欠けたるものは
「最近、ソフィが冷たい」
などと、アングレンの領主閣下から相談を受けたのは、ダレン・ボレルらがアングレンへ到着して一週間もした、ある日のことである。領主邸の、中庭を見晴るかせるテラスで、ダレンは親友の深刻そうな面持ちを目だけで観察しながら茶をすすった。
中庭ではダレンの戦友であり旅の仲間であるベン・クィルターが、練習用の木剣で領主の義理の娘に稽古をつけてやっているところである。この領主の義理の娘、ソフィーリアは、つい先日アレスター・ロウというメダル付きの騎士から従騎士に任ぜられていて、亜麻色の髪と翡翠色の瞳、シルクのようなきめ細やかな肌の美貌と、優れた武勇を持つ。この際、美貌に見合った、と表現するべきであろうか。身のこなしは、同じくメダル付きの騎士であるベンも舌を巻くほどの流麗さで、男性では不可能なほどの巧緻さをもって木剣を振るっているのだ。
亜麻色の長髪が動きに合わせて舞い踊り、太陽光を吸って燦然ときらめく姿は、女神のようにも妖精のようにも思われることだろう。今は稽古であるから、髪が束ねられているのが残念である。
「どのようにだ?」
「俺が公務をしていて茶を淹れてくれるとき、そのまますぐに引き下がってしまうのだ。以前ならばなにをしているのか、訊いてくれたものだが」
「彼女も大人になったのだ。領主の邪魔をしてはいけないと思ったのだろう」
「それだけではない。遠くからこうしてお前と話しているところを見かけても、通り過ぎてしまう。以前ならばなにを話しているのか、訊いてくれたものだが」
「彼女も大人になったのだ。旧友との邪魔をしてはいけないと思ったのだろう」
「きわめつけは、俺への呼び名が『ツィード様』ではなく『領主閣下』になったことだ。なんと他人行儀な」
「彼女も大人になったのだ。公私混同をしてはいけないと思ったのだろう」
「おい、真剣に聞いているのか」
「聞いているとも。残念ながら」
ツィードは不満そうに鼻を鳴らしながら銅製の杯を空にして、また茶を注いだ。実際、ダレンには真剣に取り合う気などはなかった。要するに子離れできない親父の愚痴なのだ。四年も離れていたのだから甘やかしたい気持ちはわからぬではなかったが、それで鬱陶しさがまぎれるわけでもなかった。
「お前、従騎士になど任じて、ソフィを独り占めする気か」
ツィードは、ダレンがソフィを従騎士に叙任したことに関して、驚いてはいたが、反対してはいなかった。父親として、ソフィに危険な目に遭わせたくないと思ってはいるものの、一方で娘のやりたいことならやらせたいとも思っているのだ。女が騎士になるなどという大それたことを思えば、これは親馬鹿というより無責任の範疇になるかもしれない。エレズスの教えは徹底的な男尊女卑であり、女が戦場に立つことなど、ほぼない。
ただ、女騎士の事例が皆無というわけではなかった。
標準暦七〇二年、一七歳のシャルロットと一四歳のエリーゼという姉妹は啓示を受け、当時のブレスプル王国の預言者として宮廷に入り、従軍。自ら陣頭に立って剣を取り、指揮官を支え、「四度目の突撃を防いだときに勝利する」という予言を見事に的中させる。この功績から姉妹は領地を与えられるとともに聖女として崇められることになる。
……晩年、といってもシャルロットが二〇歳、エリーゼが一七歳のときであるが、エレズスの司祭たちが結託して、彼女たちを追い落とし、火刑に処した。罪状は「国王陛下を誑かし、神を愚弄した」というのであるが、なによりも彼女たちの不幸であったのは姉妹であったことだった。エレズスの神、エル・エセスは古くは双子神であり、それになぞらえて「神が遣わした、神の化身」とまで言われたのである。彼女たちの神通力は予言に留まらず、嵐を消し去り、盲目の老婆の視力を回復させたと伝わっている。それが神の化身たるゆえんであるが、司祭たちは当然、それを認めなかった。神は男性である、というのが常識である。
姉妹は拘束される際、取り乱すでもなく、ただ淡々と「ならば」と言って、以後はなにを言われても返答せず、炎に焼かれても悲鳴一つあげなかったという。彼女たちは今なお、エレズスに災いをもたらした悪魔として、聖人に数えられてはいない。
