あの日のストリートミュージシャン
「ねぇ、そこのキミ!少しの間でいいんだけど話聞いてもらえるかな?」
努めて明るい声で今日も今日とて好みの色っぽい女性に声をかける。初めに言っておくがこれはナンパではない、立派なビジネスだ。統括するとナンパのようなビジネスというわけで、わざわざ自分好みの女性に声をかけるのは私情が入ってるからじゃなく、俺がただ色っぽい女性大好き男ではないとここに断言しておこう。いや、本当だから信じて。
俺が目を付け声をかけた女性(類稀なるナイスバディだ)は俺の存在丸ごとなきものとして扱うように、サラッと携帯片手に通り過ぎて行く。
見た者を虜にすると言われる俺の笑顔だが、こんな風にスルーされてはその威力を発揮することもできないまま静かな眠りについてしまう。かわいそうに。
西千住のロータリー。数年前、大型ショッピングビル、マユイが出来たお陰で作られたこの場所に俺は根を張っている。
ロータリーが出来る前は西千住唯一のショッピングビル、ムミネの前だった。
ヘタクソなストリートミュージシャンの歌を聞きながらナンパなビジネスをしていたものだ。まさかこのミュージシャンが晴れてメジャーデビューを果すなんて思ってなかった俺は、生憎サインを貰い損ねた。貰ってれば今頃高値でオークションに流れていただろう、実に惜しいことをした。
聞こえなくなれば聞こえなくなったで、あのヘタクソな歌が恋しくなる。『愛してると言ってくれ』、彼の十八番は今も俺の心の中に時たま流れる歌だ。
オリジナルだと言っていたこの歌は、歌詞の大半が「愛してると言ってくれ」だけで構成されていて、良くいえば心に直接響くシンプルな歌、悪く言えばひねりのない安っぽい歌だった。
「愛してると言ってくれ、何度でも、愛してると言ってくれ、この俺に、愛してると言ってくれ、不器用でもいい、愛してると言ってくれ、愛してると言ってくれ」
一人青春バンドの彼が毎日のように歌っていたせいで(単純な歌詞というのもあるが)、俺は不幸なことにこの歌を丸暗記してしまった。
愛してると言ってくれ、最後に、愛してると言ってくれ、微笑んで…。
これから先、この歌が俺の役に立つ日は来ないだろう。
過去に一回だけ、この歌で俺は失態を犯したことがある。忘れもしない、あれは木々も葉を散らし始めた11月。ビジネスをしていた俺の耳を聾す、愛してると言ってくれ。あまりにも聴き慣れた彼の歌声を気にするでもなく、俺は自分の仕事に取り掛かっていた。この日も好みの女性が俺の目に飛び込んできて、早速いつものように声をかけようと口元に笑みを浮かべた時だった。愛してると言ってくれ、ヤツの歌声が聞こえてくる。
「ねぇ、そこのキミ!」
「いつまででも待つから、愛してると言ってくれ」
「愛してると言ってくれ!」
あの時の女性の顔はいまでも鮮明に思い出せる。侮蔑の眼差し、この瞬間きっと俺は世界中の誰よりも気持ち悪い男になれたに違いない。実際、言った本人である俺も随分気持ち悪かった。
聴き慣れた言葉というのは実に恐ろしい。本人の意思とは関係なく口から出てくるから厄介極まりないものだ。
愛してると言ってくれ、あの時俺はどれだけ愛に飢えた男に見えたことだろう。無造作に生えている髭が余計に愛を乞うているように見えたかもしれない。それでも顎の髭は俺のポリシーだから剃ることはしなかった。だから開き直ってみた、ああ、俺は愛が欲しいさ、愛してると言ってくれ!叫んだ俺は会社から呼び出しを食らった。
でも構わない、ヘタクソなミュージシャンはそんな俺の方を見て微かに笑っていたのだから。
ロータリーが出来てからこのミュージシャンとは別れを告げた。
現在ムミネの前には他のミュージシャンがギターをジャカジャカ鳴らし気持ち良さそうに歌っている。かなりのヘタクソだ、ムミネの前にはヘタクソしか集まらないのか。
だがサインは貰っておいた方がいいかもしれない。今年のレコード大賞は、ミリオンセラーを叩き出した『愛してると言ってくれ』という、俺にも口ずさめる歌だった。




