らかの犯罪がのしかかり続けているようにも。
その中で考えた、果たして私は、臆病なのだろうかと。困難に立ち向かうことに、どんな意味があるのだろうかと。
あの日以来、彼女から連絡が来ることはなかった。学校も、通学時間帯も違い、家も離れている為、顔を合わせることもない。
『夢を諦めちゃ、だめだよ』
夢とは、一つの呪いだ。そんな呪いに付き纏われるよりも、地に足を着けて、働くことの方が立派ではないだろうか。それに……。
「……美園は、恵まれてるからそう言えるんだよ」
当人に向かっては言えないだろう言葉を、一人暮らしの中、増えてきた独り言に混ぜて呟いた。寂しい、悲しい感触が残された。
停滞する私の季節。何かが芽吹くことも、陽に向かって伸びることも、枯れることも無い。ただひっそりと、時間と共に何かが失われていくだけで。
その間にも、現実の四季は春から夏へと移り変わる。一人暮らしには慣れてきたものの、依然として未来は、分厚い壁のように目の前に立ち顕れていた。
だがある日、大人の証のような気がして取り続けていた新聞内に、私はある記事を見つけてしまう。夏休み中のことだった。
「山岸……美園」
それは普段なら見過ごしてしまうような、小さな記事だった。
ある新聞社が主催する、学生のための音楽コンクール。その音楽コンクールで、彼女が高校二年にして、愛知県の本選で上位入賞を果たしていた。
私はそこで、人生で何度目かになる、思考の空白をたっぷりと味わった。
新聞を放り投げ、座っていたリビングのソファの背に、脱力した体を預ける。突如として、今まで歩んできた人生に、押し潰されそうになる感覚に襲われた。
――時間は前にしか進まない。それなのに、僕一人だけが同じ場所にいる。
嬉しいのか悲しいのか、いっそ清々しいのか悔しいのか、おそらく、その全てだったんだと思う。自己憐憫の感情に包まって、私は人生から身を屈めた。
そんな私に一通のメールが届いたのは、それから一週間後のことだった。メールの受信を知らせるマークを、無感動に見つめる。
「再来週の日曜日に、ガラコンサートに出場します。そこで私の一番得意な『悲愴』を弾きます。招待券を送りましたので、是非、来て下さい」
私はメールボックスにその名前を認めた時、読もうかどうか随分悩んだ。
送り主は言うまでもなく、彼女――山岸美園だった。
締め付ける憂愁となって、彼女の存在が、私の中に深く根付いていることを知る。何度寂しくないと言ったところで、やはりまた、人間は寂しくなるのだ。
彼女はあの日の言葉通りに、夢に向かって進んでいる。
我が身を振り返り、吐き捨てるように苦笑う。
ガラコンサートと呼ばれるコンサートについては、以前、彼女から聞いていた。コンクールで優秀な成績を残した人だけで行う、自由なコンサート。
「受賞者記念コンサート」とも言って、フィギアスケートのエキシビションや、サッカーのエキシビションマッチのようなものだったと記憶している。
――私の一番得意な『悲愴』を弾きます。
コンクールには課題曲が設定されていて、コンクールのレベルが高くなる程に、曲目もシビアになる。新聞で見たとき、彼女は本選ではベートーヴェンの他の曲を弾いていた。
しかしガラコンサートでは、エキシビジョンだけに好きな曲が弾けるという。彼女はその場で弾くのだろう、弾き慣れたあの曲を……。
結局、メールには返信しなかった。
だがその日はなかなか眠りに着くことが出来ず、主が去って久しい書斎に訪れた。埃かぶったCDプレイヤーに、馴染みのあるディスクを挿入する。
一人マゼッパを聞きながら、幼いあの日、この曲には世界の全てが詰まっていると、祖父が言ったことを思い出す。
ただその時、私が覗いた世界には、悲しみや過去や、嘆きや迷い。世界の極端に存在するものしか、見えなかった。
超絶技巧練習曲の四番以降を、流れるままに聞き終える。次いで、彼女が弾くと言う『悲愴』の音楽CDを探してかけた。
『第二楽章は第一楽章に比べて、とっても優しい曲で――まるで、悲しみを愛しんでるみたいに、私には聞こえるの』
そこで私は初めて、ベートーヴェンの曲の中に二面性を見つけた。
荒々しくて情熱的なのに、どうしようもなく温かく、優しい。春の陽気を感じさせるような、心地の良い旋律。
しかしその中に、寂しさや切なさ、悲しみまでもが漂っている。
私は耳を澄まし、音楽の中で、自分自身をじっと眺めた。
だが……悲しみを慈しむことは、私には、とても難しかった。
「お爺ちゃん……お婆ちゃん」
年齢も定かでない幼い頃、紅葉の降る、いつかの秋山。歩き疲れて眠る私を祖父が背負い、祖母の待つ宿まで歩いた日のことを、ふと思い出した。