標準暦七三五年、シャニアの城に、セレスという妙齢の女性が訪ねてきた。馬一〇〇頭と兵士を貸せ、というのであるが、当然そんな要請には応えられないシャニアの衛兵は彼女を追い返そうとして、逆に殴り倒されて鎧と剣を奪われた。そのまま王宮のなかを驀進したセレスはついに国王のもとまでたどり着いて、親衛隊に拘束された。
シャニア王はセレスの武勇を認め、彼女の要求を聞いてやることにした。なんでも、彼女の故郷が異民族に襲われているため、追い払いたいというのである。無論、反対がほとんどであったが、どこか抗いがたい雰囲気が彼女にはあった。
異民族を追い払ったら必ずシャニア城に兵力を返しに来ると約束して、馬五〇頭と兵士一二〇人余りを率いて、セレスは故郷へと帰って行った。要求どおりの数を率いさせなかったのは当然の警戒だったが、セレスは形のいい顎を指でつまんで「よし」と呟いて満足そうな趣だったという。
……一ヵ月半後、シャニアの城下町は騎兵五〇〇と歩兵二〇〇〇あまりの襲撃を受けた。思いもかけない奇襲にシャニア城では戦々恐々といった雰囲気であったが、伝令が奇妙な報告を、シャニア王にもたらした。「約束を果たしに参った、と女が言っている」。
襲撃者の正体はセレスであった。彼女は最初に借り受けた兵力をもって一週間ほどで異民族を打ち払ってしまうと、あとは募兵をしながら周辺地域を制圧していったのである。
堂々とシャニア城に入城したセレスは、くすんだ赤い髪に銀色の甲冑姿であり、古の戦女神のようであったと伝えられる。
その後、セレスは士爵に叙せられて騎兵隊を率い、シャニア王の息子の正室となるはずだった。
だが、それはかなうことはなかった。ここでもやはり、司祭たちが異を唱えたのである。シャニアの神官のほとんどが城に集まって翻意を促し、シャニア王は結局それを容れた。神官を敵に回しては国が立ち行かないことを知っていたのである。
セレスはシャニアを追放されて、その後の行方については資料によって北方に現れていたり、実は大臣の愛人になっていたりと、はっきりとしたことはわかっていない。当時から「セレスというのは王を幻惑しようとした異教の女神だ」などという巷間の噂があったが、現在でも一部の地方では魔女として伝説に登場している。
ブレスプル、シャニアといった王国は、現在では地方の名前でのみ残っている。国家の興亡は必然としても、運命論者からすれば、これは女性の英雄を容れることのない狭量さから滅んだのだ、と主張できるかもしれない。だが少なくともエル・エセス教の国々ではこれが当たり前なのであり、その当たり前を破れないからといって批判するのは酷というものであろう。むしろ、ダレンやツィード、ベンといった、いわゆる「先進的、革新的」な考え方が異質なのだ。この時点では、この先進的な考えが異端であり、教会にとっては「エレズスを根底から覆しかねない、排除すべきもの」である。
ツィードは娘を過去の偉大な英雄たちに比肩するように、とまでは考えていないが、彼女たちの人生をなぞらないようにとは思っている。彼女たちにはなんの非もないことだが、破滅するに決まっている道をわざわざ歩むことはない。
「ダレン、なにか考えあってのことだろうな」
「実はこれというものはなにもないのさ。ソフィーリアが騎士として充分だと思ったら、とっととお前に返す」
「おい、そいつは無責任だぞ」
仮に、ソフィが女だてらに騎士として叙任できうるような大働きをしたとして、それを執り行うのは主君である、領主のツィードなのだ。そしてそれは秘密裏に行えるものではない。大々的に知らしめる必要があり、当然コンプトンや聖堂騎士、あるいは王都にまで伝わるであろう。そうなったとき、責めを負うのはツィードで、実際に罰を受けるのはソフィなのだ。火あぶりか、磔か、重石を抱いて河底に沈められるかもしれない。
歴史がそれを証明しているのだ。女は表舞台に立ってはならないのである。
「まぁ安心しろ。従騎士のままでいさせることだってできるさ。ここの領主はお前さんで、領地の人事などお前さんのほしいままではないか」
「それはそうだ」
「いずれ武勲を立てて騎士に叙すとして、まずは地歩を固めねばならん。教会が手出しできないような、な」
このとき、ツィードは親友の紅鳶色の瞳に烈光に似たものを見て、身震いした。直感的に、ダレンの言うことが「エレズスを根底から覆しかねないなにか」だと気付いたのだ。喉元に閉塞感を覚えて咳払いし、ツィードは親友をたしなめた。
