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5.臆病


 それからの日々のことは、あまりはっきりと覚えていない。何度か彼女から連絡があったが、電話は無視し、メールは読まずに削除した。


 私はただ一人、黙々と生きた。

 皆、生まれてから一人で生きる。それは何も、私だけじゃない。


 コンビニ弁当を買うという習慣がなかったから、自炊も続けた。

 少しだけ料理が上手くなるとか、そんな些細なことが嬉しくもあった。


 退屈の中に、退屈の内に、私はもっともよく、私の生活を味わった。殆ど全ての人間が、退屈の中に暮らしている。退屈こそが、人生の土台だ。


 そんな暮らしを始めて、一ヶ月近く経ったある日。

 学校から帰宅すると、彼女が私の家の門の前に立っていた。


 私は彼女を認めると、前髪に表情を隠し、足早に通り過ぎようとした。

 そんな私の片腕を、彼女が引きとめようとして、両手で掴む。


「…………放してよ」

「いやっ!」


 初めて聞いた彼女の強い語調に、一瞬だけ怯みそうになったが、腕を動かして払いのけた。すると再び腕を掴まれた。一度目よりも強く、痛いほどに。


 私は苛立ちながら、彼女と視線を合わせる。

 そこで私は目を見開き、言葉を失った。


「ノ、ノゾムくんの……」


 彼女は顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。 

 そして啜りあげる嗚咽の合間に言う。


「ノゾムくんの、バカ!」

「――なっ!?」


 それは初めて人に言われた罵りの言葉、愛情のある叱責だった。祖父母を含めた他人から、悪い印象で見られないように、小賢しく生きていた私にとっての。


 彼女は私が茫然としている間にも、掴んだ腕を揺さぶりながら続ける。


「私、私、知ってたよ! ノゾムくんが、お父さんとお母さんがいなくて苦しいこと。お爺ちゃんとお婆ちゃんに気を遣って、良い子であろうとしてたこと、気付いてたよ! そんなのお二人だって、知ってたもん!」


 私の思考は一度に白く塗りたくられ、足場を無くしたようによろめいた。寂しそうに私を見つめていた祖父母の顔が、脳裏を過り、無限の暗闇へと消える。


「だ、だから何だって言うんだよ!?」


 私は怯える感慨と共に、言葉を吐き出した。

 すると彼女は叫ぶように、私の腕を強く掴んで言う。


「一人で、一人で何でも抱えてちゃ、ダメだよぉ! ノゾムくん、私が、私が誰にも言えないで苦しんでたこと、聞いてくれたよね!? 私っ、だから分かるの。そうやって、一人で、一人で抱えてちゃ……心が、痛いだけだよ……」


 突如、極まった悲しみが、空虚な心に静かに響いた。次いで全身が僅かに震えるのを感じ、足の裏がその場に貼り付いたかのように、動けなくなる。


「ぼ、僕は…………」


 喘ぐような呼吸に胸を波打たせながら、彼女に言う。


「僕は! き、君みたいに、君みたいに、弱くないんだ! い、今までだって一人で生きてきた! 何でも、一人でやれるんだ! だ、だから!!」


 だがそれ以上は言葉にならず、唾が溜まっている訳でもないのに、喉を鳴らした。動物的な私の荒い呼吸と、彼女のぐずぐずと鼻を啜る音がその場に響く。


「ノゾムくん」


 そんな中、瞳を涙に濡らし、すんすんと鼻を鳴らす彼女が、問いかけるように私の名前を読んだ。そして私の腕から片手を放し、目元を拭うと……。


「人が、人が一番恐れてるものって、なんだか、分かる?」


 そう私に尋ねた。


「…………え?」


 何故か私はその言葉に臆し、思わず後ずさりそうになる。


 彼女の濁りない目は、暗闇に浮かぶ星のように尊い。対して私の目は殺気立っていたが、その実、臆病な光をこもらせていた。


 そんな私を見抜いてか、彼女は言葉で私を捕まえる。


「自分自身の新しい言葉、自分自身の新しい一歩を、いつも恐れてるんだよ」


 私は小刻みに唇を震わせながらも、疎ましげに腕をまた払った。

 そして言った。彼女の紡いだ言葉が、意識に落ちるのを恐れるように。

 

