第8話:元婚約者の来襲「戻ってこい、命令だ」
スリープ・ヘイブンの白い砂浜に、一隻のボロボロなボートが打ち上げられた。
乗っているのは、海水で濡れ鼠になった数名の男たち。
その中心で、海藻を頭に乗せた金髪の青年――ジェラルドが、ぜぇぜぇと息を吐きながら立ち上がった。
「はぁ、はぁ……! 見たか! 王家に伝わる『絶対生還の魔導ボート』の威力を!」
艦隊が謎の海域で全滅(撤退)した後、ジェラルドはごく少数の側近と共に、王家の宝物庫から持ち出した緊急脱出艇で特攻をかけたのだ。
古代の遺物であるこのボートだけが、リリスの認識阻害結界を――偶然にも――すり抜けたのである。
「殿下、ご無事で……?」
「ああ。……見ろ、あれを!」
ジェラルドが指差した先には、楽園が広がっていた。
整備された遊歩道、美しい白亜の建物、そして楽しげに行き交う裕福な観光客たち。
王国のスラム化しつつある現状とは雲泥の差だ。
「な、なんて美しい……! ここがハデス島か!?」
「リリスの奴、こんな場所を隠していたとは!」
ジェラルドの顔に、下卑た笑みが浮かぶ。
彼の脳内で、都合の良い変換回路が作動した。
「分かったぞ。……リリスは、俺を驚かせようとしたんだな」
「は?」
側近が首を傾げる。
「そうに違いない! あいつは俺を試したんだ。『私を追い出すなんて酷い』と拗ねて見せて、裏でこっそり俺のために『新しい王都』を作っていたんだ! なんて健気で、少しひねくれた愛なんだ!」
もはやホラーの領域である。
だが、追い詰められたジェラルドの精神は、この「甘い妄想」に縋り付いた。
「よし、行くぞ! リリスを迎えに行き、感動の再会を果たしてやる! そうすればこの島も、莫大な資産も、すべて俺たちのものだ!」
***
その頃、私は領主館の庭で、究極の二度寝に挑戦していた。
ポカポカ陽気。波の音。
隣の芝生では、オリオンが大人しく(といっても、手刀で薪割りをしながら)待機している。
「……平和ね」
うとうとし始めた、その時だった。
「――リリス! どこだリリス!!」
耳障りな大声が、静寂を引き裂いた。
私はビクリと肩を震わせ、不機嫌に片目を開ける。
庭の入り口で、警備のゴーレムをすり抜けてきた(というより、ボロボロすぎて敵と認識されなかった)薄汚い男たちが叫んでいた。
「……誰? 浮浪者の炊き出しなら港でやってるわよ」
「俺だ! ジェラルドだ!」
男が前髪をかき上げ、キメ顔を作った。
よく見れば、確かに元婚約者だ。海藻臭いけれど。
「……ジェラルド殿下? どうしてここに? というか、不法入国ですよ」
「細かいことはいい! 迎えに来てやったぞ!」
ジェラルドは両手を広げ、私のハンモックへと歩み寄ってきた。
「見たぞ、この島を! よくぞここまで発展させたな。俺への愛があればこそだな!」
「……はい?」
思考が追いつかない。何を言っているんだ、この人は。
「もう許してやる! あの時の婚約破棄は、お前の愛を試すためのちょっとした余興だったんだ! お前は見事に合格した! さあ、俺の手を取れ。今日からここを『新・グランディオス王国』とし、俺が王になる!」
ジェラルドは自信満々に手を差し出した。
その目は本気だった。本気で、「リリスは自分を愛している」と信じ込んでいる目だ。
私は、心の底からゾッとした。
怒りではない。純粋な恐怖だ。
ここまで話が通じない人間が存在するなんて。
「……お断りします。お帰りください」
「照れるな! 素直になれよ、俺の可愛いアヒルちゃん!」
ジェラルドが強引に私の腕を掴もうとした。
泥だらけの手が、私の新品のシルクのパジャマに触れようとする。
「きゃっ……!」
「俺のものになれ! 命令だ!」
その瞬間。
世界から「音」が消えた。
――バチィィィンッ!!
雷鳴のような音が響き、ジェラルドの身体がボールのように弾き飛ばされた。
彼は数十メートル先の植え込みまで転がり、白目を剥いて痙攣している。
「……汚い手で、僕の『安眠装置』に触るな」
私の前に立っていたのは、オリオンだった。
いつもの眠たげな表情はない。
黄金の瞳が、凍りつくような殺気で輝いている。その全身から溢れ出す魔力は、大気を震わせ、側近たちをその場に縫い止めていた。
「ひっ、ひぃぃ……!?」
「な、なんだあの化け物は……!」
オリオンは無造作に歩み寄る。
「君たちはうるさい。せっかく彼女が寝入りそうだったのに」
彼はジェラルドの側近たちを見下ろし、指を鳴らした。
「――『強制睡眠』」
パチン。
乾いた音が響くと同時に、側近たちは糸が切れたように崩れ落ちた。死んではいない。だが、深い深い昏睡状態に陥り、ピクリとも動かなくなった。
最後に、よろよろと起き上がろうとしたジェラルドが、オリオンを見上げて絶叫した。
「き、貴様は何だ! 俺は王太子だぞ! リリスは俺の女だ!」
「違うな」
オリオンは冷徹に言い放った。
「彼女は誰のものでもない。……強いて言えば、彼女の寝顔を見る権利を持つのは、枕になれる僕だけだ」
ドガッ!
オリオンの拳骨(物理)がジェラルドの脳天に落ちた。
ジェラルドは「あべしっ」と情けない声を上げ、今度こそ完全に沈黙した。
***
庭に再び静寂が戻った。
転がっている男たちを除けば、いつもの平和な午後だ。
「……オリオン」
「ん?」
殺気を消し、いつもの大型犬モードに戻った彼に、私は声をかけた。
「ありがとう。助かったわ」
「礼には及ばない。……君が起きていると、僕も眠れないからな」
オリオンは少し照れくさそうに顔を背け、それから私のハンモックの横に座り込んだ。
「処理(ゴミ捨て)はセバスチャンに任せよう。……だから、続きを」
彼は自分の肩をポンと叩いた。
……枕になれ、という意味らしい。
私は苦笑し、再びアイマスクをつけた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
私は遠慮なく、最強の皇子の肩に頭を預けた。
驚くほど安定していて、温かい。
遠くでセバスチャンが「やれやれ、海に流しますか」と呟いているのが聞こえたが、私はそれを子守唄代わりに、深い眠りへと落ちていった。




