2.山岸美園
私が初めて山岸美園の演奏を聞いたのは、中学二年の合唱コンクールの時だ。
秋から冬へと移り変わる、外気が静寂に塗り替えられていくような、寒い季節。私の出身中学では、全学年を交えて合唱コンクールを行うことになっていた。
フロアシートが敷かれ、パイプ椅子が一面に並べられた、田舎町の体育館。カーテンは閉じられ、舞台以外の照明は落ち、学校用ストーブが赤々と燃えていた。
そんな中、早々と合唱を終えた二年一組の私は、椅子に腰かけて他のクラスの合唱に耳を傾けていた。二年三組の合唱が、拍手と共に終わる。
――山岸美園。
彼女とはクラスは違うが、同じ図書委員会に所属しており、顔見知りではあった。だが格別に親しい訳でもなく、当番や委員会の際、何度か会話をした程度。
その為、二年四組の出番となり、放送委員のアナウンスで彼女がピアノ伴奏をすると知らされた時も、大きな関心を示さなかった。
白く繊細そうな肌。痩せた、平均的と思われる身長。特徴のない、中学生らしい髪型。よく見ると整った顔立ちをしていたのだが、地味な雰囲気で覆われていて、注目されなかった。
何よりも彼女は、気弱そうな顔で、いつもオドオドとしていた。個性に乏しく、どこかぎこちなく笑っている。それが中学時代の、山岸美園の姿だった。
一本の光の柱のような、自信に満ち溢れた現在の姿からは、想像がつかないかもしれない。だが当時の彼女は、常に自分に自信がなさそうにしていた。
そんな彼女が舞台袖から中央へと、指揮者の男性と共に現れ、聴衆に向かって頭を下げる。アナウンスが曲名と共に、ピアノ伴奏者、指揮者の名前を告げた。
続いて二年四組の生徒が、袖から列をなして現れた。舞台中央に据えられた、三段からなる木製の壇に登り、所定の位置に立つ。
どのクラスとも違わない、一連の流れ。唯一違う点があるとするなら、下手のピアノに腰かけた彼女が、何かを問い掛けるように合唱者たちの顔を眺めたこと。
それに気づいた檀上の何人かの女生徒が、揃えたように首肯する。次いで指揮者と彼女が視線を交わし、決心したように彼女は頷いた。
そうして、彼女の指は鍵盤に置かれ、指揮者のタクトは静かに……。
結論から言えば、山岸美園の伴奏は、合唱コンクールという器に収まり切らないものだった。彼女が八十八個の黒と白の鍵盤と向き合い、指を走らせるや否や――
静寂の中に現れた旋律は、一瞬にして、体育館の色を塗り替えた。
私は直ぐには、何が起きているのか分からなかった。まどろみの中、急に覚醒させられたような感覚。人の奥底に眠る美しいモノへの欲求を、刺激するような。
それは他のクラスの伴奏とは、明らかに一線を画していた。触りの部分だけでそれが分かるような、肌を刺し、心地好く痺れさせる伴奏。
合唱者がそんな伴奏に飛び込むように、歌を被せる。クラスが一丸となって、十分に練習をしてきたことが伝わる合唱だった。
しかし私の意識は合唱ではなく、その輪郭を縁取り、見事に調和する伴奏に奪われていた。中盤に差し掛かると、一時的に合唱が止み、ピアノが主役に替わる。
巧みな演奏が決まって何らかの幻覚を伴うように、次第に私は、自分が体育館にいることを忘れ始めた。冷えた床から這い上がってくる、冷気すらも。
彼女が紡ぐ音色。その繊細な音階に、落葉を見るような哀愁を感じるかと思えば……次の瞬間には、豊かな奔流となって私の中に流れ込んで来る。
私は開いた口を閉じることも叶わず、ただ呆然とした。まるでその伴奏によって、私の存在そのものが、かき乱されたように……。
それからも彼女は歌に寄り添い、人の琴線に触れて奏でるような、見事な伴奏を続けた。そして合唱が終わると――。
