4.凡才
それからも私たちは、淡い恋愛感情を抱きながら付き合い続けた。
中学三年の秋。彼女は久しぶりに規模の大きなコンクールに参加し、予選でライバルたちに迷いを断ち切るような演奏を見せて、冬には本選へと進んだ。
「分かったことがあるの。ピアニストには、お姉ちゃんが言うみたいに、なれないのかも知れない……でも、私、ピアノが好き。だから……!」
私は彼女の先生に、彼女を通じて間接的に誘われ、初めてコンクールというものを観に行った。名古屋市内のコンサートホールで行われる、第一次予選。
恥ずかしくて緊張しちゃうから、という理由で、今まで彼女のコンクールを観に行ける機会はなかった。それが初めての経験だった。
何度か顔を合わせたことのある彼女の両親と、ロビーで挨拶を交わす。少し遅れて先生とやって来た彼女に、先生を紹介された。
「……こんにちは、はじめまして」
「あ、こ、こんにちは」
先生は四十代の、細く、若づくりではない年相応の美しさを身につけた、品と知性を感じさせる女性だった。同席すると緊張しそうな程に。
彼女の両親と別れ、その先生と二人、ホール中央の席に並んで腰掛けた。中程度のホールの客席は、六割程度埋まっていた。
コンクールが始まり、番号で管理された出場者たちが、課題曲を次々と弾く。舞台袖からピアノへ、ピアノから舞台袖へ。繰り返し、同じ映像を眺めるよう。
音楽的な知識に乏しい私は、皆一様に” 上手かった ”としか表現出来ない。しかし、山岸美園の演奏に感じたような、感動は催さなかった。
先生はと言えば、終始寡黙だった。両肘を抱えた格好で、ひどく高価な、精巧な人形のように身じろぎもせず、演奏に耳を傾けていた。
「あなたのお陰ね」
だが彼女の番がやってきて、素晴らしい演奏を終える――それは他の出場者とは、一線を画していた――と、拍手の間でもしっかりと耳に届く、凛としなやかな声で私に言った。
美しい旋律の余韻に痺れ、呆けていた私は、ゆっくりと先生の方を向く。
「え?」
先生は自嘲するように口の端を曲げながら、私の瞳を覗き込むと、柔らかく鼻から息を抜いた。その切れ長の目に、映し出された自分を見るような錯覚に陥る。
視線を前方に戻した先生は、とても優しい眼で、演奏を終えて頭を下げる檀上の彼女を見ていた。私は動悸を感じながらも、同じように彼女を眺める。
やがて拍手が止み、彼女が退場すると、先生は私に再び顔を向けた。私がそれに気付いて視線を合わせると、静かに言う。
「今日は、来てくれて有難う。一度、顔を見てみたくてね。美園はあなたのこと、随分と楽しそうに話していたわ……」
「あ……え、えっと……そ、そうなんですか?」
私は先生の美貌に打たれながら、気恥ずかしそうに尋ねる。
「えぇ、嫉妬する位に」
すると先生は、からかうように言った。微笑につられ、私も笑顔になる。だが次の瞬間には、優しさの中に深い厳しさを湛えた表情となって、先生は言う。
「多分、あなたと出会ってからね、美園の音が変わったのは。ピアノを弾く喜びが更に強く、そして自信が、指使いに徐々に表れ出した。前者は中学生になって一度は失くしかけたもので、後者は小学生の時にはなかったもの。美園はピアノに愛されているけど、問題は、美園がピアノをどう愛するかなの……。人生の中で、ピアノをどう位置付けるか。中学でピアノを止めてしまう人間は、とても多い。だけど、美園は……」
先生はそこで言葉を区切ると、一人の物言わぬ紳士のようにステージで佇むピアノを、無言で眺めた。私も先生と視線の先を揃え、無言の中に多くの言葉を感じ取り、口を噤んだ。
中学を卒業すると、私は県内の公立高校に進学し、彼女は県内の私立高校の普通科に進学した。進学先は異なったが、それでも恋人関係は継続していた。
私は国立大学の医学部に進む為に勉強し、美園もピアノの練習に励みながら、それなりに友達も出来て、楽しく過ごしているようだった。