目を開けた時に感じた、あの涙が出そうな程に安心した世界。
――それが今は、遠く、霞んでいた。
私はそこで初めて、失ったものの大きさに打たれた。自然と目に涙は浮かび、そればかりか感情の奔流に襲われ……。
「う……うわぁぁぁぁっぁあぁぁぁあ! あぁぁ! あぁぁぁぁぁぁぁ!」
悲痛な叫び声を。報われぬ世界の最果てで、時を忘れたように、慟哭を発した。
それからも私は、ただ粛々と日々を送った。無気力に苛まれながら。夜には書斎を訪れ、マゼッパと悲愴の音楽、祖父母と暮らした過去の記憶に身を委ねた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
やがて彼女との約束の日、ガラコンサートが行われる日が訪れる。
――明日だ、明日。
前日の夜は、気が猛って簡単に眠れなかった。「行く」と「行かない」。四十九対五十一の心。単純な数からいえば、「行かない」が過半数を占めている。
しかし心の微細な働きが、二を動かすと……それはオセロの石をひっくり返すように簡単に、五十一対四十九となり、私を迷わせた。
そうして明け方、薄明かりのような眠りが私に訪れ……。
朝の十一時近くに目を覚ました私は、寝過ごしたという感触にベッドから飛び上った。時間を慌てて確認し、胸を撫で下ろす。
直後、その心の動きを認め、乾いて笑った。
「は、はははは」
ネットで確認したところ、ガラコンサートは昼から行われる予定だが、彼女の番は十四時近くであったと記憶していた。未だ間に合う時間だ。
――何を僕は、慌てているんだ……。
結局私は、彼女から郵便で送られた招待券を手に、会場へと足を運んだ。
快速の電車と地下鉄を乗り継いで、約一時間。名古屋の繁華街。その中心に存在する、高層ビルを思わせる公共の文化センター。
地下鉄の駅と繋がる地下の入口から入り、エレベーターで会場まで登った。怯えるような足取りで通路を進み、招待券を係員に手渡し、プログラムを受け取る。
図書館に漂う静寂と似ているものの、どこか緊張を覚える、真珠色の豪奢な静寂。ロビーには身なりの良さそうな人々の、静かな談話と笑顔、花で溢れていた。
「あら……あなた、」
独り言を呟くような、聞き覚えのある声に思わず振り返る。
そこには微笑を口元に湛えた、彼女の先生がいた。
「そう、来てくれたのね」
「あ……え、えっと」
思わぬ人との遭遇に、私の反応はぎこちないものとなる。即座に狡知が働き、先生は私と彼女の一件を知っているだろうかと考え、汗が染み出た。
しかし、私の” 怯え ”は、眩しいモノを見るような目をした先生の次の言葉で、構えを解かれた。
「美園も喜ぶわ」
「え……?」
私はここでも、臆病な光を目にこもらせて先生を見た。
「どう、よかったら一緒に?」
「い、いえ、僕は……あ、し、失礼します!」
そうして逃げた先のトイレで、私は顔をバシャバシャと洗った。学生服姿の冴えない自分を、備えられた鏡で確認する。場違いな自分と言う存在を引きずりながら、券を手に、足早に他のフロアに移った。
再び先生と顔を合わせてしまうのを避ける為に、プログラムを確認し、彼女の演奏が始まる直前に、ホールに入場することに決めたのだ。
「……何やってんだ……僕は」
時間が近づき、会場に戻る。ロビーに漏れる拍手の音で演奏と演奏の合間を見計らい、係員に頭を下げ、ホールに繋がる分厚い扉を抜けた。
無限の暗闇の向こうには、光に照らされて、いっそ白い、一台のピアノが置かれた舞台。そこに立つだけで竦み上がりそうな、意味と名誉が凝縮されたステージ。
心臓が高鳴る。あの輝きの中で、彼女はピアノを弾くのだ。
客席は大型の映画館ほどに、数え切れないくらいに多く備え付けられている。その席も殆どが埋まっている。こんな大勢の人々に見守られて、それで……。
――やがてアナウンスが彼女の名前を告げ、出番がやってくる。
聴衆はプログラムをめくり、何かを確認していた。私はホール入口脇の通路に立ってその光景を眺める。
「山岸美園……悲愴か、楽しみだな」
誰かが呟いた彼女の名前が、見知らぬ他人のように私の意識に響く。
だが壇上に現れた彼女を目にすると、私の心は一度に乱れた。手が知らず震える。以前漂わせていたオドオドとした雰囲気が、今の彼女にはまるでない。
あたかも一本の光の柱。別人ではないのかと見間違えるほどに、背筋を伸ばし、その目に、未来を見据える強い光を宿している。
