刃こぼれの騎士-2-
翌朝、ソフィーリアは喜び勇んで身支度をし、板金鎧に手甲、ブーツ、長剣、外套などなどを着込んで、村長に出立の挨拶を済ませ、小屋や羊の処分を頼むと、なんの未練もなさそうに馬に跨ってクローメントの村を出て行った。颯爽といった雰囲気があって、村長も半ば呆気にとられながら見送ったものだが、心のどこかで安堵の吐息が漏れた。とにかく、厄介者が厄介者を連れて行ってくれるのだから、否やはない。
「いいのか」
ベンが低声でダレンに問うたのは、俺たちはお尋ね者だぞ、と暗示しているのである。
アングレンまで一緒に行くだけであるし、お尋ね者といっても司教を斬り殺したわけではないのだから、手配書が回っているまではあるまい。ただ、逃亡者として、捕まった場合に裁判にかけられる恐れはある。そうなれば騎士階級の剥奪はもちろん、農奴階級に落とされることもあるかもしれない。
正義の使徒となることを志しているソフィーリアには迷惑きわまりない話であろう。共にいれば一党として処断されることになりかねない。だからこそ、ダレンは偽名を名乗ったのだ。ダレン・ボレルと知らなければ、いくらか罪は軽くなろうというもので、それはツィードにもいえることだ。「娘を人質に取られた」とか言えば軽い処分で済むかもしれない。
「奴には貸しがいくつかある。俺たち三人くらいなんとかするだろうよ。それに長い期間のことではない」
「貸し?」
「奴の名誉のために言わんでおこう」
含みのある笑いをダレンがしたとき、先導していたソフィーリアが二人の会話に入ってきた。
「ツィード様に貸しがあるとは、いったいどのような間柄なのですか?」
耳ざとい、と二人は思った。
「いや、まぁ、同郷でな。小さいころはよく……遊んでもらったものだ」
本名を偽っているためか、領主という身分のためか、慎重に言いかたを選んでいるようである。その不器用さがベンなどには面白い。
「そうなのですか。そういえば昔、ツィード様からお話を伺ったことがあります。故郷で一番の悪童が、一番の親友であるとか」
とんでもない、とダレンは思った。まだ十にもならない頃からずる賢く、大人を手玉に取ってはお仕置きとして小屋に閉じ込められていたのは奴のほうではないか。こちらはいつも尻拭いをしてやって、助けてやったというのに。
ふと、ダレンの瞳が時空を超えた。ツィードが一八歳、ダレンが一五歳のとき、親友は養子に入った。当時の王国の騎兵隊に身を置き、後に将軍になってグラント城塞に赴任し、事実上、アングレンの領主となった男には子がなく、アングレン地方のとある村に視察に出かけた際、妙に賢しげな少年を見つけた。村の案内を任された少年の言行は生き生きとして、同世代の少年たちの中心になっている。
まだ悪戯っぽい、しかし自信に満ち溢れている様が、領主の気に入った。彼は村で一番の知恵者でもあったのだ。
養子になって村を出る前夜を、ダレンは忘れないだろう。色々問題を起こしたツィードであったが、最後の最後でまた問題を起こしたのだ。ただ、それは彼と再会したときの肴にするとしよう……。
ダレンの紅鳶色の瞳にかすかな郷愁が湧きあがっている。戦友の穏やかな表情に興味を抱きつつ、ベンがソフィーリアに訊いた。
「その男の名はなんというのだ」
「確か、ダレンとおっしゃっておいででした。異教徒討伐で功を挙げた、と噂を耳にしたとも」
まぎれもなくこの男のことだな、と思ってベンは笑った。それを不審に思ったソフィーリアには、
「いや、確かにダレン・ボレルは功を挙げた。我が討伐軍で第一の勇者とは誰か、と問えばまず間違いなく彼の名が挙がるだろう」
と言い、ダレンの咎める、というよりは困惑した視線ににやりと笑ってみせた。事実、ダレン・ボレルの名がそういうものである以上、偽りではない。
「その名は聞いたことがあります。なんでも腕が六本あって、七人を一度に相手どるとか」
「腕が六本なのになぜ七人なのだ?」
「口でも剣を操ることができるそうで」
