秋の音色
今年の夏、結局大きな出来事など無かった。
特別遠出をすることもなく、行動範囲が極端に広がることもなく、普通の夏休みだった。
当然小さな変化はあった。極端ではないけれど行動範囲が広がったのは事実だし、その距離感は縮まったと思う。
「おはよう」
夏休みも明けた九月、見慣れた教室のドアをくぐり目の合ったクラスメイトと挨拶を交わす。
泉さんや高瀬さんだけでなく、滝川さんも小さく口を動かすのが見えた。二人でいる時はだいぶ話が出来るようになったけど、教室ではやはり無理か。
そんな事を考えながらいつも通りに席に着く。
休み明けの実力テストは終わり通常モードに、とはいかないのが我が校で、そのまま文化祭へと雰囲気は流れていく。
お祭り事は嫌いじゃない。でも先頭に立って騒げる度胸など僕には欠片もない。
当たり障り無く、任された仕事をこなすことになるんだろうな。
その場その場でいるクラスメイトと話しながら準備した去年を思い出しながら、僕は今日の時間割を見直した。
「で、事情を説明して欲しいんだけど?」
放課後になり帰ろうと思った所を高瀬さんに呼び止められ、そのまま二号館へと連行された。
二号館は特別教室が多く、部活の部室も基本的にはこちらにある。
文化祭絡みで、と言われたのだが、うちのクラスは展示発表ということになったので二号館に用事があるとは思えない。
「まぁまぁ。着けば分かるから」
片手をひらひらさせながら高瀬さんは歩いていく。
程なくして、一つの教室の前で足を止めた。プレートには『演劇部』と手書きの文字が躍っていた。
高瀬さんは演劇部どころか特に部活動はしていなかったはずだ。この夏に心変わりをしたとでも言うのだろうか。
「依頼人はこの中よ。さ、行きましょうか」
僕の返事を待たずにドアを開ける。そして遠慮なく中へと声をかけた。
「失礼します。望月いますか?」
高瀬さんが呼んだのは知った顔だった。でも彼の人も演劇部ではなかったと記憶しているのだが。
「千里、ごめんね、手間かけさせて。市岡君もわざわざありがとう」
パタパタと廊下に出つつ小さく頭を下げる望月さん。そういえば望月さんと会うのは久しぶりな気がする。
「いや、僕は全然事情を知らないんだけど?」
僕の言葉に望月さんの視線は高瀬さんへとスライドされる。
「仁美から説明するべきだと思ったのよ。それだけで他意は無いわ」
高瀬さんはしれっと言い放つ。夏休みにも思ったが、慣れてくると結構キツイ言い方もするようだ。
「はぁ。分かった。ごめんね市岡君。頼みたいことがあるんだ。ちょっと待っててくれる?」
言うなり望月さんは部室へと戻っていく。開いた扉から中を窺えば、先輩らしき人とちょっと話をしてすぐに鞄を持って戻ってきた。
「ちょっと場所を変えようか。来てくれて申し訳ないけど、教室に戻りましょう」
なんだそれ。結果無駄足ですか。
僕は溜息を吐きながら高瀬さんを見る。が、当の本人は涼しい顔で望月さんと話を始めていた。
その横顔を見て、面倒な話になりそうな予感が頭をよぎった。
望月さんのクラスには誰もいなかったので、そこで話を聞くことになったのだが、高瀬さん「任せた」と言葉を残して去っていってしまった。
丸投げかよ、と思いつつもとりあえず話を聞くことにする。
「望月さん、演劇部だったっけ?」
「ううん。頼まれてちょっとお手伝いしてるの。自分も参加してる気分にはなれるよ」
顔の広い、そして面倒見の良い望月さんらしい。
「なるほど。それで頼みって? 文化祭絡み?」
「文化祭についてじゃないよ。もうちょっと後についてなんだけどね」
望月さんは鞄から冊子、所謂台本を取り出して説明を始めた。
いわく、現在練習中の演目は、文化祭用の三年生主体の物であること。下級生は秋の市芸術祭での公演に向けて、先輩の舞台の裏方をしながら個々練習をしているらしい。
頼みというのは、その公演に使う選曲についてだった。
文化祭絡みだと言ったのは高瀬さんの勘違いだったか。いや、市の文化祭といえば間違っていないのか。
「演出みてる子、今の副部長で来年部長になると思うんだけど、その子の選曲と皆のイメージ、どうも合わなかったみたいなの」
言いながら台本をめくってみせる。表題には「カラー・チャンネル」とあった。
どうやら色をテーマとした短編集みたいだ。短編ごとに出演者を割り振れば、個人の負担が減るというのが理由らしい。
「それで僕への頼みっていうのは?」
