3.ピアノソナタ第八番 ハ短調 Op.13「悲愴」
そうして何度目かのデートの時、彼女は私に言った。中学三年生になり、季節は春から夏へと向かう――喫茶店でミントティーが出される頃だった。
「さ、最近、なんだかピアノを弾くのが、前よりもっと楽しくなったの」
学年が変わっても、彼女とクラスは一緒にならなかった。
しかしその頃になると、彼女は私の家族構成や、置かれている環境を知るようになっていた。積極的に話した訳ではないが、家族のことに話が及んだ際、ごく自然な感じで、簡単に話したのだ。
『え? お爺ちゃんとお婆ちゃんと? それじゃ、お父さんとお母さんは……』
『あ、うん。その、二人ともいなくてさ。ははっ、だから、今は三人で――』
すると彼女は、他の誰とも変わらず、当初は戸惑ったように、やがて申し訳なさそうな顔になった。私は気を遣わせてしまったことに慌て、話を彼女の家族に移した。
そこで私も同じように、彼女の家庭環境を知った。娘想いの父親がいて、地元で、祖父の代から続く税理士事務所を経営していること。少し派手だけど、優しい母親が、その事務所を手伝っていること。
彼女よりもあらゆる面で優秀な、高校二年生の姉がいること。その姉に対し、彼女が引け目を感じていること。
また、山岸美園が山岸美園であることは、ピアノが共にあることだとも聞いた。思い出せる限りの記憶を辿っても、ピアノに触れていない記憶はないそうだ。
幼い頃、習い事の一つとして始めたピアノは、気付けば彼女の人生の一部となっていたらしい。
『ピアノを弾くと楽しいし、上手に弾けると、お母さんも先生も喜んでくれたから……お、お姉ちゃんも、最初の頃は……』
そして、彼女はそんなことはおくびにも出さないが、
『あら、知らなかったの? 山岸さんはね、』
小学生の頃には、数々のコンクールで素晴らしい成績を残していたと、ある日、学校の音楽の先生から聞かされた。
家に帰り、ネット上で彼女の名前を探すと、” 全日本 ”という名前を冠したコンクールのピアノ受賞者欄に、彼女の名前を認めることが出来た。
正直な話をすると、私はその瞬間、嬉しいような寂しいような、奇妙な心地になった。その心の動きに肝を冷やしたようになり、ウインドウを閉じる。
翌日、そのことについて尋ねると、彼女は照れくさそうな、嬉しそうな、でもやっぱり困ったような顔をした。
『ぜ、全然、大したこと……あ、じゃなくて、えっと……む、昔のことだから』
いつもそうなのだ、彼女は。誰よりも凄いのに、誰よりも凄くなさそうな顔をする。でも私は、そんな恋人を持てたことに、とても満足していた。
当初は、二人とも勝手が分からず、繊細に、色んなことに怯えていた。しかし私たちは関係性を急がなかった。お互いのことを、少しずつ知り合う。
中学時代の日々は、追憶の中では足早に過ぎ去る。
その時間の中で私は、何度も彼女のピアノの音色に耳を傾けた。
放課後の、黄昏色に染まる音楽室。音楽の先生の好意で弾かせてもらっているピアノ。ドイツのスタイナー&フォンズ社製の鍵盤楽器が奏でる、美しい旋律。
特に記憶に残っているのは、彼女が好んで弾いていたピアノソナタだ。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲。
ピアノソナタ第八番 ハ短調 Op.13「悲愴」。
その曲を彼女が好んでいると聞いたとき、私は意外に思い、好奇心に駆られた。悲愴という物悲しいタイトルが、彼女の印象と合わなかったためだ。
「えっと、い、意外かもだよね。でも、物心ついた頃から好きだったから」
「そうなんだ。ちなみに、どんなところが好きなの?」
私が尋ねると、「え?」と、ピアノ椅子に座る彼女は疑問符を浮かべた。
そして真剣な表情――ピアノに向かう時とも違う、初めて見た表情――になった彼女は、自分の中から何かを探り当てるように、慎重に答え始めた。
「その……第一楽章は、本当に悲愴ってタイトルにぴったりな曲なの。『グラーヴェ アレグロ・モルト・エ・コン・ブリオ』。重々しい和音から始まって、嘆くようなメロディの繰り返し。心臓の鼓動みたいな、不安になるような、左手オクターブのトレモロ。とっても苦しんでくることが伝わってくる……悲しみや苦しみに濡れているような、そんな曲」
それは彼女が初めて見せた、音楽を” 解釈 ”する顔だった。