ベンは遠慮なく笑った。尾ひれがついた噂というものは面白いものだ。本当に面白いところは、この伝説が真実の一端を語っているからである。
ある戦闘において、ダレンは窮地に陥った。最初は三人、剣を交えているうちに倍の六人に増えたのだ。片手に折れた長剣、片手に短剣という有様だったが、なんとか最後の一人を打ち倒したところで横合いから踊りかかられ、両の武器で剣の一閃を受け止めた。
力比べをしながら、地面に先ほど斃した騎士の剣を見出すと、倒れ様に口で柄を噛み取り、横薙ぎに敵の膝を砕き、手に持ち替えて首を刎ね飛ばした。
近くにいた味方の若い騎士が、あまりのことに手を出せずに始終を見守っていて、戦闘終了後の宴でそれを熱っぽく語ったのである。もっとも、当の本人はそれについてはなにも語ることはなかった。さすがに初めての経験であったから、顎の関節を痛めてしまって、しばらく喋るのもままならなかったのである。
それ以来、ダレンは思案するときに顎をなでる癖がついた。痛みが走るのをかばうための動作が染み付いてしまったのであろう。
ダレンは顎をなでながらあからさまに話題を変えた。
「ところで、その鎧やらはご父君が遺されたものか」
「はい。父が使っていたのを鍛え直してもらいました。いずれは父の遺志を継ぎ、ツィード様のもとで働きたいと思っています」
「女騎士か。さぞ見栄えがよいだろうな」
ベンには悪気も嫌味もなかったのだが、ソフィーリアは聞き逃せなかった。
「ベン卿には思うところがおありのようですね」
このとき、ソフィーリアの翡翠色の瞳が一瞬だけ痛烈な光を発したのだが、年長の騎士の手前で拡散してしまったようだった。正面からだけでは、この熟達した男をひるませることもできない。
「というより、その領主さまのもとで働いている他の同僚は思うところがないのかな」
確かに、女性を傍に置くというのは一般的に、下世話な想像を掻き立てさせるものだ。いかに本人たちが主張しても、他者には先入観が真実を覆い隠してしまうことだろう。
そうでなくとも、ソフィーリアはツィードの被保護者であって、娘を贔屓していると捉えられかねない。どちらにせよ妬みや嘲弄の対象になることには変わりないのである。
「他人の嫉妬など、意に介しません。神に仕える者として真摯に、堂々としていればよいのです」
ソフィーリアは心もち、馬の脚を速めた。毅然とした態度は立派だが、誰もが彼女のように清廉潔白であるわけではない。その潔白さゆえに泥に塗りつぶされることも多かろう。若いな、と呟いたベンにダレンも感応した。
クローメントの村からさらに北へ一二〇キロメートルほど進んだところで、ダレンは足を止めた。五〇〇メートル先の大木の根本に、二人の騎士と思しき人間と二頭の馬が横たわっているのだ。遠目には、息をしている様子はない。
ソフィーリアが馬を走らせた。制止する暇もないほど鮮やかな馬術であったが、この際、それは有利に働かない。
「おい、しっかりしろ」
言いながら、ソフィーリアは助け起こそうとしたが、すぐに永くはないことを悟った。鎧はほとんど原型を留めておらず、同じく陥没している兜が転がっている。大槌か棍棒で打ちのめされた跡であろう。二頭の馬といま一人の騎士はすでに絶命している。
わずかに漏れた呼吸に耳を近づけると、言葉らしきものが紡がれていた。
「逃げろ」
そう言っているようである。ソフィーリアは反射的に腰に提げていた剣を抜いて振り返った。そこには近づいてきたダレンとベンがいたが、彼らもまた剣を抜いている。
「活きのいい女は好きだぞ」
軽口に紛らわせようとしたが、声の低さが皮肉へと変化させてしまっていた。ダレンほどの男でも、現在の状況は容易ならない。
三人は囲まれていた。一〇の騎影はリユフェニア人のものではない。
「シャン・プシャン人か」