「う、うるさい……うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!」


 最初は呟くように、次第に声を上げて喚くように。


「美園に、僕の、僕の何が――」


 だが言い終わらない内に、激した私の声を、更に大きい声で彼女が覆った。



「わからないよ!」



 虚をつかれたように、私は目を見開く。


「え?」


 彼女の両眼は、涙を湛えて淡く光り、まるで憤りと悲しみに生きる、二つの美しい生き物のように私には見えた。


 そんな目をした彼女が、顔を涙に濡らして再び言った。


「わからないよ!」と。


 そして泣きながら、しゃくり上げながら彼女は続ける。


「わからない! わかってることもあるけど、それ以上に、わからないことの方が多いよ! だって、人の心は見えないもん! でも、だから、だからこそ、ノゾムくんは人の心を大切にしたいって、そう言ってたよね! 見えない心で苦しんでる人の助けになりたいって、そう言って!」


 瞬間、訳も分からずにカッとなったことで私は私を取り戻し、声を荒げる。


「――っ! そんなこと、そんなこと!」

「でも私、わかってることがある。ノゾムくんについて、わかってることがある!」


 いつも自分に自信がなさそうに、振舞う彼女。


「くっ……な、何を!?」

「ノゾムくんが、ノゾムくんが、臆病だってこと!」


 その彼女から吐き出された、遠慮や斟酌のない言葉が、私には衝撃的だった。


「なっ!?」


 驚愕に言葉を見失うと共に、眩暈を起こしたように、自分の立ち処があやふやになった。目の前の彼女は、肩まで伸びた髪を揺らしながら、絞り出すように言う。


「でも、ノゾムくんだけじゃない! 私も、私もわかってた。私が、私が臆病だってことに!! だけど私、もう……自分から逃げないよ!」


 一際高い、心臓の脈動を身の内に聞く。


「ど、どういう……?」


 狼狽した私が尋ねると、彼女は嬉しそうに恥ずかしそうに、滾々と溢れる涙を拭いながら告げる。


「私、プロのピアニストを目指すって決めたの」

「え……?」


 ――プロの……ピアニスト?


 言葉の意味が重く、深く意識に圧し掛かる。

 新しい現実の連続で、私はそれ以上、何も考えることが出来なくなった。


「知らないよね、ノゾムくんは」

「み、美園……」


 濡れた瞳で私を真っすぐに見据えながら、彼女は続ける。

 彼女の視線に捕えられ、私は瞳から目を逸らすことが叶わない。


「私がノゾムくんの言葉に、どれだけ救われてたか……お姉ちゃんに比べて、全然大したことのない私が、ピアノしか能のない私が、どれだけ救われてたかって」


「あ……」


 喉が塞がってしまったかのように、私は言葉を詰まらせる。彼女は私を、凪いだ湖面のように静かな、光を溶かしてきらきらと光る目で見ていた。


「告白されたとき、凄く嬉しかったよ。私の演奏で、人の心が動かせるんだって知って。そんなことでって思うかもしれないけど、ピアノを続けててよかったって思えたの。でも……ノゾムくんは知らないよね、人の心は、覗けないもん」


「そ、そんなの……」


 その突然の言葉に、彼女と過ごして来た日々が、フラッシュバックするように脳裏に次々と現れた。何かに打たれたように、茫然自失となる。


『その、わ、わたしなんかで、よければ、え、えっと……お、お願いします!』

『それに今は、ノゾムくんが居てくれるから。だから、私……』


 ――僕が……美園を……?


 そんな私に、彼女は目尻を拭い、微笑みかける。


「私、今まで、自分の夢を見ない振りしてた。本当は、ピアニストに、ピアニストになりたかったの! それなのに、お姉ちゃんのせいにして、ずっと、ずっと逃げてた。でも私は、もう諦めないことに決めたの。たくさん練習して、夢を追いかけるって決めたの! プロになれる人なんて、ほんの一握りだってことは分かってるよ。でも……でもっ! もう私、オドオドしないよ。人生に立ち向かうよ!」


 その声は震えていた。だが同時に、その声には、まるで彼女ではないような、何か全く新しい響きが含まれ……。


「み、みそ……」


「だから、だからね。ノゾムくん! ノゾムくんも……」

「み、みその――」







「夢を諦めちゃ、だめだよ」







 ドサリと、何かが地面に落ちる音がした。

 世界は限りない拡張感を私に届け、無限に通じるほどに広く、広く――。


 目は哀れにも見開かれ、口が戦慄く。鞄を持っていた筈の手が儚くなったことに気づいた私は、たまらない衝動の中で駆け出した。


「ノゾムくん!?」


 彼女を置き去りにし、滑稽なほどに慌てて自宅へ逃げ込む。廊下を駆けて自室に辿りつくと、ベッドに飛び込み、布団を被ってガタガタと震えた。


 怖かった。何が恐ろしいのか判然としなかったが、堪らなく怖かった。


 彼女は私を部屋まで追いかけてくることはなかった。

 翌朝、玄関の前には、私が取り落した鞄が置いてあった。



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