第2話:国庫を揺るがす慰謝料と、静かなるエクソダス
王宮の正門前には、異様な光景が広がっていた。
夜会が開かれていた煌びやかな王城とは対照的に、外は静まり返った闇夜だ。しかし、その闇の中に数え切れないほどの魔導ランプの光が列をなしている。
ずらりと並んだ馬車、荷車、そして整然と整列した人々。
その数、およそ三百。
彼らは皆、王宮の制服を脱ぎ捨て、旅装束に身を包んでいる。
けれどその表情に、職を失った悲壮感はない。むしろ、長年の囚人生活から解放されたような、奇妙な高揚感と殺気にも似た決意が漂っていた。
「な、なんだこれは……! 貴様ら、本気で出て行くつもりか!?」
バルコニーから見下ろすジェラルド殿下が、裏返った声で叫んだ。
その隣で、私は最後の荷物を積み込んだ最高級馬車の前で立ち止まり、優雅に見上げる。
「ええ、もちろんですわ。契約は成立しましたもの」
私は懐中時計(これも私物だ)を確認した。
「現在、深夜23時。彼らは本来ならまだ『残業中』の時間ですが、私の領民となった今、これ以上の労働は我が家の家訓『よく働き、よく眠れ』に反します。よって、直ちに移動を開始します」
「ま、待て! 近衛騎士団長! お前まで行くのか! 俺の護衛はどうなる!」
殿下が指差した先には、歴戦の猛者である騎士団長がいた。彼は無言で殿下に一礼すると、その腰の剣を外し、地面に置いた。
「殿下。我々は『王家の盾』であると同時に、誇りある騎士です。……給与未払い三ヶ月、装備の修繕費も自腹。その上、訓練時間を削ってミナ様の買い物の荷物持ちをさせられる日々には、もう耐えられませぬ」
「きゅ、給与だと? そんなものは財務官に言え!」
「その財務官も、あちらの馬車におりますが」
私が指差すと、眼鏡をかけた神経質そうな男性が、殿下に向かって分厚い「未精算経費の束」を掲げて一礼した。
もはや言葉を交わすのも無駄だと言わんばかりの、完璧な「無言の行」である。
「さあ、皆様。出発しましょう。目指すは南の楽園、ハデス島です」
私が手を振ると、三百人の元・王宮職員が一斉に動き出した。
怒号も混乱もない。あまりに統率された、静かなる大脱走。
それは彼らが、いかに優秀で、いかにこの王宮の屋台骨を支えていたかという証明でもあった。
私は迎え入れてくれた老紳士の手を借りて、馬車に乗り込んだ。
「お嬢様、足元にお気をつけくださいませ」
「ありがとう、セバスチャン。……ああ、やっとヒールが脱げるわ」
馬車の扉が閉まると同時に、外部の音は遮断された。
向かいの席に座ったのは、私の生家であるハイゼン公爵家からついてきた、万能執事のセバスチャンだ。
白髪をオールバックにし、片眼鏡をかけた彼は、揺れる車内でも一滴もこぼさずに紅茶を淹れている。
「見事な手際でしたな、お嬢様。あの愚かな王太子の顔、肖像画にして飾りたいほどでございました」
「趣味が悪いわよ。……それより、手配は?」
「万全でございます。王宮に残してきた書類関係は、すべて『適切な処理』を施しておきました」
セバスチャンが不敵に微笑む。
「業務引き継ぎマニュアルは作成しましたが、分かりやすい場所に置くのも癪ですので。『廃棄予定:過去の失敗例』というラベルを貼った木箱の底に混ぜておきました」
「ふふ、性格が悪いわね」
「お褒めに預かり光栄です。彼らが『ゴミ箱の中身まで確認する殊勝な心掛け』を持っていれば、あるいは見つかるかもしれませんが」
無理ね、と私たちは笑い合い、私はふかふかのシートに背中を預けた。
王都を離れる寂しさ?