リユフェニアより北方にあるシャン・プシャン公国は、元々はリユフェニアの前身であるフェングレスタ王国から独立した国である。当時のシャン・プシャン公はフェングレスタ国王の弟であり、フェングレスタでの王位の簒奪に失敗すると自分の直轄領に逃げ帰り、独立を宣言した。無論、そんなことは認めないフェングレスタは討伐軍を派遣したが、シャン・プシャンはレグール、バタンの後押しを受けて軍を退けてしまった。
以降、幾度も戦火が交えられたが決着はつかず、結局、独立は成功したのである。フェングレスタでは黙認する形としてリユフェニアとなった現在でもにらみ合いが続いていて、時折、シャン・プシャンは暫定的に定められた国境を侵してくる。彼らの主張としては、フェングレスタ王国はシャン・プシャン公のものであり、フェングレスタから興されたリユフェニアの土地は治めるべき主のもとへ返還せよ、というのである。
現在のシャン・プシャン公は領土「奪回」にそれほど熱心ではない。ところが、旧レグール、バタンを吸収する形で大きくなったシャン・プシャンは彼らを奴隷として扱い、シャン・プシャンで特権階級となった旧レグールやバタンの豪族、上級官僚たちとの軋轢など、様々な矛盾や問題を抱えることになり、一種のガス抜きとして戦を仕掛けるところがある。
今回、この一〇人ほどのシャン・プシャン人も、旧レグール、バタンの混成部隊とでもいうべきで、彼らにはダレンたちを品定めする趣がある。リユフェニア人はシャン・プシャンで高く売れるのである。
「蛮族ども、自分たちの縄張りだけででかい面をしていればいいものを、大人しくしておられんのか」
ベンが悪意たっぷりに言うと、シャン・プシャン人たちは騎馬で三人の周囲を回り始めた。獲物を前に舌なめずりしているわけである。いくらベンが皮肉を言おうが、十対三で負けるはずはないと思うのが普通だ。
「女のほうは稀に見る上玉だ」
訛りがひどいが、リユフェニア、シャン・プシャンでの公用語だ。旧レグール、バタンの人間たちはこの公用語に慣らされたものである。
「男も悪くない」
「だが、もう一人は年が食いすぎていないか」
「かまうものか」
好き勝手言われて、ベンは舌打ちした。
「罠だったな」
あえて獲物を弱らせておいて放置し、仲間が獲物を助けるために近寄ったところを一網打尽にする、という狩りの方法は獣に多く、シャン・プシャンの人間が好むことをダレンは知っていた。とっさにこの危険性を察知していたのだが、ソフィーリアの騎士道精神のおかげでまんまと嵌ってしまったというわけだ。
ソフィーリアは恥じ入って顔を朱に染めたが、下劣な作戦に対する憤慨の成分が多すぎた。
「シャン・プシャンの蛮族め!生かしておかんぞ」
「気が強いな」
「それはそれで愉しみがあるというものさ」
怒りのあまり耳まで赤くしたソフィーリアが馬に飛び乗ろうとしたが、賊の一人が追い立てると、馬は一目散に走りだしていってしまった。馬があるのとないのとでは戦闘能力に著しい差が出る。騎兵と歩兵の戦闘能力の違いは個々の場面でも例外はない。
ダレンとベンはソフィーリアをかばうようにして賊と相対した。
「まさか俺たちに勝てるとでも思っていやがるのか」
賊の一人が嘲弄し、他の一人が続いた。
「命乞いすれば五体満足に売り飛ばしてやるぞ」
ことさら大仰な反応はなく、ダレンは静かに言った。
「なら、五体すべて斬り飛ばしてやる」
言い終わるが早いか、ダレンは馬をけしかけて踊りだした。まさか向こうから仕掛けてくるとは思いもよらない賊は、一刀のもとに首を刎ね飛ばされた。天高く舞い上がり、地面に鈍い音を立てて転がった賊の首は、驚いたまま、永遠に表情を変える機会を失った。
賊は驚愕し、恐慌に陥った。ダレンが首を刎ね飛ばしたのは、頭領だったのである。ダレンはこの男が命令し、ソフィーリアの馬を追いやったことを看破していたのである。
その隙を、ベンも見逃さない。一挙に三人を相手取り、最初の一人は一度長剣で刃を合わせただけで斬り倒し、残る二人は数合打ちあって突き殺した。
「強い」
