第1話:断罪劇は「精霊誓約書」とともに
「リリス・フォン・ハイゼン! 貴様のような可愛げのない女との婚約は、今この時をもって破棄する!」
シャンデリアの輝きが目に痛い王宮の大広間。
王太子ジェラルド・グラン・グランツの高らかな宣言が、優雅なオーケストラの演奏を断ち切った。
集まっていた貴族たちのざわめきが一瞬で凍りつき、数百の視線がホール中央の私――リリスに向けられる。
隣に立つジェラルド殿下は、震える男爵令嬢の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように私を見下ろしていた。
金髪碧眼の美しい王子様。かつては国の太陽と謳われたお方。
そんな彼の姿を見て、私は心の中で深く、深く安堵のため息をついた。
(……やっと、終わった)
悲しみ? 絶望?
まさか。
私の胸を満たしているのは、金曜日の定時退社直前に上司から呼び出され、身構えていたら「来週の月曜でいいよ」と言われた時のような、圧倒的な解放感だけだ。
私はゆっくりと扇を閉じ、完璧な角度のカーテシーとともに口を開いた。
「――畏まりました。謹んでお受けいたします」
私の反応が予想外だったのか、ジェラルド殿下は片眉を跳ね上げた。
「……なんだその態度は。泣いて縋りつくこともしないのか? これだから貴様は『氷の令嬢』だの『鉄仮面』だのと陰口を叩かれるのだ!」
殿下は、腕の中の男爵令嬢――確かミナと言ったか――を庇うように一歩前へ出る。
「ミナへの陰湿な嫌がらせも知っているぞ! 彼女が作成した書類を突き返し、夜会へのドレスに文句をつけ、精神的に追い詰めたそうだな!」
「あら。事実誤認がございますわ、殿下」
私は事務的な口調で訂正に入る。
「書類を突き返したのは、予算計算の桁が三つずれていたからです。そのまま通せば国庫が破綻しておりました。ドレスに関しては、『王家主催の公式行事にパジャマのような薄手の綿素材で参加するのはマナー違反であり、貴族院から苦情が来ます』と進言したまでです」
「うるさい! そういう理屈っぽいところが可愛くないと言っているんだ!」
ジェラルド殿下は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「俺が求めているのは、俺を支え、癒してくれる存在だ。貴様のように俺の意見にいちいち赤ペンを入れてくる女ではない!」
ああ、なるほど。
彼は気づいていないのだ。彼がこれまで出した決済書類の九割が、私の赤ペン修正によってまともな形に整えられていたことを。
私の徹夜の修正作業がなければ、今頃この国は隣国との貿易協定で植民地同然の条件を飲まされていたことすら、彼は知らない。
だが、もういい。
王太子妃教育係としての義務は、今この瞬間に消滅した。
「つまり殿下は、私の能力も、人格も、存在そのものが不要であると仰るのですね?」
「くどい! その通りだ! 顔も見たくない、今すぐ俺の前から消え失せろ!」
その言葉を、待っていた。
私は口元の笑みを扇で隠し、ドレスのポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
それは自ら青白く発光する特殊なインクで綴られた、魔法契約書。
十年前に交わされた、王家と公爵家の婚約に関する合意文書である。
「では殿下。こちらの『精霊誓約書』第5条に基づき、事務的な処理に移らせていただきます」
「……あ? なんだそれは」
殿下は怪訝な顔をするが、私の手元を見た瞬間、後ろに控えていた宰相――私の過酷な労働環境を知りつつ黙認していた古狸――の顔色が、一瞬で土気色に変わった。
「ま、待てリリス嬢! まさかそれをここで発動する気か!?」
「遅いですわ、宰相閣下。――『執行』」
宰相が慌てて衛兵に合図を送ろうとするより速く、私は魔力を流し込んだ。