またその際、有名なその曲が、ベートーヴェンが耳が聞こえなくなり始めた頃に作られた曲だと、知らされた。
嘆きと悲しみ、苦悩と不安――それらに対抗する、愛や希望、温かさ。
ベートーヴェンは何を想い、どんな心境でこの曲を作ったのか。誰にも分からないことだが、彼の想いは、きっと楽譜の中に全て綴られている。
――彼女はそう語った。
私は圧倒された心地で、文字を眺めるように彼女の顔を見て、言葉を繋げる。
「そうなんだ、でも、み、美園が好きなのは、第二楽章なんだよね?」
すると彼女は顔を輝かせ、即座に応じた。
「うん、そうなの! 第二楽章『アダージョ・カンタービレ』! 第二楽章は第一楽章に比べて、とっても優しくて、温かくて、愛に溢れている曲なの。単調な旋律なんだけど、その旋律を支える、静かなさざなみのような伴奏。きっとそれが、あの曲を美しい調べにしていると思うの。そして、長調の中に時折顔を出す、物悲しい和声。密かな切なさを漂わせている、所々にある、“ 影 ”。それがまるで、悲しみを愛しんでるみたいに、私には聞こえるの!」
彼女は確かにその時、『悲愴』の第二楽章をそのように表現した。
『悲しみを愛しんでるみたいに』と。
誇張したエピソードではなく、当時から彼女は、音楽家としての片鱗を覗かせていた。だが成程、彼女の演奏を今思い返すならば、” 悲しみを愛しむ ”という解釈は、とてもしっくり来る。
またそれは、彼女が生きる上で獲得した解釈なんだと、今の私になら分かる。自己憐憫を昇華しつつあったのだと、今の私になら……。
しかしながら、心理学の知識がない当時の私に、そのことが分かるはずもなかった。曖昧な笑みを浮かべ、
「悲しみを愛しむ……随分と、難しいことを言うんだね」
そんな風に、顔を仄かに赤くしている彼女に向け、感想を漏らすことしか。
すると彼女は照れて俯きながらも、抑え難い好奇に、ちらちらと私を見る。
「あ、うん。言われるとそうかもね。で、でも、その……実は、ノゾムくんのお爺ちゃんのマゼッパの話を聞いて、それで、えっと、ピアノの先生にも、先生が教える解釈だけじゃなくて、自分の解釈を見つけなさいって言われて。それで、まだ先生にも言ったことなくて。初めて……人に言ったかも。自分でも、ちょっと不思議」
徐々に小さく、最後は消え入りそうになる彼女の言葉。
私は驚きに呼吸を忘れ、一呼吸置いた後、間の抜けた声を上げる。
「え? そ、そうなんだ」
そこで彼女は「うぅ」と可愛らしく唸った。羞恥に燃える、何か空想の動物のように。そして先程の話を打ち消すように、早口で言う。
「え、えっと、それで悲愴なんだけどね。子供が弾くことが多いから初心者向けの曲と勘違いされやすいけど、弾く人が弾けばベートーヴェンの最高傑作になるって先生も言ってるの! あ、私は当然、まだまだなんだけど」
私はそんな風に取り繕う彼女を、鼻から息を抜いて愛しく眺めた。
彼女は学校では、あまり活動が盛んではない美術部に所属していた。それも週に数回行われる、ピアノの個人レッスンを受ける為らしい。
そして彼女を受け持っているピアノの先生は、県内のピアノ業界では有名な女性らしく、コンクール受賞者を何人も育てていると聞いた。話はその先生へと移る。
「あはは、厳しい先生だよ。でもね、とっても優しいの。私は……今、ちょっとだけ、色々あって、迷ってて、以前みたいに大きなコンクールには出てないの。でも、そういう時期も大切だって、そう言ってくれて……」
彼女はそう言うと、憂愁の中に淡い光を放つような笑顔を見せた。そこには、辛いことや悲しいことを経験した人間特有の、人生に向かう真摯な態度があった。
『ちょっとだけ、色々あって』
私は不意に、彼女の強さというものを垣間見たような気がした。
同時に印象の変化が訪れる。気弱そうで、自信がなさそうにしている女の子。しかし何か、奥底に譲れない強さを、光を備えている。
「色々って……」
そして私は、彼女の憂いを帯びた表情を放っておくことが出来なかった。
気付くと、微細な感情の揺れ動きを見つめながら、思わず尋ねていた。
「色々って、何かあったの?」
「え?」
瞬間、彼女の目に、ちらと不安そうな感慨が光った。静かな、引き込まれるようなような沈黙が、音楽室に訪れる。
驚きと不安がない交ぜになった表情でしばらく私を見ていた彼女は、ゆっくりと、視線を手元の鍵盤に落とした。