と、ソフィーリアは二人の騎士の技量に感嘆した。まず、これほどの戦力差がありながらひるむ色を見せずに攻撃を仕掛ける姿勢、そしてひとたび斬り結んでの剣技の妙。彼らが騎士としての名誉のメダルを手にした勇者であることはわかっているが、実際に間近で見てみると感嘆に震えるほどだ。
だが、彼女も見劣りしていない。
「!!」
賊が、ソフィーリアの前に馬を蹴り立たせ、威嚇した。賊としては、ダレンとベンはともかく、ソフィーリアはなるべく傷をつけずに綺麗なままで捕えたかった。彼女ほどの美貌があれば、シャン・プシャンでも上級貴族に高値で買い取ってもらえるだろう。
ソフィーリアは全身が強張るのを感じたが、すぐに五体の自由を回復させ、馬の後ろ脚を横なぎに切断した。たまらず馬が倒れ込み、賊もしたたかに地面に打ち付けられ、そこに容赦なく剣を突き立てたのである。
「ソフィーリア、乗れ!」
絶妙のタイミングでダレンが賊の頭の馬を奪ってソフィーリアにあてがった。華麗に跳躍して鞍にまたがると、走ってきた余勢を駆って賊に踊りかかった。今度は、賊のほうも容赦の余地はなかった。
ソフィーリアの剣は男性用の一般的な長剣ではなく、短剣の部類に入る。これは馬上では必ずしも有効ではないのだが、ソフィーリアの身軽さと変幻自在の剣技で補って余りある。瞬く間に二人を斬り倒して、実に五分の一を失った賊の退路を断つかのように立ちはだかった。
三倍以上の戦力差がありながら、完膚なきまでに叩きのめされ、もはや恥も外聞もなかった。二人のシャン・プシャン人はソフィーリアに襲いかかった。戦斧と大槌の同時攻撃をかわし、賊が改めてソフィーリアに向き直ったときには、すでに眉間に照準が定められていた。弓矢が、賊の頭領の馬に備え付けられていたのである。
二条の矢が正確に二つの眉間を射抜いた。二人の賊は馬上でのけ反り、ゆっくりと後ろへ倒れて行った。
ダレンとベンは短く口笛を吹いて称賛の念を露わにした。この娘、剣術もそうだが特に弓の名手だ。すれ違いざまに弓に矢をつがえる神速、命中精度、いずれも凡庸ではない。
ソフィーリアは二人にゆっくりと馬を近づけた。
「ベン卿には思うところが?」
万事、飄々とした男は両手を挙げて降参してみせた。が、ダレンには別の感想があった。
「実に見事だ。が、完璧を期すなら一人は生かしておいて欲しかったな」
なぜシャン・プシャン人がこのようなところで追いはぎめいたことをしていたのか、二人のリユフェニア騎士は何者なのか、問い質す機会を永遠に失ってしまった。大木にもたれてソフィーリアに危険を教えた騎士も、今はすでに息絶えてしまっている。
亜麻色の髪の騎士見習いは恐縮して、迂闊さを謝した。二人に対して力を示すために躍起になってしまったのである。
「まあいい。とにかくアングレンへ急ぐとしよう。ツィード……領主さまにお目にかからねば」
馬首を北へ向けた二人について行こうとして、ソフィーリアは振り返って馬を降りた。仮にも同じリユフェニア人の屍を晒したまま、獣の餌になるのを不憫に思ったのだ。埋めてやる時間はないものの、せめて死体の両手を組み、短く祈りを捧げてやった。
シャン・プシャン人に関してはその限りではないが、せいぜい迷わぬよう、祈ってやることにする。
◇◇◇
アングレンは、通常であれば肥沃な土地と豊富な水源に恵まれた穀倉地帯である。アングレンの街も他国に近いということもあって、異文化が入り混じった貿易の街として栄えている。北方にあるシャン・プシャンとは敵対しているが、西方にあるカルネリアと修好関係が築かれていて、そこを通じて様々な物資が流通する。
このカルネリアはシャン・プシャンと不可侵条約を結んでいて、直接交流することのない両国の橋渡しになって、ときにリユフェニアを支え、ときにシャン・プシャンを助けたりして栄えている。リユフェニアにしてもシャン・プシャンにしても友人ではあるのだが、油断のならないしたたかさがあるのだ。