私たちは、彼女のコンクールが近くない日には、週末にデートをした。例の喫茶店で、映画館で、時には水族館や動物園、遊園地に足を延ばすことも。
彼女は少し、朗らかになった。私の前でころころと、よく笑った。
「あはは、ノゾムくん」
恋愛とは、相手の魂に吸い込まれることなのかもしれない。
ある日私は、脈絡なく考えた。
私は出来るだけ自由を失わないで、その魂の中に、足場を見出した。死ぬような切なさで、自分の手にピッタリと触れている……彼女の手の温もりを感じながら。
――しかし、そんな日々に終わりが来てしまう。
高校一年のお盆を前にした、夏の頃だった。記録的な猛暑だと新聞が報道し、老人の死亡者が増えていると騒いでいた頃、七十三歳で、祖母が亡くなった。
葬儀を終えた私と祖父は、窮屈なネクタイを外した喪服姿で、書斎の椅子に茫然と腰かける。そうして何度も何度も、マゼッパを聞いた。
以降、気落ちしているお互いを励ますように、空元気を発揮して毎日を送った。時には、美園が夕飯を家に作りに来てくれる場面も。簡単なカレーライスがとても美味しかった。
「あなたが美園さんですか、お話はよく伺っていますよ」
「あっ! は、はい! さ、差し出がましいこととは知りながらも、あ、あの!」
「ふふ、可愛らしいお嬢さんだ」
「え!? あ、そ、その……」
しかし夏から秋へと季節が変わり、寒暖の差が激しくなった頃。
祖父が祖母の後を追うように、鬼籍に入った。
「どうしてだろうね、最近……よく娘のことを思い出すんだ。それと一緒に、小さな君と、初めて会ったときのことも……。どうか、娘のことを許して欲しい。私がいけなかったんだ。そして……すまない、ノゾムくん。私は、いや……私たちは、君をまた、一人に……」
病室で私は、祖父の最期を看取った。
「お……お爺ちゃん? お爺ちゃん!?」
「すまない、ノゾムくん、本当に……」
彼は悔悟の言葉を口にしながら、魂が肉体から抜けるように、静かに逝った。寸前まで握っていた皺だらけの手が、温かいのに、ゆっくりと重くなり……。
――そうして私は、天涯孤独の身となった。
祖父もまた天涯孤独の身の人だった。戦争で父親を失い、東京から愛知に疎開に来た後は、母親と姉を、揃って病気で失っていた。
遺言に多くのことは書かれていなかったが、私への多くの配慮があった。祖父に依頼を受けた弁護士が、母親を探していたらしいが見つからず……いつの間にか祖父母の養子となっていた私に、住む家と遺産が残された。
だが私は、法的に責任が持てない未成年だった。世間体もあり、祖母方の親戚が私を預かる話になったが、それを私は断った。
「それじゃ、これからどうするんだ?」
「…………一人で、生きていこうと思います」
祖母は柔和で優しい人で、地元で室町時代から続く、名家と言われる一族の三女に生まれていた。しかしその親類は、家柄を気にする、つまらない人が多かった。
社会的な符号で人を見るような人たちで、高校卒業と同時に家を去り、勝手に結婚して子供を作った私の母のことを、酷く嫌っていた。
『結婚と子供、どっちが早かったんでしょうね?』
『まぁ!』
『あはははははははははははははははは!』
遠回しに、その息子である私を馬鹿にしていた。親戚一同の集まりに顔を出し、トイレに立って戻る際には、小さな頃から、障子越しに色んな話を耳にした。
『ノゾムくん……』
『大丈夫だよ、お爺ちゃん、お婆ちゃん。僕なら平気です』
祖父母はそんな私を気遣ってくれたが、自分の身は自分で守る必要があった。だから彼らのルールに則り、通知表や学年順位で、蔑んだ目から身を守っていた。
そうすることで私は、私を育ててくれている、祖父母の名誉を同時に守りたいとも考えたのだ。だから勉強は、ずっと必死でやってきた。
そんな私の提案は、当初こそ頭ごなしに反対されたものの、彼らの腹の内がどうであったかは知らないが、幾つかの条件付きで許可された。
祖父は地元で議員を何期か努めていた為、その訃報は新聞にも載った。或いは、母が現れるかと思い緊張を覚えもしたが、そういったこともなかった。