「二年四組の合唱でした。大きな拍手をお願いします」
放心していた私は、アナウンスの声で我を取り戻し、急いで両手を打ち鳴らした。遠雷の轟きを思わせる拍手が、体育館を包む。
その年の合唱コンクールでは、二年四組が二年の最優秀賞に選ばれた。全学年を含めた伴奏者賞には、彼女、山岸美園が。
授賞式では、二年四組の生徒たちは誇らしげに顔を輝かせていた。彼女も恥ずかしそうに、戸惑うように、でも嬉しそうに笑っていた。
――彼女の存在を、学校中が、私が意識し始めたのはその時からだ。
知らず、目で追う回数が増える。それと共に、彼女の噂を耳にする機会も。ピアノコンクールに出場するような、豊かな才能を持ち、音楽に熱心な彼女。
しかし彼女は、相変わらずオドオドとして、気弱そうだった。廊下や委員会などで、人から話しかけられている姿を目にした時も、困ったように笑っていた。
だから私が告白したときも、まるで思いもよらないといった感じで、きょとんと目を見開いて迎えるだけだった。小鳥がさえずるような、可愛い声で言う。
「わ、わたし……ですか?」
合唱コンクールが終わって数か月後のこと。春休みが始まる直前の、日向に春の訪れを感じる頃だった。放課後の人気のない図書室の隅で、私は彼女に告白した。
思春期には、今では考えつかないような、人生に対し大胆になれる瞬間がある。微かな引け目を感じながらも、それを飛び越える。その時が、正にそうだった。
私は彼女に、自分の恋心を単に打ち明けるのではなく、伝えるよう努めた。
自分は音楽に詳しい訳じゃないが、君の演奏がとても心に響いたこと。それ以来、気付けば毎日のように、君のことを考えている自分がいること。出来ればそんな君を、もっと知りたいと思ったこと。
そんなことを彼女に伝えていた。微笑ましい位に、自分の人生に対して拙かった。だが、その分だけ真摯でもあった。
「え、えっと……」
彼女は視線を落ち着きなく彷徨わせ、床と私を交互に見ていた。細長い両手の指を、ぎゅっと胸の前で組み合わせた格好で。
恐らく、人生で初めて異性から告白されたんだと思う。だから――
「その、わ、わたしなんかで、よければ、え、えっと……お、お願いします!」
彼女は気弱だからこそ、私の告白を断れなかった。周りを見ても、中学時代の恋愛は、そんな風に、流されるままに付き合い始めた例が、殆どであった気がする。
だが私の人生の中で、唯一誇れるものがあるとするならば……。
あの時、思い切って彼女に告白したことであると思っている。
その日から、私たちは連絡先を交換して付き合いを始めた。恋愛と呼べる程に激しいものではなく、交際と呼ぶような、淡いものだった。
春休み中に初デートもした。人口五万人程度の、特徴のない愛知県の田舎町。祖母から教えてもらった喫茶店に、二人で足を運ぶだけでも緊張した。
昼過ぎに近くの駅で待ち合わせ、徒歩で向かう。
ぽつぽつと、にわか雨が地面を打つような会話。全体的に白い、育ちが良さそうな私服の彼女は、制服特有のやぼったさがなく、目に眩しかった。
食器などの日常雑貨も販売している、喫茶店が併設された洋館風のケーキ屋さん。駅から少し離れ、分かり難い場所にある為か混雑はしていない。落ち着いた、感じの良い隠れ家。
店の扉を開くと、彼女は感嘆の声を上げ、食器や小物などを楽しそうに眺め始めた。安堵の息が漏れる。女の子を、楽しませることが出来たという喜び。
だが喫茶店の席に着いて、いざ面と向かうと、何も話せなくなっている自分を見つけてしまう。メールでは自然と、先程までは不自然ながらも行えた会話が、何故か出来ない。
急に、自分がデートをしているということが自覚され、緊張してしまった為だ。