瞬間、羊皮紙がカッとまばゆい光を放ち、大広間の空中に巨大な光の文字を投影した。
『精霊誓約書 第5条適用』
『甲(王太子)の有責による一方的な婚約破棄、および乙への名誉毀損を確認』
『これより、違約金の強制徴収プロセスを開始します』
感情のない精霊の声が響き渡る。
ジェラルド殿下はぽかんと口を開けた。
「い、違約金だと? ふん、金か。くれてやる。公爵家の娘ごときが欲しがる小遣い銭など、王家の資産なら痛くも痒くも――」
「ご安心ください殿下。皆様にご迷惑がかからないよう、事前に試算してまいりました」
私は空中に次々と表示される明細を指し示した。
「まず、過去十年間における私の王太子妃教育費および精神的苦痛への慰謝料。次に、私が代行した公務の未払い労働賃金(※深夜割増・休日出勤手当含む)。そして何より重要なのが、『次期王妃としての将来を奪われたことによる逸失利益』です」
パラパラと、光の数字がカウントアップしていく。
その桁が「億」を超え、「兆」に届こうとした時、会場の貴族たちから悲鳴が上がった。
「――締めて、国家予算の約三年分となります」
シーン、と静まり返る大広間。
ミナ嬢が「えっ、ゼロがいっぱい……」と間の抜けた声を漏らす。
「な、な……っ!?」
ジェラルド殿下の目が飛び出さんばかりに見開かれた。
「ふ、ふざけるな! そんな金、払えるわけがないだろう! 王家の全財産を売っても足りないぞ!」
「ええ、存じております。現金では到底足りません」
私はニッコリと微笑み、最後の一手を打った。
これは十年前、まだ幼かった殿下が「サイン? いいよいいよ、僕のものはリリスのものの判子だろ?」と中身も読まずに署名し、国王陛下も「公爵家の機嫌が取れるなら」と安易に承認印を押した、悪魔の契約書なのだ。
「契約書第6条。『現金での支払いが不可能な場合、王家の保有する領土、および人的資産による代物弁済を認める』」
「りょ、領土だと……!?」
「はい。具体的には、南の海に浮かぶ『旧王領ハデス島』の全権利を頂戴いたします」
ハデス島。
かつては牢獄として使われ、現在はただの荒れ地となっている孤島だ。貴族たちは「あんなゴミ捨て場を?」と首を傾げたが、宰相だけは「まさか、あそこには古代の……ッ!」と何かを察して膝から崩れ落ちた。
「加えて、この違約金に見合う『人材』も譲渡していただきます」
私は懐から魔石を取り出し、空中にホログラムのリストを展開した。
ずらりと並んだ名前に、会場がどよめく。
「王宮の事務方トップ、近衛騎士団の精鋭部隊、宮廷料理長……。ここにある三百名は、私の退職に伴い『リリス様についていきたい』と自ら嘆願書を出した者たちです。殿下の許可があれば、彼らの雇用契約は即座に私へと移管されます」
「なっ……こいつら全員がか!?」
「ええ。殿下は仰いましたよね? 私の顔も見たくないと。ここにいる全員、私の直属の部下であり『私の顔色を伺って仕事をする連中』です。彼らがいては、殿下の目障りでしょう?」
これは詭弁だ。
だが、混乱したジェラルド殿下には、これが「自分の取り巻きを一掃できる好機」に見えたのだろう。
「ふ、ふん! ああそうだ! 貴様の手垢がついた部下などいらん! 全員連れて、その島へでもどこへでも行け!」
『契約成立』
精霊の声が厳かに告げた。
その瞬間、私は彼らに背を向け、出口へと歩き出した。
背筋を伸ばし、一度も振り返らない。
背後でようやく事の重大さに気づいた文官たちが、「ま、待て! 料理長がいなくなったら明日の晩餐会はどうなる!」「財務官が全員辞めたら誰が計算するんだ!」と叫ぶ阿鼻叫喚が聞こえるが、もはや知ったことではない。
(ああ……やっと、眠れる)
私の頭の中は、これから手に入れる最高級の羽毛布団と、目覚まし時計のない朝のことでいっぱいだった。
これこそが、十年間の社畜生活の果てに私が勝ち取った『ハッピーエンド(退職)』なのだから。




