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触れない距離 ――一時間だけの夫と、結婚十五年目の私  作者: オレンジ


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9/14

残り十分

時計を意識してから、時間の流れが変わった。


 さっきまで、あんなに自然に続いていた会話が、少しだけ慎重になる。

 言葉を選ぶ、というよりも、終わりをなぞるような感覚。


 ——このまま、続けばいいのに。


 そんな気持ちが、ふっと浮かんでしまう。


 慌てて、打ち消す。


 続くわけがない。

 続けてはいけない。


 私は、ちゃんと帰らなきゃいけない。


 誠のいる家に。

 子どもたちの待つ日常に。


 それが、私の現実だ。


 「……もうすぐ、時間ですね」


 リオが、穏やかな声で言った。


 「そうですね」


 分かっていたはずなのに、改めて言われると、胸の奥が少しだけ痛む。


 この一時間は、不思議な時間だった。

 触れられていないのに、ちゃんと向き合われていた。


 女として見られている、という感覚。

 それだけで、こんなにも満たされるなんて思わなかった。


 「また、よかったら」


 リオが、少しだけ間を置いて続ける。


 「話しましょう。花帆さんと話すの、楽しかったです」


 営業トーク。

 そうだと、分かっている。


 でも。


 胸の奥が、素直に喜んでしまうのを止められなかった。


 楽しかった、と言われること。

 それが、こんなにも嬉しいなんて。


 私は、小さく笑ってから、首を振った。


 「……ありがとうございます。でも、今日だけにします」


 言葉にした瞬間、覚悟が少しだけ固まる。


 「この一時間だけって、決めてきたので」


 リオは、驚いたような顔をするでもなく、静かに頷いた。


 「そうですか」


 否定しない。

 引き止めもしない。


 その態度が、ありがたかった。


 「それでも」


 彼は、やわらかく続ける。


 「今日の時間が、花帆さんにとって、いいものだったなら」


 それで十分です、と。


 私は、ゆっくり息を吸って、頷いた。


 いい時間だった。

 確かに。


 それは、嘘じゃない。


 時計を見る。

 ちょうど、一時間。


 私はバッグを持ち、席を立つ。


 「……ありがとうございました」


 この言葉に、いろんな気持ちを込めて。


 リオも立ち上がり、軽く頭を下げた。


 「こちらこそ」


 店の出口へ向かう途中、振り返りはしなかった。

 振り返ったら、きっと、決めたことが揺らいでしまう。


 外に出ると、昼の光がまぶしい。


 深呼吸をひとつ。


 ——帰ろう。


 私は、現実へ足を向けた。


 胸の奥には、まだ温かさが残っている。

 それを抱えたまま、日常に戻ることを選んだ。


 この一時間は、確かに、私のものだった。



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