彼女も同じような心境なのか、或いは私の緊張がうつってしまったのか、顔を赤くして、俯いていた。二人の間に、思春期特有の無言が横たわる。
注文したケーキと飲み物が運ばれてくるも、何となく、お互い、手を着けることが出来なくて……そんな時に私を助けたのが、店内で流れるクラシック曲だった。
「あ……この曲」
こじんまりとした喫茶店内。利用客は少なく、大きな硝子窓の外には庭園が見え、そこから二人席の私たちに、肌触りのいい陽光が降り注ぐ。
私は手元の、水が入ったグラスを見ながら、反射的に口を開いた。天井に取り付けられたスピーカーから、聞き覚えのある曲が低く絞った音で流れていた。
「え? リ、リストだね。超絶技巧練習曲の四番で、え、えっと名前は――」
彼女はおずおずと面を上げて、私の言葉を引き取った。
そして今度は私が、その言葉を引き取って答える。
「マゼッパ、だね」
それは、ピアノの可能性に対する挑戦。
フランツ・リスト作曲。
超絶技巧練習曲 第四番 二短調「マゼッパ」。
名前の通り、弾く者に超絶技巧が求められる難曲。演奏者が時に汗を流し、全身で鍵盤を激しく叩いて奏でる。リストの真骨頂が凝縮された、七分余りの曲。
私は告白の際に彼女に言ったように、格段、音楽に詳しかった訳ではない。だが店内で偶然に流れたその曲は、慣れ親しんだ曲でもあった。
その曲を初めて聞いたのは、小学校五年生の夏休み。祖父の書斎でだった。
祖母に頼まれた私は、昼食の用意が出来たことを伝えに彼の書斎を訪れた。
木造二階建ての日本家屋。田舎という理由もあって大きな、門から玄関まで距離があり、眺められる程の庭がある、立派な家だった。
一階の廊下を進んだ奥、書斎に繋がる木製の扉を開ける。すると魔術的な、魔女の釜の底にいるような、おどろおどろしい音色が鳴り響いていた。
黒い花をみるような、人を落ち着かない気持ちにさせる何か。美しく、同時に酷く恐ろしい。その曲を耳にし、立ち竦んでしまったのを今でもよく覚えている。
――それが私と「マゼッパ」との出会いだった。
『お、いやいや、もうお昼か』
書きものをしていた祖父が、私に気付き、微笑みかけた。
『う、うん。チキンライスだって』
何処かぎこちない私の言葉を受け、彼がCDプレイヤーの再生を止める。そうして私は祖父と二人、祖母の待つ食卓へと向かった。
不思議と私は、後ろ髪引かれる思いだった。昼食の間は気もそぞろで、恐ろしいにも関わらず、書斎でかかっていた曲を、もう一度耳にしたいと考えていた。
だが直ぐには言い出せず、結局、それから数日経って、あの曲が気になることを祖父に告げた。彼は驚きながらも柔和に笑い、私を書斎に誘いCDを再生した。
魔術的な旋律が、恐怖の形のように私を捕える。またその際、白髪の祖父は、どこか物流しそうに目を細めて私に言った。
『ウクライナの英雄、「マゼッパ」を題材にしたこの曲には、世界の全てが含まれていると思うんだ。激しい感情も、優しい感情も。雷の音も、小川のせせらぎも。全てが渾然一体となって調和している。相反する二つのものを求めて止まない人間というものが、それを包む世界というものが、この曲には現れている。昔は忙しくて、ゆっくりと音楽を聞く時間すらなかったけど……今なら、そう思えるんだよ』
祖父は音楽評論家でもなければ、自分で楽器を弾く人間でもない。だからそれはあくまでも、祖父の一見解に過ぎないということは、今の私ならよく分かる。
それと共に、朧気ながらも、あの日の祖父の饒舌の理由も……。
二人は、かつて母と確執があったとは思えない、優しい人たちだった。或いは、努めて優しくあろうとしていたのかもしれない。