地理上、シャン・プシャンがリユフェニアへ侵攻する際にはカルネリア国境近くを通らねばならない。カルネリアではこれを察知しているが、リユフェニアと軍事同盟が締結されているわけではないために、侵攻を阻んだり、通報したりということはない。シャン・プシャンでも同様で、お互いの兵を目視していてもそ知らぬ顔、というのは多い。
シャン・プシャンがリユフェニアを併呑しようという場合、まずグラント城塞を攻略し、アングレン地方を確保し、橋頭保とすることが常識となっていた。アングレンを橋頭保としておいて、カルネリアの物資援助を受けようというのである。ただ、これにはやはり一方をリユフェニアへ、もう一方をカルネリアへ睨みを利かせるための大兵力が必要であり、シャン・プシャンが独立を宣言してリユフェニアが討伐軍を派遣して膠着状態に陥ってからは大々的に両軍がぶつかりあったことはなく、カルネリアはつかず離れずを続けている。
アングレンの街は異文化が混在した街である。街を構成する人間の瞳の色も肌も多種多様である。他国から輸入したものを独自に改良、発展させてもいて、見ていて飽きることがない。
シャン・プシャン独立以降、アングレンの重要性が増し、規模の拡大が図られた結果、人口一〇〇〇人ほどが三〇〇〇人ほどに増えた。異なる文化の混ざったこの街は陽気な活気に満ちているのだが、その陽気さは三人を歓迎しなかったようである。
人通りは多い。商売人たちが自分の野望を披露するかのように商品を並べている。だが、どこかひっそりとしている。闊達な雰囲気は奇妙な緊張感に取って代わられ、三人の鼻先を掠めているようだ。
ダレンもベンも眉をしかめながら馬に揺られている。なかでも最も異様な雰囲気を訝しんでいるのはソフィーリアであろう。翡翠色の瞳は周囲を確認するようにめまぐるしく動き回っている。
「何者だお前たちは」
領主邸はまず立派なものであったが、特に警備態勢が整っているようである。それも無理はない。甲冑姿で現れた三人組を易々と通すわけがない。しかもそのうち一人は女ではないか。
兵士に誰何されてダレンは名乗った。
「私は騎士アレスターだ。領主閣下とは畏れながら幼なじみ、懐かしさから通りがかり、是非目通り願いたい」
兵士はうさんくさそうにまじまじとダレンを見定めるような趣がある。食いっぱぐれた傭兵くずれが仕官を無心に売り込みに来たりということは日常茶飯事なのだ。
だが、ソフィーリアにとってもそうであったように、彼の胸にあるメダルは栄光の証であり、身分を証明するようなものなのだ。兵士は畏まって一礼し、恭しく案内を務めた。相変わらずソフィーリアに対しては怪訝であったが。
馬を預けて、三人は案内役の兵士のあとについていく。
ソフィーリアは懐かしそうな表情を隠さない。中庭はツィードやグラント城塞の将軍に剣技を教わった訓練場であり、そこから見える二階の部屋は学問を教わった教室であった。記憶によれば、領主執務室は三階にあったはずである。
「ツィード様は只今裏門にて来客中でいらっしゃいます」
案内された裏門には馬車が三つあり、人夫が木箱や樽を抱えて行き交っている。
「ツィード」
ダレンは早足で向かいながら、数人の商人と思われる人間と話していた黒髪の男を呼んだ。振り返った顔はダレンの記憶よりもいささか老けていたが、間違いなく悪友のものであった。
「ダレン!?」
と驚こうとして、ツィードは懐かしい親友に制された。親指で指し示されて、黒髪の領主は商人たちから座を外して二人きりになった。
「ダレン、ダレン・ボレルか。懐かしいぞ」
親友は再会を素直に喜んでいる。髪は伸び、口ひげなどを生やして、上等な絹の衣服を纏って理知的な紳士といったような風貌であるのが、ダレンなどには面白くて仕方がない。まだ少年期、几帳面な母親が丁寧に皺伸ばしをしたにもかかわらず毎日泥だらけで遊びまわっていたあのツィードが上品ぶっているのだ。昔の彼を知る人間には笑いと感慨深さが込みあげてくる。
アングレンは小さな領地だ。とはいえ、領主には変わりないのである。あの悪童が領主さま!