「ダレン、お前が教会に対して失望しているのはわかる。俺も同じ気持ちだ。だがそれにソフィーリアを巻き込むことは許さんぞ」
「……そう、そのとおりだ。だからとっととお前さんに返したいのさ。そして俺は旅に出る」
「どこへゆくのだ」
「さあな。他国へ渡るのもよいかもしれん」
ダレンの言いかたはむしろそっけないが、親友の領主の目を見開かせるには充分であった。リユフェニアの公用語はリユフェニアとシャン・プシャン、カルネリアの一部にしか通じない。あとは言葉も通じない、文化もまったく違う異国なのだ。そんなところで放浪の旅を続けるというのか。
「ダレン、せっかく名を変えているのだ。この際、そっくり生まれ変わってしまえ。そしてアングレン騎士として俺を支えてくれ」
「……」
「故郷はもうない。親の顔など覚えていない。仲間たちも幼なじみもどこにいるのか見当もつかん。ようやく会えたダレン・ボレル、ここに根をおろさぬか」
親友の目は真剣である。
ダレンにも、それが好意以外の何物でもないことは承知している。彼の言うとおり、親の顔を知らないダレンにとって、家族と呼べる唯一の人間がツィードだ。それはお互いさまで、アングレンの地に根を張ることもよいと思える。
だが、ダレンは逃亡者なのだ。彼自身はそうとは思っていないが、まず討伐軍内では遁走したものとしているであろう。もし、アングレンに潜伏していることが知れたら、領主であるツィードの身が危ない。いくらでも言いつくろえるであろうが、親友はそんなことをしないだろう。
確かに、名を変え、髪型を変えれば別人になりかわることはできる。それで追及を免れるかもしれないが、いつ真実が暴かれるかしれないという不安は拭いきれない。真実を隠すために多くの人の協力が必要で、それは運命共同体となることを意味するのだ。
火あぶりになるなら自分一人でなる。ならば最初から親友を頼るなというところだが、他に手立てが思いつかなかったのだから仕方がない。せめてこれ以上の災いとならないようにするのみだ。
「考えておこう」
ダレンがそれだけ言って押し黙ってしまったので、ツィードもそれ以上なにも言わなかった。昔からダレン・ボレルという男は、喋らないと決めたらてこでも喋らないから、現時点でこれ以上の説得は無駄であろう。
「うっ!?」
ベンの木剣がソフィの左肩を強襲した。ソフィは反射的に防いだが、次が続かないことに気付いた。が、それも遅い。ベンは半円を描いてステップを踏み、背後を取ると、ソフィの背中を軽く小突いた。
「うむ、今日はこれまで」
半白の髪を撫でつけて、ベンはダレンらのほうへ歩いて行った。その背中に頭を下げながら、ソフィはダレンをちらりと見やった。
ベンの一撃を、ソフィは切っ先を天に向けて防いだが、あれでは駄目なのだ。まだまだアレスター・ロウの剣技の、真似事すらおぼつかないレベルなのだ。足元に及ばないとしても、せめて視界の隅に入るくらいのことでなければならない。
ソフィと違って息のあがっていないベンは、椅子に座ると蜂蜜酒の小瓶をあおった。
「我が従騎士の剣技はどうかな、師範どの」
ダレンにからかわれて、ベンは目の高さに小瓶を掲げた。我関せずを貫きたかったベンであったが、ソフィはダレンではなく、ベンに剣の稽古をつけてくれるように頼んだのである。
「アレスターの剣はいわば天才だ。型にとらわれない独創性、ぶつかり合って小揺るぎもしない膂力、鳥すら撃ち落として見せる機敏さ。それに加えて一〇年以上も騎士として、討伐軍に身を投じて戦ってきた経験がある。凡才や秀才では、到底肩を並べることはできぬだろうよ」
ベンはうなずきながらソフィにそう言ったものであった。騎士として、剣技に関して後れをとることは恥といえるかもしれないが、それは相手によろう、とベンは思う。剣技においてダレン・ボレルを凌駕することは至難である。負けるとは思わないが、五体満足というわけにはいかない。同じ経験を積んでいるベンがそう思うのだから、ソフィにはより以上に至難であろう。そしておそらく、ダレンの剣技を教えることもまた困難を極めるであろう。彼の剣は彼の身体能力あってのものであって、模倣の対象にはなるまい。
「すでに戦士としては申し分ない、ということは証明済みだしな。あとはいかに実戦経験を積ませられるかにかかっているのではないかな」