なんとなく予想はついたが、それでも僕は台本を受け取りながら尋ねる。
「そのシーンにあった曲、見つけられないかな。もちろん一曲ってことじゃなくて、いくつかこんな感じのあるよ、と言ってくれるだけでいいんだけど」
やはりか、と予想通りの答えに僕は軽く息を吐く。
僕が雑多な音楽に触れている事は、知る人ぞ知る事実だ。去年の同級生でもありクラス委員でもあった望月さんも当然その事実を知っている。
耳にした曲の量はたしかに多い。でもそれが役に立つかは別な話だ。
「そのシーンにあった曲を、ってことだよね? どこか特定のシーンなんでしょ?」
さすがに何処も彼処も、とは言わないだろう。部員じゃないんだし。
「もちろん。付箋が付いてるところ。『青』の独白のシーンと『橙』の追いかけ始めるシーン」
言われてそのページを開く。台本を目にするのは初めての経験であり、どうも見慣れない。
それでもずらっと並んだセリフを追っていきながら、間に書き込まれた動きや音響の指示を見る。が、どうもイメージが湧かない。
それもそのはずで、これまで演劇というものをじっくり観たことなんて無い。テレビドラマや映画は少しは観るけれど、舞台となると観るほうとしても経験値ゼロだ。
「生憎と演劇を観たことないからさ。どうもピンと来ないよ」
台本から顔を上げてそう告げる。
望月さんの頼みだが、さすがにこれは自信もって受けられるものじゃない。
「うん。そうだよね。それも分かってて無理に頼んでるの」
僕の言葉に応じながら、望月さんは一枚のCDを取り出した。
何のラベルも付いていない、いや、日付だけが書かれているCD―Rだ。
「これにこの前の練習で演じた動画が入ってる。台本だけじゃイメージ出来ないと思うから、これも観てほしい。手伝いだから、参考にって程度で曲を挙げてくれればいいの。お願い出来ないかな?」
申し訳ないという空気を前面に出しつつの低姿勢を目の当たりにして、それでも退くことが出来るほどの度胸を僕は持ち合わせていなかった。
「やれやれ……。あまり期待には添えないと思うけどね。いちおう見繕ってみるよ。期限はあるの?」
「文化祭後には本腰を入れたい、って言ってたから、その辺が区切りかな。文化祭前まで、そうだね……二週間後でいいかな?」
望月さんの言葉に、僕はCD―Rを受け取りつつ頷く。
そしてそのまま教室の出口へ向かったが、ふと思い立って足を止めた。
「そういえば、そこまでして手伝う理由って、何かあるの?」
僕の言葉に望月さんは一瞬戸惑ったような顔をして、それからいつものような微笑みを浮かべた。
「自分がそうありたいから。それが理由よ」
そう言い放たれた言葉は、ある意味で羨ましいものだった。そして同時に軽々しく触れる部分ではないとも感じた。
「そっか。何かあったら連絡するよ。ケータイ変わってないよね?」
「うん。あのままだよ」
返事を聞いて今度こそ僕は教室を出た。
自分の部屋に戻ってパソコンの電源を入れ、起動するまでの時間で着替えを済ませる。
CD―Rスロットを入れると、中の動画は話ごとにきちんと分割されていた。とりあえず頼まれた『青』と『橙』の二本を視聴しようと思ったが、その前にデータを自分のハードディスクに移した。
それからまず『青』を再生する。画面は見慣れた教室で、演じている生徒も普段の制服姿だ。まだ台本を片手にしており、とりあえず合わせてみたという印象を受ける。
音響は手元のプレイヤーからスピーカーに繋いで出したというが、思ったよりはよく聴こえていた。
台本と見比べつつ、ここだというシーンを見つける。
動画には人物は一人、話の主役の独白の場面だ。
ゆっくりと、かみ締めるようなセリフ。まだ掴みきれていないせいか幾分硬く聴こえるが、表現としては伝わってくる。
BGMにも耳を傾け、目を閉じる。
特に変だとは思わない。つまるところ、センスの問題なのだろう。
果たして僕にそんなセンスがあるのだろうか。僕なんかが言っていいものなのだろうか。
そう思っているうちに場面は過ぎ、『青』も終盤になっていた。
一通り観て僕はゆっくり溜息を吐き出す。同時に預けた背中に椅子がギシリと音を立てた。
受けるんじゃなかったかな。
まぁいい。もう一つ観てみよう。
そう思って視線を戻したとき、ケータイの着信音が響いた。
メールの音、手にしてみれば差出人は滝川さんだ。
彼女はどう思うだろう。
気付けは、指先が自然と動いていた。