第7話:王国の崩壊と、リリスの知らぬ間の経済勝利
一方その頃、グランディオス王国は、文字通り「火の車」だった。
……比喩ではない。実際に、王都のあちこちでボヤ騒ぎが起きていたのだ。
「で、殿下! また下町で火災です! 消防団の魔導ポンプが作動しません!」
「うるさい! 水くらいバケツで運べ!」
王城の玉座の間(掃除係がいないので埃っぽい)で、ジェラルドはヒステリックに叫んだ。
彼の顔色は悪い。目の下にはクマができ、かつての輝くような美貌は見る影もない。
隣に侍るミナも同様だ。
「ねえジェラルド様ぁ、新しいドレスはまだ? もう三日も同じ服を着ているのよ? 宝石も買ってくれないし、つまんなぁい」
「待ってくれミナ。今、税金を徴収しているところだ……」
ジェラルドは爪を噛んだ。
金がない。
リリスに支払った国家予算三年分の慰謝料で国庫が空になっただけではない。
リリスがいなくなったことで、国の経済システムそのものが停止してしまったのだ。
貿易書類の不備で関税収入はゼロ。
魔導インフラの停止で工場の稼働率は低下。
そして何より、金を持っている貴族や商人が、こぞって「南の楽園」へ資産を移してしまった。
「……リリス。リリス、リリス、リリス……ッ!」
ジェラルドは元婚約者の名を呪いのように呟いた。
全てあいつのせいだ。
あいつが俺を見捨てて逃げたから。あいつが有能な部下を洗脳して連れ去ったから。
「そうだ……。あいつの今の成功は、俺が払ってやった慰謝料のおかげじゃないか」
ジェラルドの瞳に、狂気じみた光が宿る。
「つまり、あの島の土地も、建物も、今の莫大な収益も、元手は『俺の金』だ。ということは、あの島の資産はすべて、正当な権利者である俺のものだ!」
凄まじい論理の飛躍だが、今の王城にはそれを諫める者はいなかった。
宰相は過労と心労で倒れて入院中(しかもリリスの島へ転院希望を出している最中だ)。
残っているのは、ジェラルドの顔色を伺うだけの無能なイエスマンばかり。
「将軍! 海軍を動かせ! ハデス島へ侵攻し、反逆者リリスを捕縛せよ! 島の資産をすべて接収するのだ!」
「は、はい! しかし殿下、最新鋭の魔導戦艦はエンジニア不足で動きません。動かせるのは、旧式の帆船と徴収した漁船のみでして……」
「知るか! 数で押し潰せばいいんだ! 行けぇぇッ!」
こうして、グランディオス王国海軍の「無敵艦隊(と名乗るボロ船の集団)」五十隻が、南の海へと出撃したのである。
***
同時刻。スリープ・ヘイブン。
「……最近、視線を感じるのよね」
私は領主館のテラスで、不満げに呟いた。
手にしているのは、元宮廷料理長が考案した新作カクテル『常夏のまどろみ』だ。味は最高なのだが、気分が晴れない。
「視線、ですか?」
足元の芝生で腹筋運動をしていたオリオンが、汗を拭いながら顔を上げる。
「ええ。観光客が増えすぎたわ。ビーチで寝ていても、遠くから双眼鏡で見られている気がするの。『あれが噂のリリス様だ』とか『拝めば商売繁盛のご利益がある』とか……」
「なるほど。有名税というやつだな」
「私は『無名税』を払ってでも静かに暮らしたいのよ」
私はため息をついた。
リゾート経営が成功しすぎた弊害だ。島の外周部にはホテルや商店が立ち並び、賑やかになりすぎている。
私のプライベート空間である領主館周辺は立ち入り禁止区域にしているが、それでも遠くからの視線や、船の往来の音が気になって仕方がない。
「プライバシー設定を見直す必要があるわね」
私は空になったグラスを置き、指をパチンと鳴らした。
「システム起動。管理者権限行使――『領域指定:島周辺海域』」
足元の地面から、ブゥンと低い駆動音が響く。ダンジョンのコアが私の意思に応答する音だ。