シャン・プシャンの盗賊との一戦を思い出しながら、ダレンはうなずいた。しかし実戦経験といっても、どうしたものか。まさか討伐軍に馳せ参じるわけにいかない以上、本当になんらかの事件が起こらなければどうしようもない。
ソフィの剣は、彼女自身の才幹に相応しく、並の騎士では相手にならないほどだ。ただ、それは十二分に実戦で発揮できるとは限らない。一対一の決闘ならばまだしも、乱戦、混戦の只中にあって、自らを守りながら敵を屠るのは容易なことではない。三六〇度すべてに気を配り、五感を駆使して己に向けられた「敵意」や「殺意」とかいったものを感じ取らなければならない。それはときに雄叫びといった聴覚に訴え、殺到してくる際の空気の流れによって触覚をすら刺激する。
それは、天性の鋭敏な感覚を持たないかぎり、実際に経験することでしか養われないものだ。
ふと、ダレンは思い返して銅製のコップを置いた。
「そうだ、そういえばここに来る途中、シャン・プシャンの連中に出くわしたぞ」
「どこでだ?」
「アングレンの南八〇キロメートルというところか」
「そんなところでなにをやっているのだ」
ダレンは子細を話した。親友の養子の奮闘具合は簡潔に、であったが。
報告を聞いたツィードは眉を曇らせて立ち上がった。聞き逃せない情報のように思えた。
「それは不審だな」
「なぜです」
アングレン周辺には、表向きエレズス教徒でありながら裏では土着の自然崇拝、カルネリアから渡ってきた異教の神を信奉する異教徒たちの村が点在している。かつてはクローメントもそうであり、ソフィの小屋があった場所は元々、幾何的に大理石でできた岩が配置された祭殿であったとされる。そのようなところにソフィが住むことになったのは村人の皮肉なのか、いずれにしてもツィードがそれを知らなかったことによる。
少なくともクローメントあたりまでは、そういった異教徒たちがいるわけで、それらが盗賊めいたことをしても特別、不思議ではない。そこにシャン・プシャン人が紛れ込んでもいっこうにかまわないではないか。国境は警備されているといっても、蟻一匹通さぬ、というわけにはいかないのだから。
ベンもそう思っていたのだが、領主は違うようだ。
「実は同様の報告が最近になって他に一〇件以上ある。一度や二度ならまだしも、こうもたて続けられるとな」
それに、二人のリユフェニア騎士も気になるところだ。アングレンの所属ではないことは確認されている。騎士が二人もいなくなればすぐにわかる。ならば他の所属なのだが、騎士が主君のもとを離れてなにをやっていたのであろう。
仮になんらかの任務を帯びていたのならば、アングレンの南八〇キロメートルといえば、こことは目と鼻の先だ。アングレン、あるいはクローメントを目的としてのものに違いない。
ツィードはダレンとベンを伴って、他の官僚を招集した。
会議の席には領主であるツィード、書記官サンデルマン、千人騎士長コレル、ロレン、尚書ガルトルート、ワイマン、ローセと、その秘書たちがいる。それに客人として逗留しているメダル付き騎士ダレンとベンを加え、ソフィは部屋の外で待機している。
領主と外交官、軍事責任者、内政担当者がいるわけで、議題はシャン・プシャンについてであった。
二人のメダル付き騎士が遭遇した盗賊について説明を終えると、官僚たちは囁き合ったり、唸ったり、それぞれ反応を示した。
それらを制してツィードが促すと、まず、千人騎士長コレルが報告した。
「先ほど、アングレン周辺の偵察から帰った騎士によると、シャン・プシャン人らしき騎影をいくつか見たそうです。馬首を向けるとすぐに退散したようですが」
基本的に、外見上はリユフェニア人とシャン・プシャン人の違いはそれほど多くない。レグール、バタンを吸収しているため、若干、黒髪がシャン・プシャンには多い程度である。しかしそれも、カルネリアを通じてヤンカーンからの人間が流入してくるために、アングレンにも黒髪は多い。
いくら騎士が馬首を向けたからといって、なにもやましいことのない人間がすぐさま退散するのはいささか奇妙だ。偵察に出た騎士は状況から予測しているのである。
いずれにしてもこのところ、シャン・プシャン人の動きが活発になりつつあるようだ。こういった散発的な略奪行為や侵略を根絶することは不可能である。組織的に動いているのでないとしたら、その都度対応せざるをえず、シャン・プシャンを滅ぼす以外に手立てがない。
領主の了承を得て、サンデルマンが発言した。