元悪童の領主は、もう一人の元悪童の肩に手をやった。
「もう一五年になるか。どういう風の吹き回しなんだ」
「実はちと、頼みがあってな。恥を忍んでやってきたというわけだ」
「なにか恥になるようなことをしたのか?聖戦士として名高いダレン・ボレル、アングレンやグラントの連中に、あれは俺の幼なじみだと鼻が高いぞ」
「聖戦士ね……」
鷹揚なツィードに比べてダレンの表情はいささかほろ苦い。戦功だけを見れば確かに英雄的な働きといえるだろうが、それが虚像に過ぎないことを知っている。
「ジードレンムの戦いは勝利したのか。ずいぶんと早かったのだな」
事実であるが、ツィードはリユフェニア軍の勝利を疑っていない。ダレンの五体満足な格好がそう確信させているのだ。
ダレンは親友にここまでの経緯を話した。最初は驚いていたが、神妙な面持ちでダレンに同情の意を表した。
「なるほどな。確かに聖職者どもには俺も辟易している。ここにも司祭がいるが、政に口出ししてきてかなわん」
最近では徴税のために聖職者を連れて行くこともあるらしい。巡礼という名目で、納税を渋っている領地に対して圧力をかけているのだ。真面目に税を納めている領地にも、彼らを優遇させようとしている。
ただこれは、各領地を治めている貴族諸侯の力をある程度殺ぐという大義名分が存在する。財力を削って、反乱を起こさせないためだ。民を食わせるのと同じくらい、軍を動かすには金が必要で、それらを維持運営するには莫大な費用がかかる。司祭や司教やらが教化という名目で足を運ばれては、信徒として丁重に扱わざるをえない。諸侯にとっての余計な出費は、王国にとって謀叛の芽を摘むことなのだ。
そのこと自体が反乱の火種にならないよう配慮する必要はもちろんあるが、権力の増大に伴って態度の肥大化も甚だしい昨今である。大義名分としては貴族諸侯の力を削ぐことでも、徴税に来た聖職者を抱き込めば、密かに出兵の準備を整えることができる。
高位の聖職者、例えば司教や大司教であればなおさらであり、それどころか彼らが便宜を図ることで、固有の戦力を持つことにもなって、利害が一致する場合がある。
王都では大司教が国政を左右するともっぱらの噂で、実はジードレンム平野の戦いも、大司教の派閥争いの一環だったのである。
リユフェニアには現在「司聖」と呼ばれる宗教的指導者が存在しない。昨年、ポーロス三世は突然の心臓発作によって後位を定めずに崩御し、三人いる大司教のうち、最も有力とされるファリパ大司教が起こしたジードレンム平野の戦いは、表向きは南方にある異教徒たちへの見せしめと、崩御したポーロス三世への慰霊とされている。南方の異教徒たちにはポーロス三世も手を焼いていたからだが、どちらにしろ教会の威光を知らしめ、個人的には他の大司教への牽制のために軍を動かしたわけで、戦略よりは政略の範疇に属する。国政の壟断も甚だしいではないか。
アングレンにおいてのみいえば、教会施設の補修が滞っているだの、信徒の布施が少ないだのといったことはまだ可愛げがあるが、教会が自由に使える戦力をよこせだの、犯罪者に対して教会法を優先させろといったことは干渉も度が過ぎている。相手が聖職者だからと遠回しに拒否しているが、向こうはそれを理解せず、領主の能力不足を指摘し始めたのだ。
こうなってはツィードも黙っているわけにはいかない。
「そういうことなら否やはないのだが……」
「なにか問題か?……そういえば街全体が物々しい空気だったな」
「うむ」
ツィードは人目を憚るように声を低めた。
「実はちと厄介なことになっている」
政治的なことにまで口出しされたツィードは司祭を一喝して引き下がらせた。そのことに逆上した司祭は教会に祈りを捧げに来る信徒たち、つまりアングレンの一般住民に、ツィードの「失政」を吹き込んで不満を煽ったのである。明らかに意趣返しであるが、その効果は無視できるものではない。なにしろ司祭はこの街の宗教的な第一人者であり、神に近い人物なのだ。この国の道徳観念は教会が作り上げたといってもよく、その教会が領主の資質を疑えば、一般の信徒もそれに従ってしまう。
ツィードのもとには教会を蔑ろにしていることへの訴えがいくつも来ている。ツィードは馬鹿馬鹿しさを感じながらも無視するわけにはいかず、教会への寄進を行って不満を和らげるしかなかった。表立って領主と司祭が対立するわけにもいかなかったのである。