――寂しさというのは、気付かない内に心に沁みてくる。ふと目覚めた夜明けの窓に映る、あの青のようなものだ。
そんな誰かの言葉を、私は何故か思い出していた。
彼女は苦しそうに眉を顰めながらも、微笑を浮かべる。しかし微笑の影から、彼女の目に激しい焦りというか、何か散漫な、険しい光がちかちかと漏れていた。
やがてぽつりと、彼女が言葉を鍵盤に落とす。
「……そ、その……」
見る人に迷いが伝わってくるような、不安そうな、こんなことを言ってしまっていいのかと弱く、優しく惑う顔だった。
私は焦らずに彼女の言葉を待つ。話させてしまっているという、微かな自責の念の裏には、彼女の力になりたいという、幼い願いもあった。
「あ、あのね……」
彼女は縋り付くような目で私を見ると、また俯いた。迷いや悲しみの感情が激しく運動しているような、そんな苦しそうな顔で。だが、それから……。
「しょ、小学六年生の頃、大きなコンクールで優勝した時に、お姉ちゃんに……言われたの」
太ももに置いた両手でスカートを握りしめながら、彼女は苦悩を吐き出した。
「うん」
私は出来るだけ丁寧に感情を込めて、言葉を繋いだ。
すると彼女は顔を上げ、言葉は彼女の口から出口を求め――
「わ、私! お姉ちゃんも、喜んで……喜んでくれると思ったの。お父さんやお母さん、先生と同じで。頑張ったね、凄いねって……だけど、そうじゃ、なかった」
そこで彼女は、姉に言われたそうだ。
『美園はなぜ、ピアノを弾いてるの? ピアニストになるつもりなの?』と。
彼女はその質問に、はっきりと答えられなかった。思っていた反応と違い、戸惑いが強く作用し、なれたらいいなと思うと、曖昧な返答をするのが精一杯で。
その答えを前に、彼女の姉は腕を組むと、冷静に言ったそうだ。
『その程度の考えなら、ピアノは止めた方がいい』と。
『ピアノでやっていける人間は限られている。ほんの僅かしかいない』と。
それは彼女の姉の優しさだったのか、単なる悪意だったのか。簡単には判断がつかない。或いは、両方だったのかもしれない。
時に人間は、目下と思っていた人間の評価が変わり、自分を脅かしそうになると、その対象に嫉妬を覚え、悪意を働きたくなることがある。
それは自然な心の働きで、プライドの高い人間ほどに多く見られる。
断片的な情報だが、彼女の姉は、例えば美しさや賢さ、日常的な頭の回転の速さなどの面で、家族を含めた環境からの評価が高ったと推測することが出来る。
その中で妹という存在の評価が急激に高まることは、姉からした気に入らないことだろう。悪意を働いてみたくなる気持ちも、決して分からない訳ではない。
いや、むしろ……。
だが例えそれが優しさであったにせよ、小学生には酷な現実だった。ましてやそれが、肉親に、慕っていた姉の口から言われたものなら。
そして彼女は姉に、ピアノはきっぱり止めたらどうかと諭されたそうだ。人生をピアノで棒に振るよりも、その方が建設的だと言われて。
「でもっ、私……私……」
話しながら、彼女の瞳には水の膜が張られ、黄昏を映して光っていた。次第に彼女の視線は下がり、落ち込んだような姿になる。
私は思わず、ピアノ椅子に腰かける彼女に近寄った。そっと、その小さな肩に手を添える。切ない程の熱さで、彼女の存在を感じながら。
私の存在を近くに認めた彼女は、ほっそりとした顎を上げて私を見た。その顔は落日の茜に照らされ、弱々しく、だがいっそ神々しい程に美しかった。
音楽室の塵が、黄金の粒子となって飛び交う。
やがて彼女は、口角を無理に引き絞り、私に微笑みかけた。恐れるように、肩に置いた私の手に、自分の手を重ねると……。
「ノゾムくん……」
瞳の中の光を零し、静かに、涙を流した。
「美園……」
「わ、わたし、弱くて、こんな自分が、嫌で、でもっ!」
それから彼女は、しゃくり上げながら続けた。
誰にも言えず、胸に数年溜めこんだ苦しみを吐き出すように。
小学生の頃は、ただ純粋に、楽しいからピアノを弾いていた。しかしそれ以降、自分が何の為に弾いているのか、彼女は分からなくなってしまった。
小学生から中学生へ。それは図らずも、ピアノを彼女の人生でどう位置付けるかを、考える時期とも重なった。単なる趣味で終わらせるのか、或いは……。
その迷いが演奏に反映してしまい、中学最初のコンクール予選で、彼女は酷い演奏をしてしまったそうだ。