「セキュリティレベルを引き上げます。……オプション追加『認識阻害』および『座標攪乱』。――実行」
瞬間、島全体を薄い霧のような結界が包み込んだ。
見た目には何も変わらない。空は青く、海は輝いている。
だが、魔導的な意味での「座標」が書き換えられたのだ。
「……おい、リリス」
オリオンが目を見開いて立ち上がった。
「今、何をした? 僕の『魔眼』でも、島の輪郭がブレて見えるぞ。……これは戦略級の『広域隠蔽魔術』じゃないか?」
「ただの『住所非公開設定』よ。許可された船(定期便)以外は、この島を認識できなくなるわ」
私は事もなげに説明する。
「近くまで来ても『ただの何もない海』に見えて、無意識に通り過ぎてしまうはずよ。セールスお断りのステッカーみたいなものね」
「……ステッカーで国一つを地図から消す奴がいるか」
オリオンは呆れたように笑った。
「敵国が攻めてきても、島の入り口すら見つけられずに帰るだろうな。……恐ろしい女だ」
「最高の褒め言葉ね。静かなのが一番でしょう?」
私は再びハンモックに身を沈めた。
これで、覗き見趣味の観光客も、面倒な元婚約者も、私の家のチャイムを鳴らすことはできなくなったわけだ。
***
数時間後。
王国の「無敵艦隊」は、ハデス島があるはずの海域に到着していた。
「お、おかしいな……。地図によれば、このあたりなのだが」
艦隊の提督(元はただの補給係だが、人材不足で昇格した)は、甲板で海図と睨めっこをしていた。
天気は晴朗。視界良好。
しかし、どこを見渡しても、360度水平線しか見えない。
「おい、見張り! 島は見えないか!?」
「見えません! カモメ一羽飛んでいません!」
「馬鹿な……。ハデス島は巨大な島だぞ? 見落とすはずが……」
彼らは知らなかった。
既に彼らは、リリスの張った『認識阻害結界』の影響下にあることを。
彼らの目の前には確かに島があるのだが、脳がそれを「背景(ただの海)」として処理してしまっているのだ。
「提督! 羅針盤がグルグル回っています!」
「魔導コンパスも反応しません! ここは磁場が狂っているようです!」
艦隊は混乱に陥った。
進めど進めど、島は見つからない。むしろ、見えない海流に流され、同じ場所を何度も旋回させられているような感覚。
「こ、これは伝説の『魔の海域』だ……! リリスの呪いだぁぁ!」
恐怖に駆られた兵士たちがパニックを起こし始めた。
食料も水も残り少ない。おまけに、リリスの島へ向かうはずだった豪華客船(正規ルートの定期便)が、彼らのすぐ横を悠々と通り過ぎていくのだが、結界に拒絶された彼らにはそれすら見えていなかった。
「て、撤退だ! これ以上進めば、我々も消滅するぞ!」
提督の悲鳴のような号令と共に、王国艦隊は一発の砲弾も撃つことなく、ほうほうの体で逃げ帰っていった。
***
その頃。
リリスは優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。
「……ん? なんか今、遠くで『引き返せー』みたいな声がしなかった?」
マカロンを摘みながら、私は首を傾げた。
「海鳥の鳴き声でしょう」
セバスチャンが澄ました顔で紅茶を注ぐ。
彼の眼鏡の奥の目は、愚かな艦隊が水平線の彼方へ消えていくのをしっかりと捉えていたが、あえて言及はしなかった。
「それよりお嬢様。本日のデザートは、カイル団長が釣ってきた深海魚のポワレでございます」
「あら、美味しそう。……ま、いっか」
私は興味を失い、ふかふかのクッションに背を預けた。
戦争が回避されたことも、自国が完全敗北したことも知らず、私は今日も平和に二度寝の準備を始めるのだった。




