A trick?
「お疲れ様」
「……ありがとうございます」
事務室に戻った私の前に缶コーヒーが置かれた。
どうやら今日、寺田さんはホットを飲む気分じゃないみたいだ。
「そういえば、今日、沙耶ちゃん来てたわよ」
「……え?」
予想外の言葉に、缶コーヒーに伸ばした手を止めた。
沙耶が? 私に何も言わずに?
「男の子と一緒だったわよ。市岡君、ていったかしら」
「イチ君も?」
私は思わず立ち上がっていた。
何でイチ君まで。
沙耶、いったいどういうつもり?
「ありがとうございます。今日はこれで失礼します」
「え? 美優ちゃん?」
私は缶コーヒーを片手に寺田さんに声をかけ、事務室を飛び出した。
図書館から出ると、むわっとした熱気が体を包む。それに一瞬くらりとめまいがしたが、構わず自転車を出す。
イチ君。彼は電車だ。駅からここまではバスか、それとも沙耶の自転車か。
沙耶の事、おそらく自転車だろう。
ならばルートは、メインの並木通りか、裏の河川敷方面か。
分かりにくいルート取りはしないだろうな。
宗判断しカゴに缶コーヒーを放り込むと、駅に向かい自転車を走らせる。
注意深く、周りを窺いながら。
私は何を焦っているんだろう。
たしかに、皆に知られたくない事ではあった。でも、隠し通すほど重要な秘密というわけでもない。
さらに、彼がそれを言いふらすような人とは思えない。
彼に、知られたくなかった?
たしかに、千里もこの事は知らない。今の学校で知っているのは沙耶だけのはずだ。
沙耶……。
沙耶は何で。
交差点を二回曲がる。これで駅までの直線道路、並木通りに出る。
さすがに人の数も増える。その間を縫うように進みながら、見慣れているはずの顔を捜す。
カゴの中で缶コーヒーが揺れ、時々段差で飛び出しそうになっていた。
沙耶は何を企んでいるのか。
人の裏をかいて、指して笑うタイプじゃない。何かしらの考えがあっての事だろう。
相手がイチ君であったこと。
まさか、外堀から埋めるつもり?
私が望んでいない事を押し付けるような真似はしないと思っているけれど。
沙耶……。
そうこうしているうちに、駅が見えてくる。
とりあえず私は駐輪場に向けてハンドルを切った。
駐輪場の前まで来たが、さすがにこの中から沙耶の自転車を探す気にはなれない。
それに沙耶なら、改札での送り程度ならばその辺に止めると思う。
だが、沙耶の物と思われる自転車は見当たらない。
彼女の自転車にはハンドルの付け根に某マスコットが引っかかってるから、見ればすぐに分かる。
私は仕方なくその辺に自転車を置き、改札前へと向かった。
電車まで時間があるなら、改札前にいるかもしれない。
微かな可能性だったが、やはりそこに二人の姿は無い。
何やってるんだろ。私……。
再び自転車の所に戻りながら、思わず溜息を吐く。
何、必死になって追いかけてるんだろ……。
そんな自分にイライラして、自転車のスタンドを蹴り上げた。
そしてこぎ出そうとした瞬間、ポケットでケータイが振動している事に気がついた。
同時に何故ケータイを使わなかったのかという単純な疑問も頭に浮かぶ。
ほんと、どうかしてるわ。
呆れながらケータイを取り出すと、沙耶からのメールだった。
内容は一言、「藤棚」とだけ記されていた。
その一言で場所が分かった。私はペダルをこぐ足に力を入れる。
言い訳でもなんでも聞いてあげようじゃない!
イライラの矛先を沙耶に転換した私は、流れる汗も拭わずにペダルをこいだ。
藤棚。その言葉が指し示す場所は、並木通りから裏手に、河川敷側に入ったところにある公園だ。通称、西公園。
さほど大きくもなく、芝生こそあるもののボールの使用は禁止されており、子供が集まる事も少ない。
遊具はそこそこ、砂場もある。
未就学児を連れた親御さんや、犬の散歩コースに使ってる人が多い印象だ。
藤棚の下にはベンチがあり、この暑さを避けるにはもってこいだろう。
公園の駐輪場には見慣れた自転車があった。私もその隣に自転車を止めて鍵をかける。
他に自転車は無く、なんとも寂しげだ。まぁこの猛暑の中、公園で駆け回るタフな子供も今は多くないと思うけれど。
駐輪場から藤棚まではさして距離は無い。ぬるくなった缶コーヒーを片手に一度大きく息を吐く。
果たして沙耶は一人なのか。それとも二人でいるのか。
まぁ、今の私にはどっちでもいいけれど。
文句を言いたい相手は、確実にいるのだから。
進んでいくと、藤棚の下のベンチに見慣れた顔が見えた。
「沙耶!」
幾分か怒気を含んだ私の声に、沙耶は相変わらずの様子で片手を軽く挙げて応えてくれる。
ベンチに座る彼女の前まで行き足を止める。
藤棚を支える柱に背中を預けていたイチ君が、申し訳無さそうに微笑みながらやはり片手を挙げて挨拶をくれた。
「美優。ごめ……」
「どういうつもり?」
沙耶の謝罪の言葉を遮るように言葉を重ねる。
私の、らしくない強い言葉に沙耶の表情が歪むのが分かった。
「誰にも言わないで、って言ったよね。千里にも言ってない事がその証拠だと思ってた。でも、何で、何でイチ君に? 彼は何も……関係無いじゃない」
勢いで吐き出した言葉だが、最後の方はいつもの調子に戻っていた。
「美優……」
私は缶コーヒーを握り締めていた。
「もう一度聞くね。どういうつもり?」
らしくない。ほんと私らしくない言葉に、沙耶は大きく息を吐き出した。
「そんなに感情的になるなんて、思わなかったわ。どうするつもり、ね……。あたしでは、これ以上美優を手伝えないと思ったからよ」
「え?」
予想外の言葉だった。もし、ただ単純に「美優のためを思って」とか言われたならば、缶コーヒーをぶん投げて帰っただろう。
「別に、美優のそばにいるのが嫌なわけじゃないし、嫌いとかそんなんじゃない。あたしでは、美優の力になれない。そんな自分が許せないのよ」
「沙耶……」
あまり聞いたことがない、自信の無さそうな沙耶の言葉だ。
たしかに沙耶はずっと傍にいてくれた。なにくれと気にかけてくれて、支えてくれたことは事実だし、感謝している。
「それで、何でイチ君まで?」
ちらりと視線を向けると、彼は特に変わった様子もなくいつもの表情だ。
それにちょっと違和感を覚えた。
私も普段取らない態度を取っているし、沙耶もらしくない言葉を発している。
それに驚いた風もなく、ただ私達のやり取りを眺めている。
「あたしじゃ美優の殻を破る手伝いは出来ない。けど、彼ならばそれが出来るんじゃないか。そう思ったのよ」
そこまで聞いて、私は確信した。
沙耶は私がここに来て、疑問を呈すことを分かっていた。
そして、イチ君の前で提案をぶち上げる。その為に彼を呼んだ。
おそらく、彼は図書館に行くなんて話は聞いてなかったんだろう。
それも含めて、沙耶の掌の上、か。
私は溜息を吐いてベンチに座り、缶コーヒーを開け口に含む。
ぬるいほろ苦い味が喉を通り過ぎる。
なんとも落ち着かない味だ。