「そ、その時ね。同じコンクールによく出場してて、ずっと、仲良くしたいと思ってた娘がいるんだけど……睨まれちゃって。分かったんだと思う、私の演奏に、迷いがあることが……そして、その娘の演奏には、迷いがなかった」
またその時に彼女は、あることに気づいた。コンクールには当然のように、勝者と敗者がいる。そして敗者の方が、圧倒的に多い。
彼女はそれまで無邪気に、敗者を顧みることもなく、ただ勝ち続けてきた。才能という名の、無言の暴力。ロビーで泣いている子がいても、上手く弾けなかったのかなぁと、心配する程度だった。
「さ、最低だよね……私、全然、そういうことに気付いてなくて……」
中学生になると、部活や学校が忙しくなり、ピアノを続ける人間の数は少なくなるという。だがその分だけ、コンクールには音楽に対して情熱的な人間が残る。
自分より真摯に、真剣に音楽と向き合っているコンクール出場者たち。彼らから自分の演奏に対して向けられる、“ 何も語らぬ口 ”と、“ 何かを語る目 ”。
突如として、そういったモノが圧力をもって彼女に圧し掛かる。その結果、ある時期からしばらく、彼女はピアノが弾けなくなってしまったと話した。
「そんなことが……」
何をどうするでもなく、私は不甲斐なさに拳を作った。彼女が苦しんでいた時に、そのことを何ら関知せずに私は暮らしていた。
しかし、いくら悔しがってみせた所で、彼女の過去の苦しみには何の助けにもならない。ただ自己に向けた憐憫を、太らせるだけ。
ただ現実の彼女は眩しいモノを見るように、目を細めてくれた。
「う、うん。でもね……」
その困難を、彼女は先生と共に克服した。小学校からの知り合いが多かった、前のクラスの友達も、彼女の力になってくれたと言う。
小学生の頃からピアノに熱中していた彼女には、友達は少なかった。それでも彼女の演奏が好きで、慕ってくれる女性徒も何人かいた。
「合唱コンクールの時は、もう元通り弾けるようになってたんだけど、大勢の前では久しぶりで……でも、みんな凄くいい人で、私を気遣ってくれて……」
最後に彼女は、涙を拭いながら、
「それに……」
と前置いて、大切な宝物をみつけた子供みたいな顔で結ぶ。
「それに今は、ノゾムくんが居てくれるから。だから、私……」
その笑顔に私は、急に何か、怯えたような衝撃を受けた。彼女の瞳に映る私を、私自身が恐れるように。自然と視線が下がり……。
「そんな、僕は……何の役にも、」
「そんなことない! そんなこと……ないんだよ」
私はその時から、音楽の世界という、見知らぬ遠くにある世界の存在を、初めて意識した。その世界に彼女が、主要人物として登場していることにも。
そんな彼女に比して、私は何も持っていない只の中学生。バレー部では副キャプテンを務めていたが、大して上手い訳でもない。
事情があって勉強だけは必死にやっていたので、成績はよかった。取り柄らしい取り柄と言えば、その程度。
ただ将来的には、漠然と、奨学金を借りてでも進学して、精神科医になりたいと思っていた。見えない人の心の傷を、病を、癒したいと。
それから暫くした後、季節は本格的に夏となり、二人で受験の話をしている際に、そのことを彼女に告げた。
音楽室の一件があって以来、私は彼女と更に親しくなった。彼女は私に信頼を寄せてくれて、私も彼女を深く敬愛していた。
「ノゾムくんは、やっぱり公立の進学校?」
「う、うん。将来は、その、精神科医になりたくてさ」
「精神……科医さん?」
「えっと、心のお医者さんみたいなもの。恥ずかしい話だけど、人の――」
私が聞かれていないことまで話し終えると、彼女は顔を輝かせて言った。
「ノゾムくん、優しいから。きっと素敵な先生になれるよ!」
彼女の弾んだ言葉を前に、私は、曖昧に笑って見せるより他になかった。
私が優しいのかどうかは分からなかったが、恐らく、違うんだと思った。でも自尊心を抱えていた私は、「そんなことないけど」と努めて否定もしなかった。
そして私は、そのことで密かに浮かれてしまっていたんだと思う。
「美園は将来……あ、え、えっと」
次いで私が迂闊な質問しようとし、それに気付いて途中で止めると、彼女は柔らかく微笑んだ。気を遣わなくていいんだよ、とでも言うように。
やがて彼女は、遠くを眺めるように目を細めて言う。
「まだ、自分でもわからない」と。
「ピアノの道は、甘くないから」と。
嬉しそうに悲しそうに、笑いながら。