そうして私は一人になり、自分の存在を持て余した。糸で吊り上げられていた人形が、憐れにもその糸を断ち切られ、項垂れるように。存在意義を失くす。
涙は出なかった。人間は身に降りかかった出来事が、その人間の処理できる感情の域を越えると、無感動に襲われることがある。解離という現象だ。
祖父の葬儀が終わった翌日、リビングのソファに一人腰かけた私は、思考に膨大な空白が生まれているのを感じた。
その空白に飲みこまれた私は、ハッと気付くと朝が夕方に変わり、外界の移り行く早さに、また自分自身の状態に、空恐ろしさを覚えた。
「とりあえず……ご飯を食べなくちゃな」
私は祖父母と暮らしていた家で、一人で生き始めた。朝、自分一人のために朝食を作り、一人で住むには大きすぎる家の鍵をかけ、電車で学校に通学する。
明かりの灯らない家に帰ると、夕飯を作った。もそもそと無言で食べ、お風呂を沸かす。木造家屋の冷たい家には、私の沈鬱が、そっくりそのまま漂っていた。
高校のクラスメイトには、そのことを告げていなかった。
祖父が亡くなる前後一週間は休むことになったが、担任の先生に懇願して、入院していたことにしてもらった。新聞で気付く人間はいなかった。
ただ山岸美園だけは、そのことを知っていた。
黙っていようと思ったが、どうしても黙っていられなかった為だ。
「え、あ……や、やっぱりそうだったんだね。その、お父さんが新聞で、でも、連絡が来るまで待とうって…………それじゃ、ノゾムくん……」
「うん、ついに一人になっちゃった」
一人で暮らし始めた二日目。誰もいない伽藍堂の夜。耳に煩い静寂に折れた私は、縋りつくように携帯電話を手に取り、自室から彼女に電話をかけた。
そして孤独に――彼女に甘えた。
幾つかの会話の後、唐突に、高校を卒業したら働こうと思うと彼女に告げていた。彼女が困惑と共に息を呑む様子が、絶句として受話器越しに伝わってくる。
「え!? そ、そんな……どうして?」
二人が残してくれたお金で、大学に進学することも出来た。だが呑気な大学生になっている自分を、私は想像することが出来なかった。そう信じ込んだ。
また、あらゆることに無気力になっていた私は、親戚の手前、高校を卒業する必要はあったが、厳しい受験勉強の末に医学部に進むことは、不可能だと考えた。
――そこで私は、私の夢を諦めた。
いや……自分自身を騙すのはよそう。それは明確な、二人の死を理由にした逃避であった。その時期、私は学力に伸び悩んでいた。静かにひそかに苦しんでいた。
私は中学時代には、取り柄がないと言いながらも、自分に勉強の才能があると信じていた。しかし高校に入り、それは誤りであったかもしれないと危ぶんだ。
突如として私の意識に、” 凡才 ”の二文字が重く圧し掛かる。その事実を私は、火のように恐れた。私は誰かのように、決して……。
しかし祖父母が亡くなり、私はもう、誰かのために努力するという必要がなくなった。人生に立ち竦む中で、もう頑張る必要がないという考えは、私を楽にした。
そうして人は、水が高い方から低い方へ流れるように、易きに流れる。
その頃は日本の経済も今ほどに悪くなく、田舎町で高卒枠の公務員となることは、決して難しいことではなかった。祖父母の死という大義名分もあった。
今思えば、その判断は、正しいとはいえないのかもしれない。何かを指して、正しい、間違っていると評するのが、とても難しい人生ではあるが……。
ただ追憶の中では、自分が当時に抱いていた苦しさや悩ましさは、同じように体験することは出来ない。その時の印象や感情、認識が、私の世界の全てだった。
「ノ、ノゾムくん。精神科医は? だって、あんなに一生懸命、勉強して」
私は無言になった。気難しい子供みたいに。
「いいんだ、もう」
唾を呑み下し、絞り出すように言った。
すると受話器越しから、彼女の切々とした言葉が。