「グラント城塞でも確認しているようで、監視の強化をしているようですが、目だった侵略は行われていないようです。やはり独立した少人数での侵入でしょう」
リユフェニアを攻めるにはお互いの国境付近ではなく、カルネリア方面からであるとされる。リユフェニア北方、シャン・プシャン南方の国境付近だと、起伏の少ない平原であり、お互いに防備が万全で、ぶつかりあうとしたら総攻撃の局面であるからだ。ところがカルネリアのある西方では、必ずしもそうではない。これは、カルネリアとリユフェニア、シャン・プシャンがお互いに軍事的には協定を結んでいないからで、三者がいずれも配慮し合っている状態にある。軍を配置するにしても、ある程度の距離を保っている。
睨み合っている状態だが、常にそうであることはできない。必ず監視が緩む場面は存在するから、シャン・プシャン人たちはカルネリアを横目に、夜の闇に紛れて、あるいは朝焼けの穏やかな空気に溶け込んで侵入してくる。
そういった連中の目的は、リユフェニア国内に存在する「異教徒」をけしかけて蜂起させる、といったような戦略面でのものではない。元々自分たちのものを取り返す、という大義名分の外套に身を包んで、嫌がらせをしてやろうというものだ。短絡的であり、感情的であり、おおよそ軍事行動などとは到底呼べない代物である。
しかし、それが過去のものになっていたとしたら?
「あまりにも多いシャン・プシャン人の目撃は、要するに兵力を送り込んでいる最中だからではないか。少しずつ兵力を送り、密かに合流させて……アングレンを陥とす腹かもしれぬ」
「お言葉ですが、それは飛躍しすぎでしょう。もし、そういうことであれば、これまでに機会はいくらでもありました。それこそ、異教徒討伐の背後を襲うことだってできたはずです」
領主の懸念に書記官が異を唱えた。ツィードは書記官の言に一理あると認めつつも、疑念のすべてを振り払えたわけではなかった。
「カルネリアはどうだ?」
「相変わらずつかず離れず……基本的にシャン・プシャンのことは知らぬ存ぜぬといったところで」
「リユフェニア騎士の件はどうだ。なにかわからないのか」
千人騎士長二人は肩をすくめた。
「王都に連絡を出しているのですが、まだなんの返答も」
「栄光の騎士には心当たりがおありですか?」
ロレンの問いに、ダレンとベンは顔を見合わせて頭を振った。
異教徒討伐のあったジードレンム平野はアングレンから南へ四五〇キロメートルも離れている。少なくとも彼らがアングレン地方へ用があるとは思えないし、また、王都でもそのような話は聞かなかった。
ただ、ダレンやベンは異教徒討伐に参加している戦士だが、どちらかというとファリパの麾下であり、他の大司教の命令を受けることがあまりない。だから、ファリパの息のかかった範囲では、アングレンをとうにかしようなどという動きは見られないものの、それ以外のことについては定かではない。
「それにしても、シャン・プシャンがこの時期に手を出すには、いかなる理由からでしょう」
「近く、かの地では独立記念日だ。それに合わせて、見かけだけでも勝利を得たいのかもしれぬ」
尚書ガルトルートがロレンの疑問に答えた。領主府では最年長で、前領主の尚書、さらにその前の領主の次席秘書官として長らく仕えてきた男だ。ツィードにとっては政治顧問のような役割を担っている、長老的存在であるが、実は前領主がツィードを養子にとることを猛烈に反対したといわれる。
領主は世襲であるべきで、相応の名門が担うべき、という考えなのだ。アングレンは四代前の領主のとき、一度血統が途絶えていて、以降はグラント城塞の将軍が直轄するのが慣例になっていた。リユフェニア国王も、アングレンの地理を考えると軍事拠点としての価値のほうが勝ると考えて、生粋の貴族よりは武人に任せるほうが得策だとして、グラント城塞の将軍に権限を与えた。
一時期、それが問題になって権力闘争が起きたことがあった。ガルトルートにしてみれば「そらみろ」というところだが、前領主が得体のしれない村の少年を養子にとって後を継がせたのにはさすがに黙っていられずに前領主と殴り合い寸前の口論に至ったという。
とはいえ、ツィードに悪印象を抱いているであろうガルトルートも、いざツィードが領主の座に就くと立場を弁えて居住まいを正し、臣下の分を踏み越えることはなかった。さまざまに小言はもらっても、ツィードにとっては信頼すべき老人であり、その知恵は大いに彼を助けている。