あるわけがない。この馬車の一揺れごとに、あのブラックな職場から遠ざかっていると思うと、興奮で逆に目が冴えてしまいそうだ。
(……いいえ、だめよリリス。興奮しては安眠できない)
私は深呼吸をし、愛用のアイマスクを取り出した。
「着くまで寝るわ。何かあったら起こして」
「畏まりました。夢魔が出ようとドラゴンが出ようと、わたくしが音もなく処理いたしますので、どうぞ安らかに」
頼もしすぎる執事の言葉を子守唄に、私は意識を手放した。
***
翌朝。
グランディオス王国の王城は、蜂の巣をつついたような――いや、巣そのものが消滅したような不気味な静けさに包まれていた。
「……おい、誰かいないのか! 朝だぞ!」
ジェラルドは寝室で怒鳴った。
いつもなら、この時間にはカーテンが開けられ、洗顔の水が用意され、完璧な温度のモーニングコーヒーが出てくるはずだった。
だが、誰も来ない。
痺れを切らして廊下に出るが、そこには埃が舞っているだけだ。
「メイド長! 侍従長! ……くそっ、あいつら本当に全員行きやがったのか!?」
昨夜の出来事は悪夢ではなかった。
ジェラルドは舌打ちをしつつ、食堂へ向かう。
「まあいい。俺にはミナがいる。あいつらのような陰気な古株がいなくなって、城の空気も綺麗になったというものだ」
食堂には、新しく婚約者となったミナと、ジェラルドの側近候補である若手貴族たちが集まっていた。
だが、彼らの顔色は悪い。
「で、殿下……。あ、あの……」
「なんだ、朝食はまだか? 料理長がいなくても、下っ端がいるだろう」
「そ、それが……」
若手貴族の一人が、青ざめた顔で厨房の方を指差した。
「魔導コンロの使い方が、誰も分からないのです」
「は?」
「あのコンロは旧式で、点火には複雑な魔力制御コードの入力が必要だったらしく……これまでは料理長が感覚で調整していたそうで……。俺たちが触ったら、爆発しそうになりまして……」
「馬鹿者! ただの道具だろうが!」
ジェラルドはイライラと席に着く。
「いい、パンと水だけで構わん。それより宰相、今日の公務の予定は?」
宰相の席は空席だった。
昨夜のショックで倒れ、王宮医務室に運ばれたらしい。もっとも、優秀な王宮医師団も昨夜の集団退職に含まれていたため、今は街から慌てて呼び寄せたヤブ医者が診ているとか。
「……チッ。軟弱な老人め。なら、お前たちが報告しろ」
ジェラルドは側近たちを睨む。
「隣国との通商条約の更新期限が今日だったはずだ。書類は?」
「は、はい! こちらに!」
自信満々に差し出された書類を見て、ジェラルドは固まった。
そこには、何も書かれていなかった。
いや、正確には「白紙」だった。
「……なんだこれは」
「えっ? い、いえ、棚にあったファイルをそのまま……」
側近が慌てて中身を確認し、悲鳴を上げる。
「な、なんですかこれは!? 『参照:別紙資料A(リリス記憶領域)』『詳細は前任者の頭の中』……!? 肝心の数字がどこにも書いてありません!」
そう。
リリスは確かに仕事熱心だったが、同時に「自分にしか分からない効率化」を極限まで推し進めていた。
重要機密や複雑な計算式は、すべて彼女の頭の中か、彼女独自の速記魔法(暗号)で書かれたメモにしか存在しない。
完成品だけを見て「自分たちでもできる」と勘違いしていた彼らには、その過程がブラックボックス化していたことなど、知る由もなかったのだ。
「い、インクの補充場所も分かりません!」
「倉庫の鍵が見当たりません! スペアキーの場所は執務官しか知りません!」
「で、殿下! 大変です! トイレの水が流れません! 浄化槽の魔石交換担当者も辞めたそうです!」
次々と上がる悲鳴。
華麗なる王城の機能不全は、まだ始まったばかりだった。