そのことに味を占めたのか、司祭はことあるごとに教会の優先権を主張するようになり、先の、教会が自由に使える戦力として騎士一〇〇名余りを要求してきた。名分としては「神の家と信徒を守る守護者が必要で、これを拒否することは教会に背き、教会を瓦解させる意図があるとしか思えぬ」というのである。
ツィードは歯ぎしりせん思いであったが、
「アングレンの土地はフェングレスタ分裂以降、重要な土地である。そのような折、騎士を一〇〇名も取られてはアングレンの、ひいてはリユフェニアそのものの防衛力が低下してしまう」
と反論して、なんとか半分以下の四〇名を「貸し出す」ことで決着させたのは、彼の手腕の見事さであったろう。司祭は不平たらたらであったが、彼らを「聖堂騎士」と称して手勢とした。
そもそも信徒たちにとって重要なのは教義であって教会そのものではないのだから兵を貸し出すこともないのだが、ひとまずのところは泳がせてみたのである。
司祭はこの「聖堂騎士」を手駒にしてほしいままに振る舞っていたのだ。恐喝、暴行、収賄など、いくつかの犯罪行為が報告されている。
アングレンはシャン・プシャンに近い軍事的に重要な場所だ。とはいえ、都から遠く離れていて辺境といわざるをえず、この地に遣わされたということ自体が左遷と同義なのである。王都であれば黙っていても向こうから様々な恩恵が馬車や牛車いっぱいにやってきたのだが、このような土地ではそれも望めない。ならばそう仕向けるしかないのだ。
聖職にある者が率先して賄賂を求めるわけにはいかない。そのための聖堂騎士なのである。
「いくつか、訴えは出ている。だがすぐに取り下げられる。奴らに睨まれれば途端に異端扱いだからな。不信心だと言われている間はまだ可愛げがあるが、度が過ぎれば軍務にまで口を出してきかねん」
より利益を追求するために略奪を提案するということか。すなわち、シャン・プシャン、または南方への進軍を意味する。
ダレンは舌打ちして不快感を示した。どいつもこいつも腐っている。神に仕えるべき人間が、己の欲を満たすために神の名を騙り威を借りて、自分自身を崇拝させているのだ。
神はおっしゃったという。偶像崇拝をやめよ、と。神を象ることと高位の聖職者を神であるかのように崇めることとは、どう違うというのか。
もう懲り懲りだ、とダレンは思った。司祭や司教やらいう連中と関わり合いになりたくなくて討伐軍から抜けてきたというのに、このアングレンの地でも私利私欲のために神を利用する俗物と同じ空気を吸わなければならないと思うと、嘆息というにはあまりに重すぎる息をつきたくなる。
だがそれも少しの間のことだ。ツィードに宿舎を世話してもらって、しばらく休み、新たな土地へ赴くとする。カルネリアから他国へ渡ってもよいのだ。
「まぁ今日のところは再会を祝してささやかな宴を開くとしよう。あまり目立って司祭の耳に入っても面倒だな」
ダレン・ボレルの勇名によって、司祭の野心に火がつくかもしれぬ。略奪のためだけでなく、栄達の道具にされるのは御免こうむりたいところだし、ツィードにしても挙兵の口実にされるのは避けたい。なにしろ、金がかかる。
「ツィード、今の俺はアレスターだ。アレスター……アレスター・ロウとでも名乗っておくか。間違ってもダレンだなどと呼ぶなよ」
名を変える慎重さは理解できるが、ツィードにはダレンの切実そうな表情が少しく可笑しいように思えた。
「理由はそれ、そこにいる。さっきから抱きとめてほしくてうずうずしているぞ」
意地の悪い笑みを浮かべながらダレンが示すと、そこには礼儀正しく会釈するシャープな印象の中年の騎士と、亜麻色の髪に翡翠の瞳を有する美貌の女騎士がいた。中年の騎士はともかく、女騎士のほうにはいささか見覚えがあった。
ツィードが脳裡の肖像画と人名録から適切な場所を検索し終えるのとほぼ同時に、亜麻色の髪の女騎士は小走りにツィードの目前まで近寄った。万感の思いであろう表情だが、ダレンの言うとおりにはツィードの胸に飛び込まなかった。再会は騎士らしく、大人らしく堂々と毅然としているべきだと決めていたのだ。心情としてはダレンの言うとおりであったに違いない。
「ソフィか?なんてことだ、今日はまったくうれしい日だ」