『本当は、ピアニストに、ピアニストになりたかったの! それなのに、お姉ちゃんのせいにして、ずっと、ずっと逃げてた。でも、私は、私は、もう諦めないことに決めたの――もう私、オドオドしないよ。人生に立ち向かうよ!』
白いドレスを身に纏った彼女が一礼し、ピアノ椅子に腰かけた。
ペダルに足を置き、目を閉じ、微笑の影を口元に浮かべ、そして彼女は――
『悲愴』ではない曲を弾きはじめた。
舞台から音楽と言う名の風が、私に向かって強く吹き付ける。瞬間、私の体は金縛りにあったかのように動けなくなった。ある感慨が、体液と共に体を駆け巡る。
一音で別の世界へと誘う、特徴的な音色。
聞き間違えるはずがない。それは、それは……
『超絶技巧練習曲 第四番 二短調 マゼッパ』
悪魔がピアノの鍵盤上で踊る。一瞬のざわめきは美の前に沈黙し、力強くも美しい、怖気を催すほどの旋律が、コンサート会場に響く。
「み……美園?」
そうして、息継ぎすら忘れる程の圧倒的な演奏が、山岸美園の手で始まる。
彼女が両手を、鍵盤上で激しく躍動させる。まるで敬虔な信徒が、天上の世界への扉を開く暗号を、素早く鍵盤に打ち込むように。
ホールに鳴り響く、強烈な分散和音――アルペジオ。音は休むことなく紡がれ、強烈な和音が進行して行く。
大人しそうな顔をした少女から放たれる、激しく荒れ狂う情熱の嵐。それは音となって惜しみなく噴出され、留まるところを知らない。
私の膝は生まれて初めて、美に圧倒されて、がくがくと震えた。その間にも彼女は体を揺さぶり、一音一音に魂を込めていく。
――何で、何でこんなに……激しい物を、美しいと、人間は、どうして。
埋み火は冷えた空気を吸って、焔の息を吐く。
知らず目の奥が熱くなり、私は涙を浮かべていた。
あの、オドオドとした彼女が――
『ぜ、全然、大したこと……あ、じゃなくて、えっと……む、昔のことだから』
いつも自信がなさそうに笑う彼女が――
『ピアノの道は、甘くないから』
その彼女が、今――
『夢を諦めちゃ、だめだよ』
あんなにも輝いて、聴衆を恍惚とさせる音楽を響かせている。
音は怒涛の奔流となり、ホールを包む。自らの両手で生み出したものに、時に飲まれそうになりながらも、彼女は楽しそうに、その奔流を操った。
演奏するその姿は、天上的な美しさに充ち溢れながらも、魔的な激しさをも含んでいた。その相反性に、人々は息を呑む。
白い光に照らされた少女。彼女が八十八枚の鍵盤と向き合い、作りだす世界。
『このマゼッパという曲には、世界の全てが含まれていると思うんだ――相反する二つのものを求めて止まない人間というものが、それを包む世界というものが、この曲には現れている』
マゼッパ。世界の全てが、そこに。希望も絶望も、破壊も再生も。何もかもがそこに。聴衆は訴えられたその迫力に、震え、慄き、魂を歓喜させる。
『届け、届け、届け!』
そして私には、聞こえてくるのだ。
『届け、届け、届け!』
彼女の躍動、息遣い、言葉。
『届けて! 私のマゼッパ、世界の、世界の全てを込めて!』
――その全てが音楽として。
演奏が終わり、彼女が鍵盤から両指を離すと、ホールに静寂が生まれた。
それは紛れもない美であった。脳髄が痺れるような快楽。暗闇を超え、魂に忍び寄る炎。豪奢な旋律の後に訪れる、身を震わせる静寂。
皆が彼女の演奏に飲み込まれ、感性を掻き回され、圧倒されていた。彫刻のように身じろき出来ずに、拍手の意味を忘れる。
そんな中、私は感動に打ち震えながらも、最初の一人となって拍手を打ち鳴らした。会場がその音で、ハッと目覚めたようになる。
静かに、徐々に激しく、やがて喝采といっていい程の拍手が、会場に沸き立つ。椅子から腰を上げた彼女は、ステージの中央で、荒い息に肩を上下させながらも、汗に、笑顔に輝いていた。
私は居ても立ってもいられなくなり、ホール中央通路を下り始めた。
胸に抱きしめた音楽は、耳に聞こえただけでなく、心臓にも直接響いていた。まるで可憐な生物の、鼓動のように。
その動きに気づいた美園が、私に視線を向ける。
「ノゾムくん」
彼女の口は、私を呼び掛けるように動いた。
そして笑ったのだ。無邪気にも、力強く。
考えや印象を共有することが、この世で最上の喜びであると語るように。
『夢を諦めちゃ、だめだよ』
そこで私の口からは嗚咽が、抑えがたい幸福の吐息のように、休みなく溢れて来た。視界が突如としてぼやけ、光が目に眩しくなる。
「み、みそ……の……」
その瞬間には、人類が生み出した言葉はどんな役にも立たなかった。
私は瞳に涙を溜めながら、彼女に頷く。山岸美園によって灯火を与えられたように、胸に何かが灯っているのに気づきながら。