「独立記念日は二週間後か」
標準暦九二三年六月九日。それがシャン・プシャン「独立」の記念日である。もっとも、当時のフェングレスタでは叛乱であり、対等の国としては認めていない。リユフェニアもそれに倣っているが、一〇〇年も経てば事実上の独立を黙認しているといえよう。
シャン・プシャンでは、フェングレスタを脱出したシャン・プシャン公が直轄領の領民たち、そしてレグール、バタンに号令をかけた六月九日を独立の日と定めているのである。
「王国に弓引く不逞な輩、こちらとしても策を講じねばなりませんな」
尚書ワイマンが言うと、ローセが同調した。
「このまま放置しておけば連中、味をしめてますます手を出してくるかもしれません。ひいてはシャン・プシャン軍そのものを呼び寄せる結果となるやも」
ガルトルートは立派な顎鬚を撫でた。
「散発的な略奪は排除する、これは同意だが、あまり大ごとになるとそれ自体を敵対行為とみなして軍を興すかもしれぬ」
今更だがな、とベンは口のなかで皮肉った。耳ざとくダレンも同意を示してにやりと笑った。
「それに、王都に知れでもしたら、統治能力を疑われることになるかもしれぬ。それは是非避けたいところだ」
一同の視線がツィードに集中する。発言した本人は別段、気にした風ではなく、視線を受けたほうはむしろ柔和な頷きを返した。
「ガルトルートに私も同意見だ。様々、疑念はあるが確たる証拠もなしに蠢動しては藪から蛇を引くことになる。引き続き、警戒を怠らぬよう、またいつでも出動できるように騎士たちは準備しておくように」
騎士長二人ははっ、と畏まり、文官たちは一礼して会議は終わった。
ガルトルートは去り際、ダレンやベンのほうに視線を向けた。それは好意とは程遠いものらしく、ダレンには思われた。
領主の友人でメダル付きの騎士、そしてシャン・プシャン人と交戦した経験者とはいえ、領主府の会議に当然のように列席しているのを好ましく思わなかったのだろうか。確かに、見ようによっては強権を行使しているように感じられるであろう。色々と配慮が必要で、この場合、それはツィードに帰されるべき責任である。
そのツィードは意地の悪い笑みを浮かべて友人に言った。
「老人め、お前の歓迎会に呼ばれなかったのを根に持っているな」
それこそダレンの知ったことではなかった。主催はツィードなのだ。
「あのご老体と折り合いが悪いのですか」
「ちと、な」
ベンが問うと、領主は肩をすくめた。彼自身、自分があの老人に望まれず領主にされたことは知っている。私的な交流など一切ないが、別にサボタージュをされることもない。さしあたってはそれで充分というところだろう。
ガルトルートにしても、職務に精励することで自らの不満や我を紛らわせているのだ。ツィードの領主としての器量や裁量は今のところ及第点で、これはガルトルートの功績でもある。ツィードを擁護する気はないが、彼が一度領主になってしまった以上、理想的とはいわぬまでもまともな統治をさせないと気が済まない。そういった、ある種の倒錯した心理が働いているのである。
「俺は所詮、平民の子で、しかも身寄りがない。そこらの木石となんら変わらん。俺が領主などというたいそうな地位に就いているのを好ましく思わない連中なんぞごまんといるさ」
ダレンは親友の表情に影が差すのを見た。いつも鷹揚で、覇気に満ちていて、自ら進んで虎口に飛び込んでは笑いながら逃げ出してくるような、兄貴分。彼は領主になって背も伸び、大人になり、責任や義務を果たす、人物となっていた。彼にはダレンも想像できないほどの労苦や試練を乗り越え、しかも未だにそれらから解放されることはない。
「アングレン騎士として俺を支えてくれ」
あれは、切実な願いだったのではないか、とダレンは思った。親友を気に掛ける、あるいはそれ以上に自分自身が安らぎを得たかったのではなかったか。
「お前は誉れだ。誰にも文句はいわせない」
などと、ダレンは口には出さない。ダレンが親友にしてやったのは、せいぜい大きく背中を叩いてやることだった。
「さて、領主どの。我らが従騎士、ソフィーリア嬢が待っている。さしあたって我らと彼女の腹を満たすのも立派な領主の務めだ」
その提案には、まったく異論はなかった。