しかし、私は生涯、彼らとの間にあった心理的な距離を、溝を、断絶を、埋めることが出来なかった。お互い恐れていたんだと思う。お互いの存在を。
祖父母が私を見る目には、いつも、儘ならない人生をじっと眺めるような、それでいて、どこか気後れする色が映っていた。
『この曲が、気に入ったのかい?』
『え? あ、はい。その難しいことは、よく分からないけど』
その日以来、私はCDプレイヤーの操作方法を覚え、時間を見つけてはその曲に耳を傾けた。当時の私が、祖父が語った言葉の意味を理解出来ていた訳ではない。
だが、「世界の全てが含まれている」という言葉と共に、デモンが宿ったような、一種、魔的な音楽は私を虜にした。汲み尽せない魅力が、そこにはあった。
ここで話を、中学時代の彼女との会話に戻す。
「め、珍しいね。その、有名な曲じゃないのに、知ってるなんて」
私が机を見ながら曲名を口にすると、彼女は驚き、感心するようにそう言った。上目遣いで盗み見る、彼女の瞳の光彩が目に眩しく、心をざわつかせる。
「わ、私も一度、楽譜を見て指使いを確認したことあるんだけど……とっても難しくて、先生も、これを弾きこなせたら一人前だって、そう言ってて」
「あ、えっと、僕はたまたまだよ……お爺ちゃんが好きで、それで」
私は早口で答えながら、視線を机の端に移した。
だがふと気になってしまい、再び彼女の顔に目を向けた。すると彼女と目が合ってしまい、顔を真っ赤にした私たちは、弾かれたようにして俯く。
「そ、そうなんだ」
彼女が言う。
「う、うん」
私が答える。
無言が再度、私たちの間に横たわった。
「あ、あの……どうしてお爺さんは、マゼッパが好きなの?」
その静寂を気まずく思ったのか、或いは純粋な興味なのか、彼女が口を開く。
私はその質問に答えることを、嬉しくも、どこか気恥ずかしく思い、下を向きながら口を動かした。
「じ、実は、僕も完全に理解出来てるわけじゃないけど――」
私はそれから、一語一語を選ぶように、彼女に説明した。その頃には聞き馴染んだその曲に対し、祖父と同じような印象を持つようになっていた。
魔術的な嵐のような演奏が徐々に収まると、しっとりとした夕べの調べのような演奏に変わる。それもある地点で転調し、再び激しい、恐ろしい旋律に変わる。
だがその激しさは、最終的には静けさに包まれ、希望を感じさせる終焉で結ばれる。八分に満たない楽曲に、世界が込められている。
そういうことを拙い口調で、彼女の真似をして頼んだ、味も分からない紅茶を飲みながら言った。
「世界の全てが?」
私が言い終えると、彼女は、驚きに緊張を忘れたように尋ねた。
「え、えっと、うん」
私がぎこちなく微笑みながら応じると、彼女は考え込むような顔つきになり、
「そんな風に解釈する人もいるんだ……」
と感想を漏らした。
私は彼女を思考の世界に一人にして、震える手でカップを手に取った。紅茶を啜る。その時、突如として強い不安に襲われた。
音楽の素人である私が知ったようなことを言って、彼女の気分を害してしまわなかっただろうか。そんな考えが、現実的な問題として被さってきた為だ。
だが私の懸念もよそに、彼女は、私の胸を切なく締め上げる笑顔を見せた。
「すごいね、ノゾムくんのお爺ちゃん」
「え?」
そして言った。
「私もマゼッパが、好きになりそうだよ」
古いモノクロ映画を見るような、二度と戻らない、遠い昔のこと。
今ではもう決して出来ないような、そんな拙くも、一瞬一瞬で心臓を強く鼓動させるデートを、私たちは繰り返した。
周りには、映画館や、少し背伸びして遊園地に二人で遊びにいく同級生もいた。だが私たちは同じ喫茶店で、同じように緊張しながらデートを重ねていった。