被保護者とは対照的に、保護者のほうは力いっぱい抱きしめたものである。苦しい、とは口で言うものの、力いっぱい抱きしめられれば相応に抱きしめ返すソフィーリアである。保護者が情熱的に再会を喜んでくれるのだから、情熱を返すのが騎士というものであろう。
「つい先日まで年端もいかぬ少女であったはずだが、はて、本当にソフィーリアか。お迎えの女神が降臨なさったのではあるまいか」
「そのおっしゃりよう、変わりませんね」
苦笑しながらソフィーリアは保護者の親馬鹿的な発言をたしなめた。年端もいかぬ少女の時分には「女神」の部分が「天使」だったのである。変わらぬ態度に嬉しく思うが、それは同時に未だ子供扱いしていることでもある。手足は伸び、剣術も弓術も馬術も並みの男よりは使えるようになったと自負している。一人前の戦士として認めてもらうには、やはり大働きをせねばならない。
「それにしてもなにかお困りなのではありませんか。閣下のお役に立ちたいがために馳せ参じたのです」
「こんなに美しく成長するとは、目のやり場に困っている」
これがあの悪たれツィードか、とダレンは顎を撫でながら興味深そうに見ている。人は変われば変わるものだ。
「では、目のやり場は私の両の目にしていただいて、アングレンの街はなにも変わりありませんか?」
「ないぞ」
「……本当に?」
「本当に」
ソフィーリアは知っている。この養父が嘘をつくときは答えがきわめて性急になるのだ。
話してくれないとしたら、それはきわめて深刻な問題か、もしくはソフィーリア自身に関わることであろう。確かに、徴税官の強引な求婚から避けるためにクローメントの村へ身を隠したのに、突然帰ってこられては都合が悪いこともあろう。四年経ったとはいえ、ほとぼりが冷めたとは言い切れない。なにしろソフィーリアは四年前よりもはるかに魅力的に、ともすれば煽情的なまでの美しさを持っているのだ。徴税官でなくとも、彼女をどうにかしたい衝動に駆られるに違いない。
その懸念はツィードにももちろんあるが、基本的な彼の理念として、ソフィーリアにはなるべく危険なことはさせたくないのだ。彼女が実父の遺志を継いで騎士になりたいことは重々承知している。その能力も、四年前の時点ですでに申し分ない。ただ、彼女になにかあれば亡き実父に申し訳が立たぬし、なにより彼自身養父として、ソフィーリアを愛しているのだ。聡明であり、行動力に溢れ、早くからツィードに懐いてくれたソフィーリアが可愛くて仕方がないのである。
だから、本来ならこのような時期に彼女が返ってくることは望ましくないのだが、会いたかったことも事実である。ソフィーリアのことは連れてきてしまった張本人に任せるとしよう。
「よろしいかな」
そう思っていたところに、もう一人の客人である半白の頭髪の中年の騎士が恭しく挨拶した。幼いころからの親友や義理の娘に比べれば、優先順位は低いというべきだった。ただ、この優先順位の低い紳士はどうも、タイミングを見計らっていたようである。
「お初にお目にかかります、閣下。私はベン、このアレスターとは共に戦場を駆けた仲、なにとぞお見知りおきを」
紳士然とした振る舞いに、咳払いをして今までの態度を改め、ツィードは領主としての矜持を取り戻した。タイミングよくソフィーリアからの追及を避けることができて安堵した一方で、この騎士には一筋縄ではいかないような印象も抱いている。
とはいえ、好機であることは確かだ。
「ではソフィーリア、お前に申し付けておこう。我が友人、ダ……アレスター卿とベン卿がしばらく滞在なさる。領主邸の客室にて丁重にもてなすゆえ、滞在中の身の回りの世話を頼む」
なに、と声をあげかけたのはダレンである。彼らの世話係ということはほとんど一日中付き添うということで、逆にいえばソフィーリアをすらダレンとベンで世話をしなければならない。押し付けたはずが、逆に押し付けられてしまったのである。態のいい監視係というわけだ。
なるほど、うまい。にやりと笑いながらベンはソフィーリアの反論を待った。予想を外れず、いきり立って反論しようとするソフィーリアを、ツィードが片手で制した。
「頼むぞソフィーリア。私はまだ公務の途中でな、宴までゆっくりと休んでいただいてくれ」
そう言ってさっさと商人たちの輪のなかに戻ってしまった養父の背中に非難がましい視線を送っておいて、ソフィーリアは二人を案内した。どうぞ、と促す声が刺々しく、二人の騎士は視線を交わして笑った。