「そんなっ、駄目だよ。諦めちゃ! お爺さんだって、ノゾムくんが精神科医になること応援してたじゃない。そんな、夢を、諦めちゃ――」
自分でも幼いと思う。本当なら、そんな時に電話すべきでは無かったのだ。さっさと布団に包り、眠ってしまえばよかったのだ。
そうすることで防げる不幸は、実は世の中にはとても多い。だがそれは、純然たる経験則だ。私は高校生で、悲しい位に未経験で、若く、拙なかった。
「いいんだ、本当に……」
「でも、でも! どうして!? 私、ずっと応援して――」
奥歯を強く噛みしめる音を、他人事のように聞く。
私はその時、自身に対し、纏まりをつけることが出来なかった。身の内に燻っている遣る瀬無さや、寂しさ、彼女に持ち続けていた、あるコンプレックス。
そういった、何かを――
「分からないよ……君には……」
気付けば腹いせに、彼女にぶつけていた。
「え?」
私はいつも出来るだけ、言葉を大切にしようとしていた。そうすることで、言葉以上の何か、言葉にならないものを大切にしようとしていた。
だが私はその日、意図的に言葉を乱暴に扱った。言葉を使いながらも、その実、言葉以上のものに、焦がれていたにも関わらず……。
「分からないよ、君には……。小さな頃からピアノを習ってるような、そんな! そんな君には!!」
私の烈しい様子に、彼女は絶句した後、震えた声で応じた。
「ノ、ノゾム……くん?」
自分の言葉に興奮し、論理的な文法も失った私は、吼え立てるように言った。
「あぁ、そうだ! 僕なんかのことは、分かるはずないよ! 例えばだよ、僕が苦悩を感じているとして、それで、どれ程に苦しんでいるかなんて、決して他人になんか分かるものじゃない! そうでしょ!?」
「そ、そんな! わ、私……!」
受話器を挟んで、一人ぼっちの二人。彼女の怯える声を乗り越えて、更に続ける。私も同じように、怯え、震えた声で。
「い……今までだって言わないよ、い、言わないけど、苦しかったんだよ! 両親がいないこと! でもね、やってきたよ、良い子で! そんなことだって、君は気付いてなかったでしょ? ねぇ? だってそうでしょ? き、君は、僕じゃないんだ! 僕のことなんて、分かるはずがないんだ! そうやって、人の心なんて、絶対にわかるもんじゃない! 精神科医に……精神科医になったって、そんなの、変わらないよ!」
それは幼い頃からの実感だった。祖父母に育てられ、常に” 良い子 ”であろうとした私の。歪んだ救済を求める、魂の叫び声のようなものだった。
「それに、それに!!」
私はそうして、酷い形で――
「夢をとっくに諦めている君に、言われたくない!」
彼女に甘えた。
電話を一方的に切ると、ベッドに向けて携帯を叩きつける。一度にまくし立てた言葉の洪水に、肩を上下させる程の、荒い呼吸を吐いた。
それが収まり出すと、断続的な呼吸のような、は、ははは、という自嘲が零れ、物悲しい慰めのない感情に襲われた。
今なら思える。なぜ人間は、もっと上手に、他人に甘えることが出来ないのだろうかと。五十音の最初の二文字を求めてやまないのに、なぜこうも、生きることが下手なのかと。
酷いことを言って、彼女を傷つけてしまったという後悔がひたひたと私を苛んだ。しかし心のどこかで、これでよかったんだと、身勝手に考える自分もいた。
私はある時から、彼女にコンプレックスを抱えている自分を発見した。微かに予見していたもの。それは些細であるが、殆ど決定的な代物だった。
『あはは、ノゾムくん』
裕福な、問題のない家庭に生まれ、小さな頃からピアノを習い、才能もある彼女。瞼の裏の、暗幕が降りた世界。白い程に照らされて映る彼女は、眩しくて。
『あら、知らなかったの? 山岸さんはね、』
『美園はピアノに愛されている』
私を覆う世界が暗ければ暗い程に、その眩しさが、私には……疎ましくて、そうして私は彼女に……。
直後、私の顔は無表情に襲われた。
ただ無言で、嘗ての自分との分裂を眺める、今の自分がいた。




